♯004【昏いうた】(2025.8.13)
怪我人が傷が回復してその後にお礼参りに来るというのは実は割と例が少ない。
運び屋も殺し屋も情報屋も、荒事を生業にしているが、それはクライアントが居てこそ成り立つ職業で、運び屋も殺し屋も情報屋もただの末端なのだ。それ以外の裏の世界で生きている人間の殆どは、その場限りの契約で雇われた末端なので、末端をいくら痛めつけても依頼人とは直接関係ないので命を奪われるほど恨まれることは少ない。
それを鑑みれば、相手を殺害しても割に合わない。
昨今では何処の組織も人材不足なので人を尾行追跡するにしても、専門の探偵や『情報屋に情報を提供する、現場で情報を集める情報屋』を雇い、歩合制で契約しているほどだ。
かつての巨大組織の数々も、現在では法整備と摘発強化が進んで弱体化の一方だ。シノギを削ろうにもシノギの宛がない。無い袖は振れない。そうなれば構成員を増やしても飼い慣らせ無いし、構成員を増やす資金すら調達できない。……最早、『巨大な組織』という大きな看板は形骸化しつつあり、ベンチャー企業のような小規模の組織が外国との組織の連携で頭角を現し、旧態依然とした、伝統と格式のある巨大組織の常盤を崩しつつある。
巴としては今現在が裏の世界のある種の過渡期の後端だと思っている。しがみつくか、転職するか、足を洗うか。……今の時期なら、一昔前は不可能だと言われていた足抜けが十分に可能だ。
まだまだ巴の意識はしっかりと覚醒していた。急展開にアドレナリンとノルアドレナリンが分泌されてその反動で一時的に倦怠感を覚えているだけだ。アドレナリンもノルアドレナリンも覚醒作用と鎮痛作用を持つので、心身の苦痛を一時的に切り離してしまうのだ。
……まだこれらの扁桃体の命令によって分泌される脳内物質が作動しているうちは大丈夫だ。これらが長期間に渡って分泌され続けると、所謂、脳疲労や過集中に陥り、適応障害、抑うつへと進み、それでも無理をするとうつ病を発症する。うつ病はセロトニンの枯渇ではなく、ノルアドレナリンなどの枯渇が原因なのだ。結果としてセロトニンの分泌が上手く働かなくなり、傍目にはうつ病患者はセロトニン不足の症状を訴えるので、「うつ病はセロトニンが枯渇している」と思われている。
靴の爪先をホテルへ向ける。
ホテルに近づくにつれて、夏の気温で蒸されたようなカビ臭い熱気を孕んだ空気が巴の全身を舐めるように纏わりつく。
辺りを警戒。右手に愛銃をだらりと下げて、正面玄関からホテルへと侵入。
薄暗く、湿度が高く、カビの臭いと埃が混じり、それだけで呼吸器系の病気になるのが想像に難くない、淀んだ空気が支配しているホテルの中に入る。
巴はフロントを過ぎて右手側へと進む。
大きなフロント。こんな採算の見込みが望めない場所でどれだけの集客を目論んで設計したのやら……。
廊下をゆっくりと進む。僅かに風化しかけの壁紙がケミカルな異臭を放つ。薄暗い。だが、まだ午前中の日光の光源が充分に窓から差し込んで視界に障害が発生するほどの不便さは感じない。
「!」
背筋や腋に冷たい汗が吹き出る。
現場で度々覚える、嫌な違和感。
「…………」
右手のS&W M10 FBIのグリップを強く握る。
突然振り向いたり、牽制の発砲はしない。巴は運び屋だ。荒事を生業にしているわけではない。即ち、慣れない事はするものではないと経験が囁く。……そもそも、巴のハジキの腕前は大した事がない。『走行する運転席から隣の車の人間に命中させる程度』の技能の習得は彼女の感覚で言うと『大した事がない』のだ。
