♯005『歪んだ弾頭』(2025.12.7)
時刻が、昨日から明日へと切り替わる深夜。
それまで仰いでいた黒い世界の向こうから、アスファルトに生えるように立ち尽くす自分に向けて激しい雨が撃ち込まれる。
叩きつける雨粒が、身体を凍てつきで殺さんばかりの冷たい雨を彼女────高城涼子(たかぎ りょうこ)を叩きふせんとする。一定の心臓の鼓動に相反するように、土砂降りの大きな雨粒は絶え間なく、不規則なリズムを彼女の体に刻みこんでいた。
二十六歳の涼子は、ほんの少し前……一ヶ月前までは市内の大手外資系企業で働く、どこにでもいるOLだった。
今は違う。
彼女は、親友である高宮美咲(たかみや みさき)殺害の容疑者として、全国に指名手配されている逃亡犯だ。
美咲と同じ部署で、美咲の友人である三平友美(みひら ともみ)が自らの体を張って虚言で警察を混乱させている間に、友美の車で一時的な逃走が可能になった。
友美は何も聞かなかった。友美は「美咲が信じた友人だから」と全てを理解した真剣な顔で涼子を見つめ返した。涼子はその真摯な眼差しを全く疑わなかった。疑う余地などない。美咲が以前から、「ウチの社内に仲の良い友達ができたから今度紹介するね」と楽しそうに話していた。その美咲が恃んだ友人が友美だ。美咲の友情に感謝だ。そして、それを知りながらも協力してくれる友美にも感謝。
美咲が全幅の信頼を置いた友人。
恐らく、美咲に迫る危機を知らされていたのだろう。
友美も美咲の為に、美咲を守るために奔走していたのだろう。彼女が信じた友人の友美。こんな形で美咲を介さずに友美と知り合いになるのは寂寥の限りだが、同じ社内にも味方が居るのは心強かった。
そして始まった逃亡生活。
美咲の遺体発見現場で見つかった証拠の全てが、涼子が犯人であると指し示していた。────指紋、微かな繊維、そして決定的な動機である、美咲の持つ機密情報を巡る社外秘の情報が入ったSDカード。
勿論、捏造された動機だ。警察は物的証拠だけで涼子を重要参考人として『断定』したが、涼子だけは知っている。
真犯人は別にいる。
そしてその犯人が涼子の人生、美咲の命、全てを奪った黒幕であることを。
涼子の唯一の武器は、曽祖父の遺品である旧式の中型自動拳銃ブローニング M1910。
ベルギーの当時のブローニング社が製造した、スリムで持ち運びやすい自動拳銃で三十二口径七連発だ。
その小さな銃が涼子の掌で冷たく、重く存在を主張していた。
涼子が逃走のために大型ボストンバッグを探すべく倉庫を漁っている時に、この銃が仕舞われた古ぼけた木箱を見つけて、『中身を手に取った』。
それが涼子の逃走……否、闘争のために必要な覚悟を後押しする直接の導火線となった。
この銃を偶然自宅の倉庫で発見していなかったら、『一ヶ月も追っ手の警察から逃げ切れないでいただろう』。
まだ人に向けて発砲したことはない。
潜伏先の倉庫街の鼻先にある、暗い海に向かって2発、撃った。
それだけだ。
照準の精度を確かめる発砲ではなく、百年近く前に製造されたらしい実包が使えるかどうか試しただけだ。
涼子は古い倉庫の片隅で……パーテーションだけで仕切られた、窓の無い物置のような部屋で、弾倉を本体から抜きだし、残弾を数えた。
「七……八……九……十……」
予備の実包も含めて残弾は、たったの十発。
ブローニング M1910は装弾数七発。つまり、一発装填された状態でフルロードすると、弾倉に七発、薬室に一発の計八発の装弾が可能だ。残念な事に彼女にはフルロードという知識も知恵もない。
現在、予備の弾薬は三発。
合計十発で、涼子は黒幕を仕留め、自分が無実であることを証明しなくてはならない立場にいる。
弾が尽きれば、待っているのは逮捕か、或いは真犯人の手による口封じだ。それは想像に難くない。そもそも、この拳銃を手にしなければ無様に逃げ回ることしかできなかったろう。逃げ回ることもできなかっただろう。
この銃を威嚇のために何度か衆人環視の中で抜いた。
もう逃げられない。
彼女を撮影したのは街角の防犯カメラだけではない。その場に居た衆人のスマートフォンにも収まっているはずだ。
涼子は追われつつも、執念深く調査を続けた。……真犯人を探し出す調査は『美咲の親友である涼子だから簡単だった』。『真犯人と恋仲にあった美咲と親友であった涼子だから簡単だった』。逐一、涼子に情報を与えてくれたのは、友美だ。彼女は危ない橋を渡って買ったという飛ばしケータイを友美に手渡したり、自分の貯金から切り崩したという僅かな金額を陰ながらに援助してくれた。社内の神崎の動向を分かる範囲で調べて知らせてくれたのも友美だった。……友美にとって殺害された美咲はただならぬ仲だったのだろう。ますますもってこんな形で仲良くなりたくなかった。
美咲が残したスマートフォン。それ自体は警察に押収されたが、美咲が殺される前日にスマートフォンから抜き取ったSDカードを涼子は受け取っていた。
その時は何の事なのか、何のためのSDカードなのか全く理解できなかった。
