♯4【昏いうた】(2025.8.13)

 今できることを、できる範囲で確実に終了させるのが最適解だと認識した。
 S&W M10 FBIのグリップを握り、階下に集まりつつある足音を耳で数える。足音を消そうともしない。気配を撹乱させようともしない。『プロと素人あがり』が混じった足音が聞こえる。
 推定で八人。
 全員が武装をしていると大前提に付け加えてある。そして、伏兵も勿論考慮する。『集まりつつある推定八人が全戦力だとは最初から思っていない』。……自分が戦力を与えられた指揮官なら、必ず伏兵や別働隊を組織して反対側や迂回路に伏せさせる。その場合も少数精鋭で編成し、短時間でカタがつくように時刻合わせも行うだろう。
「……」
 表情のない顔をしている巴。
 彼女は何の感慨も浮かべない顔で引き金を引いた。階下へ向かって。不用心に遮蔽から飛び出してきた鯔背な二人の若者に向かって。
 二発発砲。ダブルタップではない。
 充分に狙ったつもりだ。
 違わず、それぞれの弾頭は三下の空気をまとった若者二人の腹部を捉え、その場にて無力化させる。一時間以内に救急救命が間に合えば充分に助かる。38spl+Pのソフトポイントの停止力は大したものだが、侵徹は低いので体内の重要器官を傷つける可能性が『割と』低い。暫くは不自由するだろうが命に別状はない。……仲間がすぐに救急車を呼んでくれればの話だが。 
 その銃撃にたじろいだ後続は、急ブレーキをかけて柱や窓際などの遮蔽に飛び込んで頭を抱える。その挙動を見て理解した。答え合わせができた。
 
────『別』にいるな。

 ここにいるのはその他大勢。準主力以下の戦力。
 辛うじて連携を取る訓練だけは受けている連中。人材の枯渇なのか、鉄火場要員として教育に充てる時間がないのか。
 明らかに、陽動だ。
 巴はきびすを返し、階段から離れつつ、牽制の意味を込めた残弾を全て吐き散らす。38splのリボルバーでもその銃声が連なると、狭い空間では爆発音のように反響し、銃声が長く廊下に轟いた。
 巴が既に廊下に向かって走り出しながら再装填をしていると、思い出したように背後で激しい銃撃の音声が吠え立てる。
 襲撃者の巴の姿が見えなくなってから、いくら威勢のいい銃声で吠えても、その銃弾は無為に壁に穴を開けるだけで弾薬のムダだった。虚しくやかましいだけの銃声が、巴の背後で鳴り響く。
 巴は特に表情を変えない。否、アンヘドニアであるかのように表情を持ち合わせていなかった。
 巴には……彼女の脳内の見取り図には次々と『相手にするべき敵』『警戒すべきポイント』『妨げられると困る要衝』などが投影されていく。
 新しいスピードローダーを抜き出し、左手の小指と薬指間に挟む。
 無性にシガリロが吸いたかったが、鉄の意志で我慢する。喉は渇き、耳鳴りはやかましく、喉に異物感を覚える。拍動が五月蝿い。
 『扁桃体への命令と扁桃体からの命令』。
 不安や緊張は脳にとっては快か不快かで言えば明らかに不快で、人間の脳は生まれてから死ぬまで不快を避けることだけを考えて機能している。
 その脳の忠実な指令を請け負うのが扁桃体だ。HPA系が感じた刺激を即座にコルチーゾルの分泌を促し、それを感知した扁桃体がノルアドレナリンとアドレナリンを分泌させて、自律神経を一時的に交感神経優位に切り替える。
 その結果、急激な自律神経の切り替えに対応できなくなった神経細胞は副交感神経を通じて心身症として不快な症状を表す。
 巴は頭脳がクールに冴え渡るのと引き換えに、様々な情報の選択を経験から培ったバイアスで選んで、『自分で思う最適解』を遂行すべく、足を進める。
 体は不快だが、頭は冷徹。
 適度な負担は最高のパフォーマンスを発揮する──ヤーキーズ・ドットソンの法則──が、今の彼女がまさにそれだ。
「!」
 左手側、柱の遮蔽の角から突き出された短ドスを蝿でも払うかのように左掌の甲ではたき落とし、その人物の顔を見るや否や、巴は腹の辺りでS&W M10 FBIの引き金を引いた。
 乾いた銃声が壁や天井に染み込む。
 殴り合いができる距離まで気配を隠し続けることができるかなりの手練だが、たった一発の38口径でその場に呻きながら沈む。……彼が弱いのではない。彼が潜んでいることを察知して、何も知らぬ顔でそこを通り過ぎようとする演技に徹していた巴のほうが、この場では一枚上手だった。巴よりもやや年上だと思われる男は作業用ブルゾンの上下に身を包んでいた。そのブルゾンが血でみるみる汚れていく。
 足元の短ドスを遠くへ蹴り飛ばし、足で、爪先で男の脇や腰を蹴りながら、彼の悲鳴を聞きながら、他に武器を持っていないか、靴の爪先で調べる。
 腹部の被弾が苦しいのか、立ち上がる気力すら見せない男がそれ以上武装していないと分かると、興味を失った顔で歩き出す巴。
 