必要にかられて実戦で鍛えた、覚えた、会得した……そんな技術でしか無い。何処かの誰かに師事して裏の世界の生き方を教わったわけではない。運び屋という仕事をハローワークで見かけたのではない。尤も最近ではハローワークに、転売された幽霊会社が人員を募集するための真っ当な企業として実務業績を残して、表の世界の住人を裏の世界へと引きずり込むという悪どい手段も横行しているらしいが。
耳鳴りがする緊張が全身を襲う。
甲高い耳鳴りが席巻する世界で、ノイズを掻き分けて、耳を澄ます。
足音が聞こえた。
複数。話し声は聞こえない。足音の運び方から全員男。短機関銃を持っているような連中だ。全員が武装していると思ったほうがいい。
追跡者たちが、ここまで追ってきたのだ。巴としては半分、予想が当たっている。『嫌な予想』が当たっている。
元から追跡されていた。
それも、依頼人のその上、上層組織が運び屋にブツを運ばせる算段を立てているという、依頼の根源からばれている。
巴とて、命が惜しい。所詮雇われた身なのだから、ここで連中と取引をしてブツの運搬に失敗したと報告すればいい。
だが……そんな舐めた考えは巴の頭の中にはない。
この世界の殆ど全ては信用商売なのだ。
命が惜しいから、割に合わないから、相手に買収されたからと風見鶏のような生き方をしている人間は真っ先に命を落とす。
その場は切り抜けても、同業者から信用に傷をつけたと後ろから刺される。生き延びても、二度と裏の世界で商売はできない。表の世界に戻ろうにも、見せしめのために、裏の世界での悪事諸々が表の世界で流布されて表の世界でも居場所がなくなる。
巴はS&W M10 FBIを握り締め、手近な物陰を遮蔽としてそこに身を潜めた。
暫くすると、二人の男が廊下の向こうから現れた。辺りを警戒するように歩く。手には大型自動拳銃。一人は右前を歩き、もう一人は左後方を5m離れて歩く。身のこなしからして荒事に慣れた、それも連携の取れた『チーム』だと分かる。
巴の潜む場所から男たちまでの距離は直線距離で10m。男たちは銃口と一致する視線を左右に走らせて足音を急に小さくして歩く。
────拙い!
────バレてる!!
巴は二人の足音の変化で察した。あの二人は近くに巴が潜んでいることを察知している。足跡か気配か体臭か、何かで巴の潜伏を察したのだろう。探るような歩幅、落ち着いた、静かな足音。
アドレナリンが再び沸騰する。
みぞおちの辺りに冷たいものが落ちてくる感覚。喉が渇き、視野が狭くなる。
アドレナリンの困った作用として視野狭窄がある。興奮で目の前のことに集中しすぎて、前頭葉の処理能力を最大化させる為に余計な情報を遮断させるために視野を狭くするのだ。
────先制するしかない!
思考の停止。
その善後策や一手先を読む能力の欠如。認知能力が低下しすぎて、『ここで発砲すればどうなるか?』『迎撃が最適解か?』『自分の本懐を遂げるには何を優先すべきか?』という行動教義に抵触する重大なドグマすら彼方の向こうへ押しやってしまう。……大脳辺縁系を扁桃体が騒ぐまま、感情だけに支配されると人間は原始的な選択肢しかできなくなる。
全く知性的でない。
そう、悔悟してももう遅い。
巴は柱の角を遮蔽としていたが、その床に寝そべるように伏せて、頭を連中に向ける。そして両手でS&W M10 FBIを構えて突き出す。
狙撃に適したサイトではない。
ハンマーはデホーンドハンマーで、撃鉄を起こした状態からの狙撃を意識した射撃もできない。事実上のダブルアクションオンリーのリボルバー。コンシールドキャリーとして選んだリボルバーで3インチ銃身が気に入っていたが、銃を抜く際にハンマースパーが衣服やシートベルトに引っかかり、抜き損じたことがあったので、思い切ってサードパーティ製のデホーンドハンマーと取り替えたのだ。