SDカードの中身の重要性を知ったのは、美咲が殺害されて、自分が重要参考人として警察にマークされているらしいという噂を聞いた時に、思い出したようにSDカードを自分のスマートフォンで再生し、中身を閲覧して『その重大性に気が付いた』。
SDカードに収まった十数枚のファイルに『首謀者』と思わしき人物の名前が確認された。それが、美咲との恋中であった人物――――神崎徹(かんざき とおる)。
涼子の元上司であり、社外秘の情報を横流ししようとしていた張本人だ。
美咲は――どのような経緯で知ったのかは今では不明だが――その横流しの証拠を掴み、神崎はそれを知って美咲を殺害し、涼子に罪をなすりつけた。
涼子を犯人に仕立て上げるために持たせた『証拠物件』として、偽物の社外秘の情報が収まったUSBメモリを現場に残した。
偽物のUSBメモリを用いて涼子を犯人に仕立て上げる計画が記載されたファイルもある。電子データの信憑性が法的に争う証拠となるのなら、それは偽造や改竄が容易な現代では勝訴に至る決定打としては非常に微弱だ。
美咲が自身の身の危険を感じて涼子に託したSDカードも偽物だというのなら完全な手詰まりだが、正直なところ、涼子の本心は違う動機によって突き動かされていた。
自分の経歴や身の安全などどうでも良かったのだ。
自身が何かの陰謀に巻き込まれた事実は認識しているが、それの規模は大して重要だと思っていない。
彼女はただただ、世間の悪意の奥底に潜む『普通の憤怒』の感情に飲み込まれていた。
自分を観察し、事実と感情を切り分けて、問題から生まれる悩みを解消するという理性的な思考を、容易く放棄していた。
何が重要で何が重要でないか? ……それを選別して順位付けするためには『感情』が必要だ。その上で目の前に数多ある、為すべき事を順位付けし、悩みを各個撃破する。
その理性的感情による判断はとうに捨てた。
『普通の憤怒』の感情。
これが決定的な動機として定まったのは、親友の美咲の死だ。
どこかの誰かが、自分の権益のために美咲を殺した。
それだけ。
たったそれだけの理由で涼子は『法的手続きでの解決を放棄して、純粋な暴力だけで自分の心に巣食う不快な感情を晴らさんと奮起している』。……彼女の背中を押したのは、偶然手に入れた中型自動拳銃だ。そして美咲の死後に涼子の逃走の手伝いを陰ながら支えてくれた友美の存在。
拳銃がどの程度の威力なのかは知らない。暗い海に向かって試し撃ちをしただけだ。
命中精度や威力は知らない。彼女の知識の外の話だ。
人間は自分の知識の範疇の中でしか喜怒哀楽を表現できない。涼子が観測できる世界では、銃声とはこんなもので、反動とはこの程度のものである、という主観的事実のみだった。そこに驚きも恐れも無い。
自分でも信じられないほどニュートラルな感情で、法治国家の日本では、違法アイテムのアイコンである拳銃を握っていた。
今から思えばそれはニュートラルではなく、余計な感情を切り捨てた瞬間の空白ではなかったのか? とさえ思う。
脳機能の恒常性。
拳銃を撃つ直前まで緊張でアドレナリンが沸騰していたのに、撃った数秒後から脳から血の気が引くような感覚を覚えて、様々な雑念や情報や感情が足の裏から冷たいコンクリートに流れ出るような錯覚を感じた。
安全装置という物らしいレバーを操作して、人差し指を眺めていると、心に涼しい風が吹いた。
次の瞬間には、腹の奥底からドス黒い衝動が湧き出るのを感じ、血液が沸騰した。
高揚感。万能感。自己効力感。……それらを纏った暴力衝動が腹と頭と胸で同時に噴出するのを実感した。
この拳銃が有れば何でもできる! 美咲を殺したヤツを殺す事ができる! 世界中、どこでも生きていける!
それからだ。
涼子が、自分の無実を証明するという『都合のいい大義名分』の名のもとに、美咲の復讐と真犯人への反撃を『混同して目標とした』のは。
警察の執拗な尾行を振り切り、尾行から追跡に変わっても、追跡から指名手配に変わっても、彼女は逃げ続けた。そして真犯人の神崎徹を追い続けた。追い続ける事が出来た。今も追い続けている。
※ ※ ※
涼子の執念と暴力的動機が今夜、実を結ぼうとしている。
情報収集と尾行により、涼子は神崎が今夜、隣県港湾部の廃工場で、闇ブローカーの仲介で裏社会の人間と取引を行うことを突き止めた。
取引のブリーフケースの中には、美咲が命を懸けて集めた、神崎の横領と情報漏洩の全ての証拠が収められている。
美咲が集めたSDカードの情報は恐らくはそのコピー。その可能性が高い。中身の審議の確認は電子署名が証明してくれるだろうが、それは涼子の興味の範疇ではない。
美咲の復讐と真犯人への反撃。
それが直接の目的。
表向きの『無実の証明のための行動』は、彼女が自分の心のうちに渦巻くどす黒い感情を言語化したくないので、見て見ぬふりをした結果、自分を慰める防衛機制として、これから行おうとする暴力の大義名分に『無実の証明のための行動』を掲げたのだ。
涼子は立ち上がった。全身に緊張が走る。いやな冷や汗が背筋を這う。
――――十発。この十発で……。
――――私の人生を取り戻す。美咲を殺した神崎を殺す。どこまでも逃げる。
