習作【不定期】

 降りしきる雨は、過去の血痕を洗い流そうとするどこかの神様の涙か。

 濡れたアスファルトにギラつくネオンサインは、嘲弄の色を濃く滲ませ、逃げ惑う私を嘲笑う。
 昨夜からの逃亡劇は、正に悪夢の連続だった。その証拠に、背中に焼きつく銃創の痛みは、鮮明な記憶として蘇って、私の尖った神経を苛む。
 連中の執拗な追跡は、あたかも底なし沼にでも私を引きずり込もうとしているかのような悪意の塊だった。
 人気のない裏路地の片隅で……埃とカビと吐瀉物の匂いが充満する細い路地で、私は泥にまみれて蹲っていた。
 冷たい雨水は、擦り切れた革ジャンの繊維を伝って、容赦なく体温を奪っていく。腹や腕の傷口は、鈍く熱く脈打ち、あやうい意識の淵を彷徨う。
 もう、どれほどの時間をここで過ごしたのだろうか。
 雨音だけが、はるか遠い世界のBGMのように、耳の奥で薄く反響していた。
 ふと、暗闇の中で、泥水に沈む異質な黒い塊が、かすれた視界に飛び込んできた。
 本能に突き動かされるように、震える指……這う手を伸ばし、それを掴む。
 掌に伝わるのは、冷徹なまでの金属の感触。それは、微かな希望の光を宿した、どこかの神様の贈り物だった。……この際、神様ならばどこの宗教のどんな神様でもよかった。
 S&W M351c。
掌に収まるほどの小さなリボルバー。
 だが、その存在感は、今の私にとって、何よりも重い。……そして頼もしい。
 こんな雨の夜に、一体どこのどんな間抜けが、この鉄の塊を置き忘れたのだろうか。
 指先で冷たい銃身をなぞり、サムピースを押してシリンダーを外し、指で弾くように回す。
 滑らかで清らかで、それでいて鈍い金属音は、乾ききった心臓に、わずかな鼓動を呼び覚ます。……まだ、未使用の5発の銃弾が、この小さな命綱に繋がっている。7個の薬莢の尻。使用済みは2発。その2発には薬莢の尻に打痕がある。……さては元の持ち主は証拠隠滅を図ってこの銃を放り出して逃げたのか?
 路地の向こうから忍び寄る、微かな足音。雨音に紛れさせようとする気配は、長年の修羅場を潜り抜けてきた私の耳を欺けない。
 この足音は……『奴ら』だ。あの忌々しい追っ手たちが、すぐそこまで迫っている。……よりにもよって『奴ら』を放ったのか。
 軋む膝を叱咤し、ゆっくりと立ち上がる。
 視界は滲み、平衡感覚も危うい。それでも尚、掌に吸い付くS&W M351cの冷たい感触が、かろうじて私を支えてくれている。
 路地の突き当たりは、絶望的な行き止まりだ。逃げ道はない。ならば、この手の中の鉄塊を信じ、最後の抵抗を試みるしかない。
 重い引き金、引く。2度。
 雨音だけが支配する猥雑な空間を切り裂き、乾いた銃声が夜の帳を破った。
 一発。二発。
 22口径の小さな銃弾は、暗い路地に耳を聾する爆音を上げて美しい銃火を迸らせる。
 追っ手の動きをほんの一瞬、硬直させた。悲鳴とも呻き声ともつかない音が、雨音に掻き消える。
 その刹那の隙を突き、私は泥濘んだ路地を、祈るように飛び出した。
 濡れたアスファルトを蹴り上げ、全身の痛みを無視して、ただただ、ひたすら走る。
 腹や腕の傷口が、焼けるように疼き、視界は疲労に揺れる。背後からは、怒号と足音が迫りつつあり、濁流のように押し寄せ、あたかも地獄から這い上がってきた亡霊たちが、私の魂を狩ろうと追いかけてくる様を連想させる。
 けばけばしいネオンサインが、油絵のように滲む繁華街に、強引に身を滑り込ませる。
 酔っ払いの吐息と娼婦の嬌声が混ざり合う喧騒は、一時的に『奴ら』の追跡を阻む壁となる。
 雑踏の人の波に揉まれ、押し潰されそうになりながら、私はひたすら足を動かし続けた。……肺は悲鳴を上げ、喉は焼け付くように渇く。