重い引き金、二度引く。
二つの大きな銃声。間延びせず直ぐに壁や床や天井に音が染み入る。
38spl+P。
右手前方を歩く男の胸部に小さな噴血が咲き、呻き声も挙げずに床に倒れる。
左後方の男は大型自動拳銃──シルエットからしてSIG P226かそのコピー──を乱射しながら後退する。
空かさず巴は一発、発砲。
その熱い弾頭は男が背後の角を曲がる直前に下腹辺りを捉え、カエルを踏み潰したような悲鳴を挙げて体を二つに折って床に沈んだ。
巴は急いで立ち上がりながら、きびすを返して廊下を走る。途中、再装填のために手元に視線を落とす。その時になって初めて、自分の視界が非常に狭窄していることに気がついて、首を大きく左右に振って、遠くの物体に視点を合わせて狭くなった視野を『晴らす』。
追跡者はまだ複数いることが分かっている。追跡してきた車の数は合計二台だった。運転手は当たり前として、その他に荒事を職掌にする人間も同乗していると考えたほうが自然だ。更に増援も計算に入れる。
再装填完了。床に捨てた空薬莢が化学繊維の絨毯の上で音もなく転がる。
巴はさらに奥へと進む。
廃墟の中は不気味な静寂に包まれていた。追撃してくる気配はあるのに話し声や足音は聞こえない。
幼い頃、正義の味方になることを夢見ていた自分は、こんな場所で命を賭けて戦っている自分を想像できただろうか。……ふとそんなことを思い出して巴は自嘲気味に笑った。
逃げるにしても応戦するにしてもこのホテルは広すぎる。人海戦術を行使しない限り、ホテルに潜む巴を限られた人数で探し出すのは難しいだろう。……外部へと脱出しても、恐らく愛車のフィットは連中の手によってパンクでもさせられているだろう。
現在3階フロア、到着。
エレベーターが使えないので階段を使って最上階を目指す。階下へ行けば行くほど、連中と出くわす可能性が高い。巴の脳内では『ホテルの四方八方から薄い密度で複数人が侵入し、各フロアをクリアリングしながら上階へと進んでいく』様子が投影されている。
セオリーとしてはそんなところだろう。
たった一人の人間を追跡するのにそれだけも戦力を割く組織があるのか? と疑問に思うところもあるが、巴としては真顔でそう考えている。その根拠がジャケットの内ポケットに仕舞っているUSBメモリだ。
デジタルデータなのにネットを介して運搬できない重要なブツ。
ネットのハッキングを警戒してのことだろう。大方、このUSBメモリもスタンドアロンのパソコンで読み取るつもりなのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
中身はそれだけ大事なものだと推し計れる。
そして、決して低価格では仕事はしない、『腕利きで有名』な巴を雇う依頼人。
このホテルに侵入している連中は巴を射殺することは厭わない。寧ろ、巴がUSBメモリを……こんな小さなブツを何処かへ隠してしまうことを恐れているだろう。
自分ならば、一人の対象を殺害するよりも小さな物品を探すための人員が欲しい。巴ならばそう考える。
「!」
振り向く。即、発砲。
銃弾は廊下の向こう、20mほど離れた男の脇を抜け、背後の壁に穴を穿つ。遮蔽から身を乗り出したばかりのその男は小さな悲鳴を挙げて、再び遮蔽に身を滑り込ませる。
────思ったより早い!
────訓練はされているが……荒事の専門って訳じゃなさそうだ!