歪んだ怒りと抑えられない悲しみの感情に飲み込まれたままの、目的と目標が混同している涼子の脳内ではあらゆる歪んだ思考が渦巻いていた。
『自分の感情を晴らすためにも倒すべき人間は殺すべきで、存在を否定すべき。』
『この世には倒すべき人間とそうでない人間がいる。』
『倒すべき人間を倒せば全ての問題がたちどころに消える。』
『ここで倒さなければ、未来永劫、自分は惨めなまま。』
『自分は引き金を引くだけの矮小な存在であると同時に、目的のために引き金を引ける偉大な人間である。』
『世の中の全てが悪い。その中でも倒すべき人間は絶対の敵である。』
『自分の感情こそが本質であり、そこへは誰しもが立ち入ることができない。』
『それに美咲は自分と出会わなければ死ぬことはなかった』
……という感情を全く処理しきれないまま、その状態そのものを原動力として警察を振り切り、真犯人の神崎の手の届くところまできた。負の成功体験が彼女の思考の歪みに加速を促していた。
彼女はブローニング M1910を黄土色のジャケットの右ハンドウォームポケットに隠し、夜の闇へと飛び出した。
飛び出した倉庫街の元管理事務所を背後にし、目指すは、倉庫街を抜けた先にある港湾埠頭部へ通じる途中にある廃工場。元は規模の小さな紡績工場だったらしい。
廃工場は、生臭い潮風と血を思わせる錆の臭いが混ざった、陰鬱な空気に包まれていた。
月明かりのない夜。光源が乏しい。
廃工場の巨大な影が、暗い中にあって一層暗く見える。その姿は恰も、涼子を飲み込もうとする巨大な怪物のようだった。
涼子は廃工場へと歩みを進める。今更警戒も何も無い。
ポケットからブローニング自動拳銃を抜き、歩きながら安全装置を解除して、渾身の膂力を振り絞ってスライドを引く。ブローニングの三十二口径モデルは九ミリ口径モデルと比べるとスライドは軽いが、曾祖父が軍隊で居た頃に使っていた骨董品だ。クリーニングやメンテナンスの概念を知らない涼子は、分解して清掃などしていない。稼働するであろう部分に機械オイルのスプレーを吹き付けただけの処置しかしていない。三十二口径の実包に至っては、ホームセンターで売られている金属用研磨剤で浮いた錆を落としただけだ。
廃工場に足を踏み入れて左右を確認。
人の気配がする。直ぐ近く。
目の前の階段を登り切った位置で話をしているのだろう。それほどに近い距離だった。
喉が渇く。冷たいのか熱いのか分からない脂汗が背中や腋から滲みだす。今すぐにここで冷水を飲めないと思うと、冷水に対する渇望が強くなる。
ブローニング自動拳銃を両手で構える。拳銃の構え方は動画サイトで見て覚えた。何という名前の構え方だったのかは失念したが、閉鎖的な空間で用いる拳銃の構え方らしい。似たような構えをアメリカのアクション映画の中で見たことが有るので、拳銃の構え方を選んだのは強ち、大きな間違いを犯しているとは思わなかった。屋外や距離別、用途別の拳銃の構え方や狙い方があるらしいが、それらを極めている時間はない。達人になってから戦場に出ていたのでは遅いのだ。
それにたったの十発しか残弾は無い。弾倉を抜いて三発も注ぎ足しをさせてくれる時間を与えてくれるとは思えない。今夜、今ここで、速やかに、勝負を付けなければ涼子は死ぬ。死ぬだろう。死ぬしかない選択肢しか残されていないだろう。
神崎一人ならば十発は釣銭が返ってくるほどの分量だが、『状況を鑑みて』それは望みが薄い。
工場の二階。
窓から差す月明りや外灯の明かり以外の光源に乏しい。
崩れたコンクリートの壁の向こう側から、神崎と男、そしてその警護と思しき男たちの声が聞こえてきた。背中を壁に押し当てて耳をそばだてる。
「……これで最後だ。このデータさえ渡せば、俺は良い椅子に座れるわけだ」
神崎の声には、興奮と僅かな震えが混ざっていた。
今すぐにでも神崎の前に飛び出して、有りっ丈のタマを叩き込んでやりたかった。逸り猛る心を舌の根を噛んで自分を宥めさせる。
尚も続く会話。
「分かっている。……だが、お前の尻尾はまだ掴まれたままだ。あの女はどうした? 『情報の一部』を握ったままだろ? いつ片付くんだ?」
やや掠れ声の男の声が低く響く。
「あの女は今頃、警察に追われて身動きが取れない。もし出てきても俺の方の『身内』が片付ける。それに、だ。あの女には本物の情報なんて何も与えていない。如何にも大事そうな演技でSDカードを扱っていたら、俺のスケが妙な正義感を出して勝手に持ち出してくれた」
「酷い奴だな。お前の『身内』が殺した女だろ? 可愛かったんじゃないのか?」
「『こんな時の為に飼っている何人かいる使い捨て』の一人だ。俺の読み通りに動いてくれたから色々と手間が省けたよ。同じ女でもワルばかりじゃ、考え方が似たり寄ったりになる。中には正義の味方気取りも飼いならしておいて損はない」
「本当に酷い奴だな。尊敬するぜ」
じっと耳を澄ませていた涼子の歯を食いしばる音が、ひび割れたコンクリの壁に静かに吸い込まれていく。
――――私を…….. 片付ける……。
――――美咲は……こんなくだらないことで!