 それでも、立ち止まることは許されない。
 立ち止まれば、そこで全てが終わる。
 ……そんな気がした。
 ジャケットの内ポケットに収まったS&W M351cは、冷たい鉄の塊として、確かな質量で自らの存在を主張している。
 頼りないかもしれない。 時代遅れの玩具かもしれない。
 だが、今の私にとって、それは唯一の武器であり、暗闇の中で瞬く、最後の希望らしき断片なのだ。
 どれほどの距離を、どれほどの時間を、どれほどの角を曲がったのか? ……走り続けたのか、歩き続けたのか? それすらも判然としないほどに疲労に意識をそがれている。
 背後の喧騒は遠ざかり、再び雨音だけが、この世界を支配する静寂が訪れた。……その静かな世界に再び踏み込んでしまったらしい。
 古びたビルの壁に沿って歩き、錆び付いた非常階段を見つける。
 冷たい鉄の階段に腰を下ろし、荒い息を繰り返した。
 コンクリートの無機質な冷たさが、熱を帯びた体に心地よく染み渡る。
 震える両手で、S&W M351cを握りしめた。
 雨に濡れ、鈍く光る黒く短い銃身。
 小さな銃口は、静かに、そして深く、夜の闇を見つめている。
 こいつが……あの雨の路地裏で、絶望の淵に立っていた私に、再び立ち上がるための力を与えてくれた。こいつがなければ、今の私はただの出来立ての屍だっただろう。
 だが、これで終わりではない。
 連中は、執念深いハイエナのように、必ず私の匂いを嗅ぎつけ、この街の隅々まで探し回るだろう。私が連中に何をしたのか? ……今となっては、もはや取るに足りないことだ。
 重要なのは、連中が私の命を狙っているという、紛れもない事実だけだ。
 濡れた前髪を掻き上げると額から滴る雨水が、額の開いた傷口に染み込み、鋭い痛みが走る。
 この痛みこそが、私がまだ生きているという証だ。
 諦めるという選択肢は、私の辞書には今のところ、存在しない。
 この手にした小さな銃を、最後の弾丸が尽きるまで、決して手放すわけにはいかない。
 空が、微かに白み始めた。夜の帳が薄々と上がり、新しい一日が顔を出そうとしている。
 雨は、まだ降り続いている。その勢いは弱まって、小雨と霧雨の中間のような優しい雨だ。
 そうやって日が昇りつつある空を見ていると、夜の激しい慟哭が、ようやく鎮まろうとしているかのような錯覚を覚える。
 私は重い腰を上げ、非常階段を下り始めた。
 一歩、また一歩。
 錆び付いた鉄板が軋む音が、静まり返った朝の空気に寂しく響く。
 向かうべき場所など、どこにもない。ただ、猟犬のような……『奴ら』の手から、一刻も早く遠ざかることだけが、今の私の唯一にして最大の目標だ。
 裏路地を抜け、朝を迎えたばかりの街を彷徨う。
 まだ人影はまばらだが、徐々に活動を始める人々の気配が、遠くから聞こえてくる。
 その喧騒の中に身を隠し、雰囲気だけでも、透明人間のように、街の風景に溶け込もうとした。……今の私の風貌は少し目立ちすぎる。
 『奴ら』の嗅覚は、想像以上に鋭敏だ。
 背後から、まるで獲物を定める猛禽のような、鋭い視線を感じた。
「!」
 振り返ると、黒塗りのセダンが、濡れた路面を滑るように、ゆっくりと私の横を通り過ぎていく。
 助手席の男と目が合った。冷酷な、感情の欠片もない眼光。『奴ら』だ。
 あの悪夢のような追跡者たちが、『そこにいる』。
私は、針で突かれたように再び走り出した。
 早朝の表通りを切り裂かんばかりの速さで、必死の形相で街を駆け抜ける。
 背後からは、野獣の咆哮のようなエンジンの唸りと、けたたましいクラクションの音が、追い立てて来る。少ないとは言え、衆人環視の中で私を轢き殺すのは遠慮してるのか?