ホテルの最上階のフロアまでたどり着いた巴は、屋上へと続く非常用の扉の位置を、壁に貼られた見取り図で確認した。
このフロアで長丁場の銃撃戦は身を滅ぼす。元から階下へ向かって、フィットの元へと辿り着けるとは思っていない。
それでも運び屋としては依頼を遂行しなければならない。それに、『運び屋は必ず車に乗っていなければならない』という決まりはない。
『自分が生きていなくとも』秘密裏にブツを運ぶことができれば勝利条件を満たしたことになる。受け渡しに立ち会う相手は訝しむだろうが、運び屋はブツを運ぶことを矜持としている。どんなに汚い手段だろうと『運んで渡せば』勝利なのだ。
故に、ここで連中を戦意を挫くために迎撃するのも一つの手段だった。
勿論、どさくさに紛れて逃走を図る機会を企てる。
最上階へ到着。5階。
ここで追跡者の半数を削ることができれば御の字だ。
巴は愛銃のグリップを握る。S&W M10 FBIのサービスグリップに取り付けられたグリップアダプターに、特徴的な一山のチャンネルが指に馴染む。
そろりと、左手の小指と薬指の間にスピードローダーを挟む。長丁場は避ける。敵の殲滅が目的ではない。退路を確保。各個撃破。敵の火力が集中する前に撃破。逃走経路は壁の見取り図から数通りのパターンが計算できた。
巴は今し方登ってきた階段へと向かう。
銃口を突き出し、階下へ発砲。そこには誰も居ない。敵を此方側の階段へと集めるためのクラッカーだ。
階段は2箇所ある。緊張を強いられている人間は緊張の緩和や緊張からの不快感を払拭するために、緊張の根源となるモノを排除しようと脳がフル稼働している。
そんな時に派手な銃声を聞けば、連携が取れていても、銃声に注意が引かれる。……連携が取れているのなら、どのように連中が行動するかも予想できる。
連携ができる。
それこそが建物内部での『逃げることを前提とした鉄火場』での強みであり弱点でもある。
多数の人間と戦うのなら連携とその練度は大きな武器だ。
だが、たった一人を追い詰めるために多数が連携するとなると……狭い空間で連携するとなると、話は違ってくる。
連中は殺してでもブツが欲しい。
巴に対して手加減するつもりはない。巴はただの運び屋で、殺しても生かしても契約が履行されなければ、運び屋としては死亡したも同然だ。
そして連中は『運び屋は命がけでブツを運ぶためなら手段を選ばない』事も知っている。
その上、小さなブツを運んでいるので連中からすればその小さなブツを自分達の知らぬ場所へと隠されるほうが恐ろしい。
……と、なると、『連中の実際の戦力』は大した事がない。大方の人員はブツを探して回収するための準主力かそれ以下の三下だろう。
主力以外で割と連携が取れる人間だけを選別したか、外注で技術的な面が理由で単価が安い荒事師を雇ったか。
冷静になれば意外と勝ち目が見えてくる。
連中の大前提を細分化して分析した結果だ。問題は大きいが、基本的に遍く問題解決の方法は3つしか無い。
『類似する問題を探してその場合の解決方法を見つける』
『視点を変える』
『自力で簡単に解決できる問題になるまで微分する』
巴はこの場合、『自力で簡単に解決できる問題になるまで微分する』方法を選んだ。
どう考えても一撃で一網打尽にする展開は期待できない。
運び屋も殺し屋も情報屋も、荒事を生業にしているが、それはクライアントが居てこそ成り立つ職業で、運び屋も殺し屋も情報屋もただの末端なのだ。それ以外の裏の世界で生きている人間の殆どは、その場限りの契約で雇われた末端なので、末端をいくら痛めつけても依頼人とは直接関係ないので命を奪われるほど恨まれることは少ない。
それを鑑みれば、相手を殺害しても割に合わない。
昨今では何処の組織も人材不足なので人を尾行追跡するにしても、専門の探偵や『情報屋に情報を提供する、現場で情報を集める情報屋』を雇い、歩合制で契約しているほどだ。
かつての巨大組織の数々も、現在では法整備と摘発強化が進んで弱体化の一方だ。シノギを削ろうにもシノギの宛がない。無い袖は振れない。そうなれば構成員を増やしても飼い慣らせ無いし、構成員を増やす資金すら調達できない。……最早、『巨大な組織』という大きな看板は形骸化しつつあり、ベンチャー企業のような小規模の組織が外国との組織の連携で頭角を現し、旧態依然とした、伝統と格式のある巨大組織の常盤を崩しつつある。