やがて、埃と黴の臭いに交じって煙草の煙が漂い始める。連中は相変わらず談笑しながら、自分たちの作戦が順風満帆に進んでいることを褒め合っていた。涼子は頭に血が上る自分に気が付いた。深呼吸をして鼓動の鎮静のために酸素を送る。
そばだてる鼓膜に異音が少し混じる。
連中の足音がする。神崎。警護の二人。それと取引相手。合計4人の足音。会話や声の内容から、この壁一枚向こうに居る人間は全員男だと判明した。
何も全員に銃弾を叩き込む必要は無い。
理想を言えば、神崎だけを分離させて、誰も知らぬところで有りっ丈の三十二口径を叩き込むことができれば本懐を成し遂げられる。
『本来の自分の無実の証明』は法的に証明されるだろうが、自分が非合法な銃で法律から外れた私的制裁を神崎に下した事実はどう考えても覆らない。……涼子が自身に言い聞かせて納得させている大義名分は、彼女が自力で至った行動の動機ではなく、マスコミが『犯人は尚も逃走中』という報道を聞いて、そこからストーリーを脳内で組み立てて自分に言い聞かせたのが始まりだ。
『無実の証明のための逃避行』だと世間は思っている。警察は事実は関係なく指名手配だから追いかけて来る。涼子は『憐れな弱者ゆえに道を間違えた犯罪者』という自分の世間での立ち位置を利用しているだけだ。自分の行いを正当化させるための拙い防衛機制だ。
根底は『普通の怒りの感情』。
何処の誰もが抱く喜怒哀楽の感情の一つ。
その一つが認知の歪みを伴い、また、ネガティブな成功体験に強化され、更に自分の暴力衝動を何十倍何百倍にも増大してくれるブローニング自動拳銃との出会いで、事実と感情の切り分けができないほどに……『自分の感情が、この世の全ての事実である』というまでに増強され、今に至る。
不幸にもそれが彼女の自己効力感を劇的に高めてしまい、発砲こそはしなかったが、今に至るまでに情報収集の上で恫喝する際に何度も銃を抜いた。
追っ手の警官を威嚇するために銃を抜いた。
逃走資金を確保するために、強盗まがいだと分かっていても銃を抜いて金品を奪った。
涼子の行動は破綻の一途を辿るのみ。
そんな彼女が、今この瞬間に前非を悔悟するわけがない。
『神崎を打ち倒せば全ての問題が消えてなくなる』という考えに、いびつに変形しつつある。
――――誰が止められるものか。
――――自分には銃がある。
涼子は下唇を舌先で軽く湿らせると、漸く食べられるご褒美のケーキを前にした子供のように無垢な微笑みを浮かべた。
興奮による感情の混乱などではなく、今すぐに神崎に銃弾を叩き込める快感を想像して、感情が前借した多幸感に襲われている。
ブローニング自動拳銃を握り直す。
両手で構え、銃把の底部にあるボタンを押して残弾を確認する。六発、装弾されている。先ほどスライドを引いたので、薬室には一発。拳銃には全く素人の彼女には、薬室にあらかじめ一発送り込んで、再び弾倉に一発装弾するという思考や概念は皆無だ。
弾倉を差し込む。機械オイルを吹き付けただけのスライドと呼ばれる部分は軽く浅く引くとやや軋みながらも作動した。比較する銃を知らないので、自動拳銃とはそんなものだという感想しかない。そもそも、その状態でスライドを最後まで引けば、薬室に送り込まれている実包が無為に弾き出されるリスクが有るのを知らない。
「!」
来た。
取引とは関係の無い談笑が終わり、足音がこちらに向かってくる。こちらに向かってくる足音が複数聞こえる。
さあ、ここで突然飛び出て乱射してやろうか?
それでは神崎を確実に仕留められない。
目的は全員の殺害ではない。
目的は神崎一人。
目的は神崎に確実に銃弾を叩き込む事。
神崎の今わの際を鑑賞できたのなら、その直後に射殺されても思い残すことは無い。
……『神崎一人の殺害を完遂する』ことだけで頭が一杯なのではなく、それ以降を考える余裕が無いのではなく、神崎の不幸を見届けたいだけという思考の停止が、彼女の未来の選択肢を奪っているのだ。
――――ここまで来て引き返すのはナシでしょ!
そんな囁きが心の中で聞こえたかと思うと、彼女の体はゆらりと幽鬼のように動き、それまで纏っていた緊張と興奮を脱ぎ捨てた顔と所作で、手を差し伸べるような滑らかな動きで、ブローニング自動拳銃を構えながら、男たちがたむろしている空間へと忍び込み、引き金を引き絞った。
少し前に夜の海に向かって発砲した時と同じ反動を感じたのに、目の前に広がる風景や、鼓膜を貫く銃声は涼子を『ほんの僅かの間だけ』、正常な思考を取り戻させた。
――――あれ?
――――何してるんだっけ?
――――そう、神崎! 神崎は?
内部は巨大なガランとした空間で、巨大な機械のシルエットが不気味な彫像のように並んでいる。
コンマ数秒の銃火の明かりで、神崎が居たであろう空間を把握し、自分が打ち倒すべく存在していなければならない神崎を視認し、その他の存在の位置や驚愕の顔も確認した。
全てがスローモーションの世界。
目や耳が拾う情報量が多過ぎて脳が処理できなくなり、一時的に感覚からの情報取得を緩慢にして、その分の認知的処理を前頭葉に一気に集中させた結果だ。
その全てがスローモーションの世界で、神崎に非常に酷似した男が喉仏辺りに小さな穴を拵えて、自分に何が起きたのか分からない顔をしたまま仰向けになるのが確認できた。
彼我の距離、八m。
彼女の銃にとってその距離は近いのか遠いのか判断しようがない。ただ、照準と照星というものは土壇場では思ったほど役に立たないものだという知識を得た。
神崎に酷似した男が地面に大の字になって倒れる頃には、その他の男たちも懐や腰から拳銃を抜き出すのが見えた。
何処のなんという名前の銃なのかは知らないが、短い銃身のリボルバーが一挺と、掌に乗るような小さな自動拳銃が二挺、確認できた。
撃鉄を起こす男。
小さなスライドを引く男たち。
再び大脳辺縁系が、湧き出る興奮にハッキングされた涼子が、ブローニング自動拳銃を構えて立て続けに二発、発砲した。その銃口は神崎に酷似した男が大の字に寝転がっている場所と大して離れていない部分を適当に狙う。