────あー、びっくりしたー!
────『あんなの』が居たんだ!

 能面のような表情と一致しない感想。
 彼女は極度の緊張で軽い遊離感を覚えているらしい。今の現実を現実と把握できないストレスを切り離す脳の働きだ。即ち、彼女の精神状態は非常に脆い状態にある。
 針の一突きで何もかもが決壊しそうな危うさを孕んでいるが……実のところ、このような経験は珍しくない。彼女の心境を二つに分かつ理由がそれだ。
 直接現場で戦っている自分と、その自分を俯瞰して観戦している自分。
 極度の緊張が生み出した彼女なりの心の守り方だった。
 歩みを進める。
 三下連中のトリガーハッピーじみた銃撃は散発的になっているが大きな移動は感じられない。大方、誰がこのフロアへ吶喊するか決めかねているのだろう。足踏み状態、結構なことだ。
 巴が最も警戒すべきポイントには必ず『誰かが潜んでいる』。
 それは疑わない。寧ろ、『誰も潜んでいない場合』のほうが恐ろしい。
 このホテルはホテル故に勿論のこと多数の客室が整然と並んでおり、廊下に立てばその数だけ、ドアノブが見える。
 どの部屋もドアは閉まっている。鍵がかかっているかどうかは調べない。クリアリングが狙いではないからだ。窓から差し込む光源。腕時計に視線を走らせる。午前11時23分。
 緊張感で潰れそうな自分と、自分を見る自分との不協和で異世界にでも放り込まれたような錯覚がする。
 そして、その感覚すらも「いつものことか」と眺めている自分がいる。
 耳鳴りがやかましい。喉が渇く。ヒステリー球が不快。拍動が五月蝿い。
 何もかもが嫌だ。
 放り出したい。逃げたい。
 心が、思考が、視座が、感情が大脳辺縁系に飲み込まれる。アドレナリンとドーパミンにハッキングされる。

 世界は昏い。

 正義の味方になりたかった。
 正義の味方もこんなに苦しかったのだろか?
 いや、正義の味方はこんな場所でこんな事をしないから、きっとキラキラした美しい世界を創り出すことに満足感を覚えていたはずだ。

 ……巴の思考が昏く、沈んでいく。
 どうしようもない深く冷たく昏い奥底に着く。

────ああ、もうどうでもいいや。

 刹那、巴は腰を落とし、両足を踏ん張り、停止した途端に、右手だけで構えていたS&W M10 FBIを『左、後方、右、左』へと体を素早く捻りながら発砲。
 それぞれの方向にある遮蔽に隠れていた、短ドスやカランビットナイフを手にした男たちの腹部や胸部に熱い銃弾を叩き込んだ。
 左手側の男はフィジカルが優れていたのか、直ぐに倒れなかったので、二発叩き込んだ。
 何れも名のある荒事師なのだろう。今どき一対多数で同時に刃物で近接し、襲撃してくる手練はいない。自分にも矜持があるように、彼らにも矜持がある。
 苦悶に伏せた一人が上半身を上げて這うように巴に近づくが、手にしたカランビットナイフを振りかざすこともできず……巴に無言で銃口を向けられて、男はナイフを捨て顔を伏せた。
 彼の心が折れてしまった。
 巴はS&W M10 FBIを再装填しながら歩みを進める。
 目指すはもう一箇所の重要なポイント。そして最も警戒すべき場所。
 屋上へ通じる扉。
 そして、そこへ通じる廊下。たった8mほどの直線の廊下。それが巴の経験則では一番危険な場所であり、通過せねばならない場所だった。
 屋上へ通じるドアを解放してしまえば勝ったも同然だ。否、逃げられたも同然だ。
 連中がホテル内部でおっかなびっくりと探索しているうちに、『昨日のうちに100円均一ショップで買った、クラフトペーパーのポチ袋のダミーを、隠せそうなところにそれらしくねじ込んでおけば完了だ。中身は家電量販店で買ったフォーマットすらしていない同型に近いUSBメモリが入っている』。
 背後ではうめき声や足音が聞こえてきたが、不意に、足音が途絶える。
「?」

────なんだ? 連中の足音が……?