巴としては今現在が裏の世界のある種の過渡期の後端だと思っている。しがみつくか、転職するか、足を洗うか。……今の時期なら、一昔前は不可能だと言われていた足抜けが十分に可能だ。
まだまだ巴の意識はしっかりと覚醒していた。急展開にアドレナリンとノルアドレナリンが分泌されてその反動で一時的に倦怠感を覚えているだけだ。アドレナリンもノルアドレナリンも覚醒作用と鎮痛作用を持つので、心身の苦痛を一時的に切り離してしまうのだ。
……まだこれらの扁桃体の命令によって分泌される脳内物質が作動しているうちは大丈夫だ。これらが長期間に渡って分泌され続けると、所謂、脳疲労や過集中に陥り、適応障害、抑うつへと進み、それでも無理をするとうつ病を発症する。うつ病はセロトニンの枯渇ではなく、ノルアドレナリンなどの枯渇が原因なのだ。結果としてセロトニンの分泌が上手く働かなくなり、傍目にはうつ病患者はセロトニン不足の症状を訴えるので、「うつ病はセロトニンが枯渇している」と思われている。
靴の爪先をホテルへ向ける。
ホテルに近づくにつれて、夏の気温で蒸されたようなカビ臭い熱気を孕んだ空気が巴の全身を舐めるように纏わりつく。
辺りを警戒。右手に愛銃をだらりと下げて、正面玄関からホテルへと侵入。
薄暗く、湿度が高く、カビの臭いと埃が混じり、それだけで呼吸器系の病気になるのが想像に難くない、淀んだ空気が支配しているホテルの中に入る。
巴はフロントを過ぎて右手側へと進む。
大きなフロント。こんな採算の見込みが望めない場所でどれだけの集客を目論んで設計したのやら……。
廊下をゆっくりと進む。僅かに風化しかけの壁紙がケミカルな異臭を放つ。薄暗い。だが、まだ午前中の日光の光源が充分に窓から差し込んで視界に障害が発生するほどの不便さは感じない。
「!」
背筋や腋に冷たい汗が吹き出る。
現場で度々覚える、嫌な違和感。
「…………」
右手のS&W M10 FBIのグリップを強く握る。
突然振り向いたり、牽制の発砲はしない。巴は運び屋だ。荒事を生業にしているわけではない。即ち、慣れない事はするものではないと経験が囁く。……そもそも、巴のハジキの腕前は大した事がない。『走行する運転席から隣の車の人間に命中させる程度』の技能の習得は彼女の感覚で言うと『大した事がない』のだ。
必要にかられて実戦で鍛えた、覚えた、会得した……そんな技術でしか無い。何処かの誰かに師事して裏の世界の生き方を教わったわけではない。運び屋という仕事をハローワークで見かけたのではない。尤も最近ではハローワークに、転売された幽霊会社が人員を募集するための真っ当な企業として実務業績を残して、表の世界の住人を裏の世界へと引きずり込むという悪どい手段も横行しているらしいが。
耳鳴りがする緊張が全身を襲う。
甲高い耳鳴りが席巻する世界で、ノイズを掻き分けて、耳を澄ます。
足音が聞こえた。
複数。話し声は聞こえない。足音の運び方から全員男。短機関銃を持っているような連中だ。全員が武装していると思ったほうがいい。
追跡者たちが、ここまで追ってきたのだ。巴としては半分、予想が当たっている。『嫌な予想』が当たっている。
元から追跡されていた。
それも、依頼人のその上、上層組織が運び屋にブツを運ばせる算段を立てているという、依頼の根源からばれている。
巴とて、命が惜しい。所詮雇われた身なのだから、ここで連中と取引をしてブツの運搬に失敗したと報告すればいい。
だが……そんな舐めた考えは巴の頭の中にはない。
この世界の殆ど全ては信用商売なのだ。
命が惜しいから、割に合わないから、相手に買収されたからと風見鶏のような生き方をしている人間は真っ先に命を落とす。
その場は切り抜けても、同業者から信用に傷をつけたと後ろから刺される。生き延びても、二度と裏の世界で商売はできない。表の世界に戻ろうにも、見せしめのために、裏の世界での悪事諸々が表の世界で流布されて表の世界でも居場所がなくなる。
巴はS&W M10 FBIを握り締め、手近な物陰を遮蔽としてそこに身を潜めた。
暫くすると、二人の男が廊下の向こうから現れた。辺りを警戒するように歩く。手には大型自動拳銃。一人は右前を歩き、もう一人は左後方を5m離れて歩く。身のこなしからして荒事に慣れた、それも連携の取れた『チーム』だと分かる。
巴の潜む場所から男たちまでの距離は直線距離で10m。男たちは銃口と一致する視線を左右に走らせて足音を急に小さくして歩く。
────拙い!
────バレてる!!