涼子が危機管理能力を発揮して発砲したのではない。体が勝手に反応したのだ。残弾が何発だとか、退路の確保だとか、『まだ神崎は仕留めていない』とか、そのような事柄まで考えは及んでいない。
初めて人を撃った感想を噛み締めていることも無い。元から人を殺すつもりで所持していた銃なのだから、撃てば誰かに当たり、誰かに当たれば怪我もするし死ぬこともあるだろう。
関心事は、涼子は神崎を仕留めた実感が皆無なので、彼女の頭の中では『神崎はまだどこかで無事に生きている』という認識だ。
ゆえに、神崎を探すべく、神崎を探す障害になるであろう余計な存在である三人の男を視界からどかせる感覚で引き金を引いた。
歩くのに蟻を踏み潰す事を心配する人間はいない。それと同じ心境。神崎を殺すのに邪魔な人間を視界から消すのは当たり前。
放った二発の三十二口径の弾頭は目の前の男たちを左右に飛びのかせた。誰も怪我をしていないようだ。『ああ、よかった。まだ自分は殺人者ではない』。
やがて回復する思考。脳の恒常性が、通常営業を取り戻しつつある。
「何モンだぁ! 女ぁ!」
右手側のコンクリの柱の陰に逃げ込んだ男が声を張り上げる。その男の声をかき消すような軽い銃声が涼子を襲う。
「神崎!」
それまで仰いでいた黒い世界の向こうから、アスファルトに生えるように立ち尽くす自分に向けて激しい雨が撃ち込まれる。
叩きつける雨粒が、身体を凍てつきで殺さんばかりの冷たい雨を彼女────高城涼子(たかぎ りょうこ)を叩きふせんとする。一定の心臓の鼓動に相反するように、土砂降りの大きな雨粒は絶え間なく、不規則なリズムを彼女の体に刻みこんでいた。
二十六歳の涼子は、ほんの少し前……一ヶ月前までは市内の大手外資系企業で働く、どこにでもいるOLだった。
今は違う。
彼女は、親友である高宮美咲(たかみや みさき)殺害の容疑者として、全国に指名手配されている逃亡犯だ。
美咲と同じ部署で、美咲の友人である三平友美(みひら ともみ)が自らの体を張って虚言で警察を混乱させている間に、友美の車で一時的な逃走が可能になった。
友美は何も聞かなかった。友美は「美咲が信じた友人だから」と全てを理解した真剣な顔で涼子を見つめ返した。涼子はその真摯な眼差しを全く疑わなかった。疑う余地などない。美咲が以前から、「ウチの社内に仲の良い友達ができたから今度紹介するね」と楽しそうに話していた。その美咲が恃んだ友人が友美だ。美咲の友情に感謝だ。そして、それを知りながらも協力してくれる友美にも感謝。
美咲が全幅の信頼を置いた友人。
恐らく、美咲に迫る危機を知らされていたのだろう。
友美も美咲の為に、美咲を守るために奔走していたのだろう。彼女が信じた友人の友美。こんな形で美咲を介さずに友美と知り合いになるのは寂寥の限りだが、同じ社内にも味方が居るのは心強かった。
そして始まった逃亡生活。
美咲の遺体発見現場で見つかった証拠の全てが、涼子が犯人であると指し示していた。────指紋、微かな繊維、そして決定的な動機である、美咲の持つ機密情報を巡る社外秘の情報が入ったSDカード。
勿論、捏造された動機だ。警察は物的証拠だけで涼子を重要参考人として『断定』したが、涼子だけは知っている。
真犯人は別にいる。
そしてその犯人が涼子の人生、美咲の命、全てを奪った黒幕であることを。
涼子の唯一の武器は、曽祖父の遺品である旧式の中型自動拳銃ブローニング M1910。
ベルギーの当時のブローニング社が製造した、スリムで持ち運びやすい自動拳銃で三十二口径七連発だ。
その小さな銃が涼子の掌で冷たく、重く存在を主張していた。
涼子が逃走のために大型ボストンバッグを探すべく倉庫を漁っている時に、この銃が仕舞われた古ぼけた木箱を見つけて、『中身を手に取った』。
それが涼子の逃走……否、闘争のために必要な覚悟を後押しする直接の導火線となった。
この銃を偶然自宅の倉庫で発見していなかったら、『一ヶ月も追っ手の警察から逃げ切れないでいただろう』。
まだ人に向けて発砲したことはない。
潜伏先の倉庫街の鼻先にある、暗い海に向かって2発、撃った。
それだけだ。
照準の精度を確かめる発砲ではなく、百年近く前に製造されたらしい実包が使えるかどうか試しただけだ。
涼子は古い倉庫の片隅で……パーテーションだけで仕切られた、窓の無い物置のような部屋で、弾倉を本体から抜きだし、残弾を数えた。
「七……八……九……十……」
予備の実包も含めて残弾は、たったの十発。
ブローニング M1910は装弾数七発。つまり、一発装填された状態でフルロードすると、弾倉に七発、薬室に一発の計八発の装弾が可能だ。残念な事に彼女にはフルロードという知識も知恵もない。
現在、予備の弾薬は三発。
合計十発で、涼子は黒幕を仕留め、自分が無実であることを証明しなくてはならない立場にいる。
弾が尽きれば、待っているのは逮捕か、或いは真犯人の手による口封じだ。それは想像に難くない。そもそも、この拳銃を手にしなければ無様に逃げ回ることしかできなかったろう。逃げ回ることもできなかっただろう。
この銃を威嚇のために何度か衆人環視の中で抜いた。
もう逃げられない。
彼女を撮影したのは街角の防犯カメラだけではない。その場に居た衆人のスマートフォンにも収まっているはずだ。
涼子は追われつつも、執念深く調査を続けた。……真犯人を探し出す調査は『美咲の親友である涼子だから簡単だった』。『真犯人と恋仲にあった美咲と親友であった涼子だから簡単だった』。逐一、涼子に情報を与えてくれたのは、友美だ。彼女は危ない橋を渡って買ったという飛ばしケータイを友美に手渡したり、自分の貯金から切り崩したという僅かな金額を陰ながらに援助してくれた。社内の神崎の動向を分かる範囲で調べて知らせてくれたのも友美だった。……友美にとって殺害された美咲はただならぬ仲だったのだろう。ますますもってこんな形で仲良くなりたくなかった。