 逃げなければ。
 生き延びなければ。
 ジャケットの内ポケットで、S&W M351cを握りしめる手に、一層力がこもる。
 残りの銃弾は、たった3発。
 一発たりとも、無駄にはできない。
 それは、今の私にとって、最後の切り札であり、未来を繋ぐ細い糸なのだ。
 公園の茂みに飛び込み、鬱蒼とした木々の陰に身を隠す。
 荒い息を潜め、神経を研ぎ澄ませて、追っ手の気配を探る。
 エンジンの音は、遠ざかったようだが、まだ油断はできない。『奴ら』は、狡猾な狩人のように、獲物が疲弊するのを待ち構えているのかもしれない。……いや、待ち構えている。……同じ立場なら私もそうするからだ。
 苔むしたベンチの陰で、私はS&W M351cのシリンダーをスイングアウトさせて再確認。
 残弾は、わずか3発。たった3発の銃弾で、この絶望的な状況を打破しなければならない。
 それは、あまりにも心許ない戦力だが、それでも、指を咥えて死を待つよりは、遥かにマシだ。
 公園の遊歩道を、数人の男たちがゆっくりと歩いてくる。
 見慣れた顔だ。
 昨夜、あの雨の路地裏で、私を追い詰めた連中だ。『奴ら』は、獲物の匂いを嗅ぎつける猟犬のように、鋭い視線を周囲に走らせている。
 その顔には、焦燥と苛立ちが滲み出ている。
 私は、古木の幹の陰に身を潜め、心臓が破裂しそうなほどの拍動を抑え込んだ。
 この五月蝿い心臓の音が、『奴ら』の耳に届いてしまうのではないかという、拭い去れない恐怖に襲われる。
 『奴ら』は、私の隠れている場所のすぐ近くで足を止めた。隠れている場所が特定されたわけではないようだ。
 低い、押し殺したような声で、何かを話し合っている。内容は断片的にしか聞こえないが、その声色からは、獲物を逃した焦りと、必ず捕らえようとする執念が伝わってくる。
「一体どこへ消えやがった?」
 低い、喉を絞り出すような声が、耳に突き刺さる。
「まだこの公園内にいるはずだ。徹底的に捜索しろ」
 別の男の、冷酷な声が答える。その会話からして、この場に指揮官と兵卒が居ることが分かっただけでも助かる。戦力の解析は重要だ。
 私は、S&W M351cのつや消しの銃身に指を這わせた。
 今、引き金を引くべきか?
 だが、三対一。
 冷静に考えれば、勝ち目などありはしない。
 ここは、『奴ら』が過ぎ去るのを、じっと耐え忍ぶしかない。耐え忍ぶ訓練をもっと真剣に受けていれば、この苦痛はもう少し楽になっていたかもしれない。
 『奴ら』は、しばらくその場で低い声で話し合った後、きびすを返し、再びゆっくりと歩き始めた。
 私は、彼らの姿が完全に視界から消えるまで、まるで石像のように、一寸たりとも動かなかった。
 『奴ら』の気配が完全に消え去ったのを確認した後、私はゆっくりと立ち上がった。
 全身の筋肉は、緊張と疲労で悲鳴を上げ、まるで鉛を流し込まれたように重い。
 しかし、立ち止まっている時間など、一秒たりともない。
 『奴ら』は、すぐに戻ってくるかもしれない。
 公園を抜け出し、再び街の中へと足を踏み入れる。今度は、人通りの多い大通りを避け、裏道や抜け道を縫うように進む。……この世界から姿を消すように、ひっそりと息を潜めて。
 空は、すっかり明るさを増し、朝の光が街全体を優しく包み込んでいる。
 だが、私の心には、依然として鉛色の暗雲が垂れ込めている。
 太陽の光は、希望の象徴などではない。それは、『奴ら』の目を欺き、私の姿を隠すための、薄いベールのように感じられた。そして、そのように感じようとしている。認知が歪む音が聞こえてきそうだ。
 空腹と渇きが、容赦なく俺の体力を奪っていく。
 喉は頼りない笛を吹くように渇き、腹の底からは、飢餓の叫びが聞こえてくる。