 立ち止まり耳を澄ませる。
 今居る場所は客室フロアの廊下。
 左手側には整然と並ぶ大きな窓。
 右手側には客室のドアが並ぶ。
 カビ臭い湿度を孕んだ空気。
 歩く度に軽く浮き上がる埃。
 壁は、触れると指先がチョークの粉塗れのように白くなるほど風化した壁紙。
 背中が痛い。
 氷の針を差し込まれたように痛い。
 誰かに見られている。
 誰かがすぐそこに居る。
 目を見る。
 後ろを見る。
 階下の連中の騒ぎ声が階下から聞こえる。
 その騒ぎ声がこちらにやってくる気配はない。……あたかも、連中は透明の壁によって侵入できないような障害にぶち当たっている。そんなイメージを抱く。
 『誰かが、居る』。
 既に視界に入っているはずだ。
 気配はしない。
 呼吸も衣擦れも聞こえてこない。
 体臭もしない。
 静かに、静かに、確実に自分の命を奪いに来ている誰かが『すぐ近くに居る』。
 自分がそいつなら、思いもつかない方法で登場するだろうな。 

 幼い頃に憧れた正義の味方はいつも後手後手だった。怪人が現れてから対処療法のように出動して問題を片付けた。先手を打って相手の戦意を挫くことなど一度もなかった。
 正義の味方が正義の味方として活躍するには正義と対極をなすとされる悪の秘密結社が必要で、悪は根絶してはいけない。
 狡兎死して走狗烹らる。
 戦乱では英雄が持て囃されるが、平和が続くと英雄は邪魔だ。だから、国を掌握した英雄は求心力を高めるために戦争を繰り返した。結果、滅んだ国は古今東西の文献で山のように見られる。
 正義の味方なら怪人と戦う時にどんな戦略を遂行するためにどんな戦術を立てて、具体的にどんな作戦を『自力で立てたのだろう?』
 思考が乖離する。
 極度の緊張が遊離感を招く。
 だが、正義の味方はいつも予想もしない怪人の妙な作戦を小さなヒントを手がかりに解決していた。

────自分が『怪人』なら……。

 巴は弾かれたように窓から遠ざかる。ほんの1mほどの移動だったが、その距離が明暗を分けた。
 巴が飛び退くのとほぼ同じタイミングでそいつは現れた。
 窓ガラスを破って。
 屋上からのラペリングで。
「!」
 男。巴より、頭一つ分くらい高い。
 黒い戦闘服。腰に長い弾倉ポーチがベルトに連なる。
 左手でロープを捌き、右手に短機関銃を握っていた。
 木製ストックのUZI。銃剣を装着したモデル。
 その獰猛な銃口がこちらを向く。
 餌を前にした狼のような眼光をした野性味の強い顔つきの男。中年手前だろうか。
 何もかもがスローモーションで動く世界。ガラスの破片がキラキラと輝く。
 巴の緊張が高まり過ぎて、視覚情報が脳内で処理できないでいる。聴覚や嗅覚や緊張に処理能力を割き過ぎた結果、思考が昂り過ぎているのだ。
 全てが処理落ちした世界で、二人の銃口は互いを捉えた。
「……」
「……」
 互いに2mも離れていない。男は窓枠にしゃがんで座り、銃口を巴に向け、巴は客室のドアを背にして両手で握ったS&W M10 FBIの銃口を男に向けている。
 男の狼のような目は無言で語っている。ブツを寄越せと。
 殺してまで奪おうとしない気概が知れた。彼もまた雇われた荒事師で、USBメモリを奪うことだけを依頼されているらしい。……さもなくば、さっさと短機関銃の一連射を浴びせれば全てのカタがついていた。
 それをしなかったのは、雇われた運び屋を殺しても報酬に反映されないからだろうし、巴の雇い主にダメージを追わせる事ができないからだ。そもそも、ブツを渡す渡さないという現場での人間の仕事には組織同士の政治は職掌ではない。

 男は猟犬のような鋭い眼差しで巴を見つめている。
 巴がこれまで出会った追跡者たちとは、明らかにどこか違う。
 この男こそが、今回の追跡者のリーダー格だろう。少なくとも現場指揮官だろう。
 男は恐ろしく静謐な声で巴に語りかけた。
「ブツを渡せば、命だけは助けてやる」
 巴は男の言葉に思わず鼻で笑った。
「それが欲しければ、力ずくで奪ってみろ」
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