美咲が残したスマートフォン。それ自体は警察に押収されたが、美咲が殺される前日にスマートフォンから抜き取ったSDカードを涼子は受け取っていた。
その時は何の事なのか、何のためのSDカードなのか全く理解できなかった。
SDカードの中身の重要性を知ったのは、美咲が殺害されて、自分が重要参考人として警察にマークされているらしいという噂を聞いた時に、思い出したようにSDカードを自分のスマートフォンで再生し、中身を閲覧して『その重大性に気が付いた』。
SDカードに収まった十数枚のファイルに『首謀者』と思わしき人物の名前が確認された。それが、美咲との恋中であった人物――――神崎徹(かんざき とおる)。
涼子の元上司であり、社外秘の情報を横流ししようとしていた張本人だ。
美咲は――どのような経緯で知ったのかは今では不明だが――その横流しの証拠を掴み、神崎はそれを知って美咲を殺害し、涼子に罪をなすりつけた。
涼子を犯人に仕立て上げるために持たせた『証拠物件』として、偽物の社外秘の情報が収まったUSBメモリを現場に残した。
偽物のUSBメモリを用いて涼子を犯人に仕立て上げる計画が記載されたファイルもある。電子データの信憑性が法的に争う証拠となるのなら、それは偽造や改竄が容易な現代では勝訴に至る決定打としては非常に微弱だ。
美咲が自身の身の危険を感じて涼子に託したSDカードも偽物だというのなら完全な手詰まりだが、正直なところ、涼子の本心は違う動機によって突き動かされていた。
自分の経歴や身の安全などどうでも良かったのだ。
自身が何かの陰謀に巻き込まれた事実は認識しているが、それの規模は大して重要だと思っていない。
彼女はただただ、世間の悪意の奥底に潜む『普通の憤怒』の感情に飲み込まれていた。
自分を観察し、事実と感情を切り分けて、問題から生まれる悩みを解消するという理性的な思考を、容易く放棄していた。
何が重要で何が重要でないか? ……それを選別して順位付けするためには『感情』が必要だ。その上で目の前に数多ある、為すべき事を順位付けし、悩みを各個撃破する。
その理性的感情による判断はとうに捨てた。
『普通の憤怒』の感情。
これが決定的な動機として定まったのは、親友の美咲の死だ。
どこかの誰かが、自分の権益のために美咲を殺した。
それだけ。
たったそれだけの理由で涼子は『法的手続きでの解決を放棄して、純粋な暴力だけで自分の心に巣食う不快な感情を晴らさんと奮起している』。……彼女の背中を押したのは、偶然手に入れた中型自動拳銃だ。そして美咲の死後に涼子の逃走の手伝いを陰ながら支えてくれた友美の存在。
拳銃がどの程度の威力なのかは知らない。暗い海に向かって試し撃ちをしただけだ。
命中精度や威力は知らない。彼女の知識の外の話だ。
人間は自分の知識の範疇の中でしか喜怒哀楽を表現できない。涼子が観測できる世界では、銃声とはこんなもので、反動とはこの程度のものである、という主観的事実のみだった。そこに驚きも恐れも無い。
自分でも信じられないほどニュートラルな感情で、法治国家の日本では、違法アイテムのアイコンである拳銃を握っていた。
今から思えばそれはニュートラルではなく、余計な感情を切り捨てた瞬間の空白ではなかったのか? とさえ思う。
脳機能の恒常性。
拳銃を撃つ直前まで緊張でアドレナリンが沸騰していたのに、撃った数秒後から脳から血の気が引くような感覚を覚えて、様々な雑念や情報や感情が足の裏から冷たいコンクリートに流れ出るような錯覚を感じた。
安全装置という物らしいレバーを操作して、人差し指を眺めていると、心に涼しい風が吹いた。
次の瞬間には、腹の奥底からドス黒い衝動が湧き出るのを感じ、血液が沸騰した。
高揚感。万能感。自己効力感。……それらを纏った暴力衝動が腹と頭と胸で同時に噴出するのを実感した。
この拳銃が有れば何でもできる! 美咲を殺したヤツを殺す事ができる! 世界中、どこでも生きていける!
それからだ。
涼子が、自分の無実を証明するという『都合のいい大義名分』の名のもとに、美咲の復讐と真犯人への反撃を『混同して目標とした』のは。
警察の執拗な尾行を振り切り、尾行から追跡に変わっても、追跡から指名手配に変わっても、彼女は逃げ続けた。そして真犯人の神崎徹を追い続けた。追い続ける事が出来た。今も追い続けている。
※ ※ ※
涼子の執念と暴力的動機が今夜、実を結ぼうとしている。
情報収集と尾行により、涼子は神崎が今夜、隣県港湾部の廃工場で、闇ブローカーの仲介で裏社会の人間と取引を行うことを突き止めた。
取引のブリーフケースの中には、美咲が命を懸けて集めた、神崎の横領と情報漏洩の全ての証拠が収められている。
美咲が集めたSDカードの情報は恐らくはそのコピー。その可能性が高い。中身の審議の確認は電子署名が証明してくれるだろうが、それは涼子の興味の範疇ではない。
美咲の復讐と真犯人への反撃。
それが直接の目的。
表向きの『無実の証明のための行動』は、彼女が自分の心のうちに渦巻くどす黒い感情を言語化したくないので、見て見ぬふりをした結果、自分を慰める防衛機制として、これから行おうとする暴力の大義名分に『無実の証明のための行動』を掲げたのだ。
涼子は立ち上がった。全身に緊張が走る。いやな冷や汗が背筋を這う。
――――十発。この十発で……。
――――私の人生を取り戻す。美咲を殺した神崎を殺す。どこまでも逃げる。
歪んだ怒りと抑えられない悲しみの感情に飲み込まれたままの、目的と目標が混同している涼子の脳内ではあらゆる歪んだ思考が渦巻いていた。
『自分の感情を晴らすためにも倒すべき人間は殺すべきで、存在を否定すべき。』
『この世には倒すべき人間とそうでない人間がいる。』
『倒すべき人間を倒せば全ての問題がたちどころに消える。』
『ここで倒さなければ、未来永劫、自分は惨めなまま。』