 どこかで、水と食料を手に入れなければ、この逃亡を続けることはできない。だが、今の私には、それすらも至難の業だ。
 ふと、古びた佇まいの日用雑貨店が、目に飛び込んできた。
 薄暗い店内には、年季の入った商品が所狭しと並べられ、埃の匂いが漂っている。
 人の気配は、店員の年寄り以外に感じられない。
 私は、震える手を鎮め、慎重に店の扉を開けた。
 古びた蝶番が悲鳴を上げ、ギィ、という不吉な軋む音が、静まり返った店内に響き渡る。
 奥の薄暗がりから、白髪交じりの老いた店主が、やや眉をひそめた表情で顔を出した。
「いらっしゃいませ……」
 店主の声は、乾いた木擦れのように、かすれて小さかった。
 私は、できるだけ穏やかな声で言った。
「すみません、会計お願いします」
 店主は、物を選ばず、ミネラルウォーターのペットボトルと握り飯3個を掴んでレジ前に置いた私を前にして老眼鏡をかけてレジを打ち始めた。
 私は、擦り切れたズボンのポケットから、わずかに残った、濡れて皺くちゃになった紙幣を1枚取り出すと、店主の前に差し出した。
 店主は、それをじっと見つめた後、何かを読み取るように目を細め、つい、と奥へと引っ込んだ。
 しばらくして、店主は古びた大きなグラスに並々と注がれた氷水を持って現れた。
「まあ、飲みなさい『白湯で長っ尻をするより、目を覚まして仕事をしなきゃならんのだろ?』」
 私は、感謝の目礼をして、それを一気に飲み干した。
 冷たい水が、乾ききった喉を潤し、干上がった体に、わずかな活力を与えてくれる。
 私は、喉の渇きを癒し、飢えを凌ぐことができた。だが、店主の言う通りに長居はできない。ここに長く留まるわけにはいかない。『奴ら』の嗅覚は鋭い。すぐに、この寂れた日用雑貨店にまで、追っ手が迫ってくるかもしれない。
 店主に軽く頭を下げるときびすを返し、私は再び重い足で、朝の街へと踏み入れた。
 腹を満たしたことで、体にわずかな力が戻ってきた気がする。それでも尚、心の奥底にある不安の影は、依然として消えることはない。
 ジャケットの内ポケットに、S&W M351cをそっと戻す。冷たい金属の感触が、微かに震える指先に伝わり、私を辛うじて現実に繋ぎ止めている。
 こいつが心を支えてくれなかったら、今の私は、ただの抜け殻だっただろう。それは屍以前の問題だ。
 私は、朝の喧騒の中に紛れ込み、まるで幽霊のように、街の流れに身を任せた。
 行く先など、どこにもない。ただ、『奴ら』の追跡から逃れ、今日という一日を生き延びることだけが、今の私の唯一の願いだ。
 心の奥底には、小さな炎が燃えている。
 それは、どんなに過酷な状況に置かれても、決して消えることのない、生き延びようとする強い意志の炎だ。
 たとえ、この先にどんな道が待ち受けていようとも、私は決して諦めない。……そう思わせる闘志だ。
 S&W M351c。
 それは、単なる偶然の拾い物ではない。
 絶望の淵で、私が掴んだ、最後の希望の象徴なのだ。この小さな銃と共に、私は必ず生き抜いてみせる。
 たとえ、それが血塗られた、艱難辛苦しかない道であろうと……。

 いつの間にか、雨は完全に止んでいた。
 東の空からは、眩しい朝日が差し込み、濡れた街を優しく照らしている。
 俺の心とは正反対だな、と心の中で自嘲する。
 逃亡は、まだ終わらない。もしかしたら、逃亡の序章にも達していないのかもしれない。


 私は、静かに、そして確実に、生きるための道を模索し続ける。


 この手の中の、小さく、そして頼りにしている相棒と共に。

《習作#1・了》
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