巴は二人の足音の変化で察した。あの二人は近くに巴が潜んでいることを察知している。足跡か気配か体臭か、何かで巴の潜伏を察したのだろう。探るような歩幅、落ち着いた、静かな足音。
アドレナリンが再び沸騰する。
みぞおちの辺りに冷たいものが落ちてくる感覚。喉が渇き、視野が狭くなる。
アドレナリンの困った作用として視野狭窄がある。興奮で目の前のことに集中しすぎて、前頭葉の処理能力を最大化させる為に余計な情報を遮断させるために視野を狭くするのだ。
────先制するしかない!
思考の停止。
その善後策や一手先を読む能力の欠如。認知能力が低下しすぎて、『ここで発砲すればどうなるか?』『迎撃が最適解か?』『自分の本懐を遂げるには何を優先すべきか?』という行動教義に抵触する重大なドグマすら彼方の向こうへ押しやってしまう。……大脳辺縁系を扁桃体が騒ぐまま、感情だけに支配されると人間は原始的な選択肢しかできなくなる。
全く知性的でない。
そう、悔悟してももう遅い。
巴は柱の角を遮蔽としていたが、その床に寝そべるように伏せて、頭を連中に向ける。そして両手でS&W M10 FBIを構えて突き出す。
狙撃に適したサイトではない。
ハンマーはデホーンドハンマーで、撃鉄を起こした状態からの狙撃を意識した射撃もできない。事実上のダブルアクションオンリーのリボルバー。コンシールドキャリーとして選んだリボルバーで3インチ銃身が気に入っていたが、銃を抜く際にハンマースパーが衣服やシートベルトに引っかかり、抜き損じたことがあったので、思い切ってサードパーティ製のデホーンドハンマーと取り替えたのだ。
重い引き金、二度引く。
二つの大きな銃声。間延びせず直ぐに壁や床や天井に音が染み入る。
38spl+P。
右手前方を歩く男の胸部に小さな噴血が咲き、呻き声も挙げずに床に倒れる。
左後方の男は大型自動拳銃──シルエットからしてSIG P226かそのコピー──を乱射しながら後退する。
空かさず巴は一発、発砲。
その熱い弾頭は男が背後の角を曲がる直前に下腹辺りを捉え、カエルを踏み潰したような悲鳴を挙げて体を二つに折って床に沈んだ。
巴は急いで立ち上がりながら、きびすを返して廊下を走る。途中、再装填のために手元に視線を落とす。その時になって初めて、自分の視界が非常に狭窄していることに気がついて、首を大きく左右に振って、遠くの物体に視点を合わせて狭くなった視野を『晴らす』。
追跡者はまだ複数いることが分かっている。追跡してきた車の数は合計二台だった。運転手は当たり前として、その他に荒事を職掌にする人間も同乗していると考えたほうが自然だ。更に増援も計算に入れる。
再装填完了。床に捨てた空薬莢が化学繊維の絨毯の上で音もなく転がる。
巴はさらに奥へと進む。
廃墟の中は不気味な静寂に包まれていた。追撃してくる気配はあるのに話し声や足音は聞こえない。
幼い頃、正義の味方になることを夢見ていた自分は、こんな場所で命を賭けて戦っている自分を想像できただろうか。……ふとそんなことを思い出して巴は自嘲気味に笑った。
逃げるにしても応戦するにしてもこのホテルは広すぎる。人海戦術を行使しない限り、ホテルに潜む巴を限られた人数で探し出すのは難しいだろう。……外部へと脱出しても、恐らく愛車のフィットは連中の手によってパンクでもさせられているだろう。
現在3階フロア、到着。
エレベーターが使えないので階段を使って最上階を目指す。階下へ行けば行くほど、連中と出くわす可能性が高い。巴の脳内では『ホテルの四方八方から薄い密度で複数人が侵入し、各フロアをクリアリングしながら上階へと進んでいく』様子が投影されている。
セオリーとしてはそんなところだろう。
たった一人の人間を追跡するのにそれだけも戦力を割く組織があるのか? と疑問に思うところもあるが、巴としては真顔でそう考えている。その根拠がジャケットの内ポケットに仕舞っているUSBメモリだ。
デジタルデータなのにネットを介して運搬できない重要なブツ。
ネットのハッキングを警戒してのことだろう。大方、このUSBメモリもスタンドアロンのパソコンで読み取るつもりなのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
中身はそれだけ大事なものだと推し計れる。
そして、決して低価格では仕事はしない、『腕利きで有名』な巴を雇う依頼人。
このホテルに侵入している連中は巴を射殺することは厭わない。寧ろ、巴がUSBメモリを……こんな小さなブツを何処かへ隠してしまうことを恐れているだろう。
自分ならば、一人の対象を殺害するよりも小さな物品を探すための人員が欲しい。巴ならばそう考える。
「!」
振り向く。即、発砲。
銃弾は廊下の向こう、20mほど離れた男の脇を抜け、背後の壁に穴を穿つ。遮蔽から身を乗り出したばかりのその男は小さな悲鳴を挙げて、再び遮蔽に身を滑り込ませる。
────思ったより早い!