『自分は引き金を引くだけの矮小な存在であると同時に、目的のために引き金を引ける偉大な人間である。』
『世の中の全てが悪い。その中でも倒すべき人間は絶対の敵である。』
『自分の感情こそが本質であり、そこへは誰しもが立ち入ることができない。』
『それに美咲は自分と出会わなければ死ぬことはなかった』
……という感情を全く処理しきれないまま、その状態そのものを原動力として警察を振り切り、真犯人の神崎の手の届くところまできた。負の成功体験が彼女の思考の歪みに加速を促していた。
彼女はブローニング M1910を黄土色のジャケットの右ハンドウォームポケットに隠し、夜の闇へと飛び出した。
飛び出した倉庫街の元管理事務所を背後にし、目指すは、倉庫街を抜けた先にある港湾埠頭部へ通じる途中にある廃工場。元は規模の小さな紡績工場だったらしい。
廃工場は、生臭い潮風と血を思わせる錆の臭いが混ざった、陰鬱な空気に包まれていた。
月明かりのない夜。光源が乏しい。
廃工場の巨大な影が、暗い中にあって一層暗く見える。その姿は恰も、涼子を飲み込もうとする巨大な怪物のようだった。
涼子は廃工場へと歩みを進める。今更警戒も何も無い。
ポケットからブローニング自動拳銃を抜き、歩きながら安全装置を解除して、渾身の膂力を振り絞ってスライドを引く。ブローニングの三十二口径モデルは九ミリ口径モデルと比べるとスライドは軽いが、曾祖父が軍隊で居た頃に使っていた骨董品だ。クリーニングやメンテナンスの概念を知らない涼子は、分解して清掃などしていない。稼働するであろう部分に機械オイルのスプレーを吹き付けただけの処置しかしていない。三十二口径の実包に至っては、ホームセンターで売られている金属用研磨剤で浮いた錆を落としただけだ。
廃工場に足を踏み入れて左右を確認。
人の気配がする。直ぐ近く。
目の前の階段を登り切った位置で話をしているのだろう。それほどに近い距離だった。
喉が渇く。冷たいのか熱いのか分からない脂汗が背中や腋から滲みだす。今すぐにここで冷水を飲めないと思うと、冷水に対する渇望が強くなる。
ブローニング自動拳銃を両手で構える。拳銃の構え方は動画サイトで見て覚えた。何という名前の構え方だったのかは失念したが、閉鎖的な空間で用いる拳銃の構え方らしい。似たような構えをアメリカのアクション映画の中で見たことが有るので、拳銃の構え方を選んだのは強ち、大きな間違いを犯しているとは思わなかった。屋外や距離別、用途別の拳銃の構え方や狙い方があるらしいが、それらを極めている時間はない。達人になってから戦場に出ていたのでは遅いのだ。
それにたったの十発しか残弾は無い。弾倉を抜いて三発も注ぎ足しをさせてくれる時間を与えてくれるとは思えない。今夜、今ここで、速やかに、勝負を付けなければ涼子は死ぬ。死ぬだろう。死ぬしかない選択肢しか残されていないだろう。
神崎一人ならば十発は釣銭が返ってくるほどの分量だが、『状況を鑑みて』それは望みが薄い。
工場の二階。
窓から差す月明りや外灯の明かり以外の光源に乏しい。
崩れたコンクリートの壁の向こう側から、神崎と男、そしてその警護と思しき男たちの声が聞こえてきた。背中を壁に押し当てて耳をそばだてる。
「……これで最後だ。このデータさえ渡せば、俺は良い椅子に座れるわけだ」
神崎の声には、興奮と僅かな震えが混ざっていた。
今すぐにでも神崎の前に飛び出して、有りっ丈のタマを叩き込んでやりたかった。逸り猛る心を舌の根を噛んで自分を宥めさせる。
尚も続く会話。
「分かっている。……だが、お前の尻尾はまだ掴まれたままだ。あの女はどうした? 『情報の一部』を握ったままだろ? いつ片付くんだ?」
やや掠れ声の男の声が低く響く。
「あの女は今頃、警察に追われて身動きが取れない。もし出てきても俺の方の『身内』が片付ける。それに、だ。あの女には本物の情報なんて何も与えていない。如何にも大事そうな演技でSDカードを扱っていたら、俺のスケが妙な正義感を出して勝手に持ち出してくれた」
「酷い奴だな。お前の『身内』が殺した女だろ? 可愛かったんじゃないのか?」
「『こんな時の為に飼っている何人かいる使い捨て』の一人だ。俺の読み通りに動いてくれたから色々と手間が省けたよ。同じ女でもワルばかりじゃ、考え方が似たり寄ったりになる。中には正義の味方気取りも飼いならしておいて損はない」
「本当に酷い奴だな。尊敬するぜ」
じっと耳を澄ませていた涼子の歯を食いしばる音が、ひび割れたコンクリの壁に静かに吸い込まれていく。
――――私を…….. 片付ける……。
――――美咲は……こんなくだらないことで!
やがて、埃と黴の臭いに交じって煙草の煙が漂い始める。連中は相変わらず談笑しながら、自分たちの作戦が順風満帆に進んでいることを褒め合っていた。涼子は頭に血が上る自分に気が付いた。深呼吸をして鼓動の鎮静のために酸素を送る。
そばだてる鼓膜に異音が少し混じる。
連中の足音がする。神崎。警護の二人。それと取引相手。合計4人の足音。会話や声の内容から、この壁一枚向こうに居る人間は全員男だと判明した。
何も全員に銃弾を叩き込む必要は無い。
理想を言えば、神崎だけを分離させて、誰も知らぬところで有りっ丈の三十二口径を叩き込むことができれば本懐を成し遂げられる。
『本来の自分の無実の証明』は法的に証明されるだろうが、自分が非合法な銃で法律から外れた私的制裁を神崎に下した事実はどう考えても覆らない。……涼子が自身に言い聞かせて納得させている大義名分は、彼女が自力で至った行動の動機ではなく、マスコミが『犯人は尚も逃走中』という報道を聞いて、そこからストーリーを脳内で組み立てて自分に言い聞かせたのが始まりだ。
『無実の証明のための逃避行』だと世間は思っている。警察は事実は関係なく指名手配だから追いかけて来る。涼子は『憐れな弱者ゆえに道を間違えた犯罪者』という自分の世間での立ち位置を利用しているだけだ。自分の行いを正当化させるための拙い防衛機制だ。