────訓練はされているが……荒事の専門って訳じゃなさそうだ!
ホテルの最上階のフロアまでたどり着いた巴は、屋上へと続く非常用の扉の位置を、壁に貼られた見取り図で確認した。
このフロアで長丁場の銃撃戦は身を滅ぼす。元から階下へ向かって、フィットの元へと辿り着けるとは思っていない。
それでも運び屋としては依頼を遂行しなければならない。それに、『運び屋は必ず車に乗っていなければならない』という決まりはない。
『自分が生きていなくとも』秘密裏にブツを運ぶことができれば勝利条件を満たしたことになる。受け渡しに立ち会う相手は訝しむだろうが、運び屋はブツを運ぶことを矜持としている。どんなに汚い手段だろうと『運んで渡せば』勝利なのだ。
故に、ここで連中を戦意を挫くために迎撃するのも一つの手段だった。
勿論、どさくさに紛れて逃走を図る機会を企てる。
最上階へ到着。5階。
ここで追跡者の半数を削ることができれば御の字だ。
巴は愛銃のグリップを握る。S&W M10 FBIのサービスグリップに取り付けられたグリップアダプターに、特徴的な一山のチャンネルが指に馴染む。
そろりと、左手の小指と薬指の間にスピードローダーを挟む。長丁場は避ける。敵の殲滅が目的ではない。退路を確保。各個撃破。敵の火力が集中する前に撃破。逃走経路は壁の見取り図から数通りのパターンが計算できた。
巴は今し方登ってきた階段へと向かう。
銃口を突き出し、階下へ発砲。そこには誰も居ない。敵を此方側の階段へと集めるためのクラッカーだ。
階段は2箇所ある。緊張を強いられている人間は緊張の緩和や緊張からの不快感を払拭するために、緊張の根源となるモノを排除しようと脳がフル稼働している。
そんな時に派手な銃声を聞けば、連携が取れていても、銃声に注意が引かれる。……連携が取れているのなら、どのように連中が行動するかも予想できる。
連携ができる。
それこそが建物内部での『逃げることを前提とした鉄火場』での強みであり弱点でもある。
多数の人間と戦うのなら連携とその練度は大きな武器だ。
だが、たった一人を追い詰めるために多数が連携するとなると……狭い空間で連携するとなると、話は違ってくる。
連中は殺してでもブツが欲しい。
巴に対して手加減するつもりはない。巴はただの運び屋で、殺しても生かしても契約が履行されなければ、運び屋としては死亡したも同然だ。
そして連中は『運び屋は命がけでブツを運ぶためなら手段を選ばない』事も知っている。
その上、小さなブツを運んでいるので連中からすればその小さなブツを自分達の知らぬ場所へと隠されるほうが恐ろしい。
……と、なると、『連中の実際の戦力』は大した事がない。大方の人員はブツを探して回収するための準主力かそれ以下の三下だろう。
主力以外で割と連携が取れる人間だけを選別したか、外注で技術的な面が理由で単価が安い荒事師を雇ったか。
冷静になれば意外と勝ち目が見えてくる。
連中の大前提を細分化して分析した結果だ。問題は大きいが、基本的に遍く問題解決の方法は3つしか無い。
『類似する問題を探してその場合の解決方法を見つける』
『視点を変える』
『自力で簡単に解決できる問題になるまで微分する』
巴はこの場合、『自力で簡単に解決できる問題になるまで微分する』方法を選んだ。
どう考えても一撃で一網打尽にする展開は期待できない。