根底は『普通の怒りの感情』。
何処の誰もが抱く喜怒哀楽の感情の一つ。
その一つが認知の歪みを伴い、また、ネガティブな成功体験に強化され、更に自分の暴力衝動を何十倍何百倍にも増大してくれるブローニング自動拳銃との出会いで、事実と感情の切り分けができないほどに……『自分の感情が、この世の全ての事実である』というまでに増強され、今に至る。
不幸にもそれが彼女の自己効力感を劇的に高めてしまい、発砲こそはしなかったが、今に至るまでに情報収集の上で恫喝する際に何度も銃を抜いた。
追っ手の警官を威嚇するために銃を抜いた。
逃走資金を確保するために、強盗まがいだと分かっていても銃を抜いて金品を奪った。
涼子の行動は破綻の一途を辿るのみ。
そんな彼女が、今この瞬間に前非を悔悟するわけがない。
『神崎を打ち倒せば全ての問題が消えてなくなる』という考えに、いびつに変形しつつある。
――――誰が止められるものか。
――――自分には銃がある。
涼子は下唇を舌先で軽く湿らせると、漸く食べられるご褒美のケーキを前にした子供のように無垢な微笑みを浮かべた。
興奮による感情の混乱などではなく、今すぐに神崎に銃弾を叩き込める快感を想像して、感情が前借した多幸感に襲われている。
ブローニング自動拳銃を握り直す。
両手で構え、銃把の底部にあるボタンを押して残弾を確認する。六発、装弾されている。先ほどスライドを引いたので、薬室には一発。拳銃には全く素人の彼女には、薬室にあらかじめ一発送り込んで、再び弾倉に一発装弾するという思考や概念は皆無だ。
弾倉を差し込む。機械オイルを吹き付けただけのスライドと呼ばれる部分は軽く浅く引くとやや軋みながらも作動した。比較する銃を知らないので、自動拳銃とはそんなものだという感想しかない。そもそも、その状態でスライドを最後まで引けば、薬室に送り込まれている実包が無為に弾き出されるリスクが有るのを知らない。
「!」
来た。
取引とは関係の無い談笑が終わり、足音がこちらに向かってくる。こちらに向かってくる足音が複数聞こえる。
さあ、ここで突然飛び出て乱射してやろうか?
それでは神崎を確実に仕留められない。
目的は全員の殺害ではない。
目的は神崎一人。
目的は神崎に確実に銃弾を叩き込む事。
神崎の今わの際を鑑賞できたのなら、その直後に射殺されても思い残すことは無い。
……『神崎一人の殺害を完遂する』ことだけで頭が一杯なのではなく、それ以降を考える余裕が無いのではなく、神崎の不幸を見届けたいだけという思考の停止が、彼女の未来の選択肢を奪っているのだ。
――――ここまで来て引き返すのはナシでしょ!
そんな囁きが心の中で聞こえたかと思うと、彼女の体はゆらりと幽鬼のように動き、それまで纏っていた緊張と興奮を脱ぎ捨てた顔と所作で、手を差し伸べるような滑らかな動きで、ブローニング自動拳銃を構えながら、男たちがたむろしている空間へと忍び込み、引き金を引き絞った。
少し前に夜の海に向かって発砲した時と同じ反動を感じたのに、目の前に広がる風景や、鼓膜を貫く銃声は涼子を『ほんの僅かの間だけ』、正常な思考を取り戻させた。
――――あれ?
――――何してるんだっけ?
――――そう、神崎! 神崎は?
内部は巨大なガランとした空間で、巨大な機械のシルエットが不気味な彫像のように並んでいる。
コンマ数秒の銃火の明かりで、神崎が居たであろう空間を把握し、自分が打ち倒すべく存在していなければならない神崎を視認し、その他の存在の位置や驚愕の顔も確認した。
全てがスローモーションの世界。
目や耳が拾う情報量が多過ぎて脳が処理できなくなり、一時的に感覚からの情報取得を緩慢にして、その分の認知的処理を前頭葉に一気に集中させた結果だ。
その全てがスローモーションの世界で、神崎に非常に酷似した男が喉仏辺りに小さな穴を拵えて、自分に何が起きたのか分からない顔をしたまま仰向けになるのが確認できた。
彼我の距離、八m。
彼女の銃にとってその距離は近いのか遠いのか判断しようがない。ただ、照準と照星というものは土壇場では思ったほど役に立たないものだという知識を得た。
神崎に酷似した男が地面に大の字になって倒れる頃には、その他の男たちも懐や腰から拳銃を抜き出すのが見えた。
何処のなんという名前の銃なのかは知らないが、短い銃身のリボルバーが一挺と、掌に乗るような小さな自動拳銃が二挺、確認できた。
撃鉄を起こす男。
小さなスライドを引く男たち。
再び大脳辺縁系が、湧き出る興奮にハッキングされた涼子が、ブローニング自動拳銃を構えて立て続けに二発、発砲した。その銃口は神崎に酷似した男が大の字に寝転がっている場所と大して離れていない部分を適当に狙う。
涼子が危機管理能力を発揮して発砲したのではない。体が勝手に反応したのだ。残弾が何発だとか、退路の確保だとか、『まだ神崎は仕留めていない』とか、そのような事柄まで考えは及んでいない。
初めて人を撃った感想を噛み締めていることも無い。元から人を殺すつもりで所持していた銃なのだから、撃てば誰かに当たり、誰かに当たれば怪我もするし死ぬこともあるだろう。
関心事は、涼子は神崎を仕留めた実感が皆無なので、彼女の頭の中では『神崎はまだどこかで無事に生きている』という認識だ。
ゆえに、神崎を探すべく、神崎を探す障害になるであろう余計な存在である三人の男を視界からどかせる感覚で引き金を引いた。
歩くのに蟻を踏み潰す事を心配する人間はいない。それと同じ心境。神崎を殺すのに邪魔な人間を視界から消すのは当たり前。
放った二発の三十二口径の弾頭は目の前の男たちを左右に飛びのかせた。誰も怪我をしていないようだ。『ああ、よかった。まだ自分は殺人者ではない』。
やがて回復する思考。脳の恒常性が、通常営業を取り戻しつつある。
「何モンだぁ! 女ぁ!」
右手側のコンクリの柱の陰に逃げ込んだ男が声を張り上げる。その男の声をかき消すような軽い銃声が涼子を襲う。
「神崎!」
