第一話:「彼女に到るまでの距離」
本だけは……本だけが、心に清涼を与えてくれる。殊に良書と呼ばれる類の著書と出会うことが出来た時は、心が打ち震える快感を覚えるくらいだ。
真樹はそれを「頭のおやつ」と心の中で定義している。
思想・哲学の啓蒙的内容だけにそれは留まらない。
真樹にとって読書といえば文学や伝記だけを指す内向的な趣味ではない。
実用書、文芸書、参考書、事典も守備範囲だ。赦されるのならラブクラフト全集に登場する魔導書と呼ばれる架空の書籍も読んでみたいと思っている。
図書室と図書館と立ち読みの出来る書店は彼女のオアシスだ。学校内では外見の通りに書物を耽溺する文系少女で通用している。
定期テストはまだ行われていないが、繰り返された抜き打ち小テストの結果、現時点では主要五科は中の上。体育等の実技科目も中の上。平常の素行にも「今は」目立った点はなく、「読書好きな普通のおとなしい生徒」だった。
「……」
……それを踏まえた上で。
真樹は露骨に不機嫌な顔をして『図解 運動力学の応用』と書かれたA4サイズの書籍に紐の栞を挟んで閉じた。
昼休みの図書室でのことだ。
机を挟み、目前に横柄な態度で椅子に座った級友の少年を不快に感じたからだ。
姿恰好が不快なのではない。性格的に問題があるから嫌っているだけだ。クラス内では軽口を連発するお調子者で人気があるが、誰彼構わず自分のペースで話し掛ける嫌な奴という認識をどうしても払拭することが出来なかった。
「なぁ、円城。ちょっと付き合ってくれよ……性的な意味で」
コイツにだけは不殺の誓いを破っても御天道様が赦してくれるに違いないと常々感じている。
少々整った顔つきをしたハンサムな部類に入るコイツの名前は荒木田祐輔(あらきだ ゆうすけ)。入学以前から顔馴染だったわけではない。入学して、クラス分け直後に教諭が適当にクジを引かせて決めた隣の席にコイツが居た。
詰まり、たった1ヶ月の席が隣同士だけの付き合い。
祐輔が真樹に近付こうとする目的は唯一つ。
『学生生活に潤いを求めるために異性と付き合いたいだけ』。
その真意は充分理解するが、自分のような本の虫に目を付けた理由が解らない。父親を篭絡するためにエシュロンが放った工作員で、その作戦の第一段階として自分に接触を図っているだけなのかも? と勘繰ったりもする。
エシュロンの工作員説は突飛としても、魅力的な異性なら他に幾らでも居よう。
それにしても何故、自分なのだ。
色恋沙汰は嫌いではないが、遠巻きに眺めているから楽しいのであって、自身が当事者になると色々面倒臭い。
他人のために時間と金と機嫌を使うのが馬鹿らしいのだ。
『孤独は最高の贅沢。最良の友』と遺書に書き残したフランスの戯曲作家が居たと記憶しているが、コイツのニヤケ面を見ていると痛いほど理解出来る。
「円城よぉ。俺には解るんだぜ……『普通の皮を被っているだろ?』」
―――!
―――コイツ!
真樹の心臓に氷を押し当てられた感覚が走る。
「おっと。そんな怖い顔すんなよ……安心しろよ。俺は『既に剥けている!』」
思わず、手にしていた『図解 運動力学の応用』を真正面のニヤケ面に叩き付けた。
「あんた、馬鹿でしょ?」
真樹は出来る限り平静を装った声で浴びせ掛けたが、その直前に執った行動は明らかに感情の昂ぶりだった。
高校に入れば少しは馬鹿が減ると思ったが、考えてみれば高校に入ることが出来るだけのアタマを持った馬鹿が多数の校区から集まって来るわけだ。中には想像を絶する思考回路を持った人間も混じっている。
真樹とて自分より劣る人間を軽蔑し、容赦なしに格付けする非情な少女ではない。
彼女は自分で思っている以上に温和な平等主義者だ。本当に人智を超えた神と呼ばれる何かしらが人の上下に人を作ったというのなら、そんな天国は真っ平ゴメンだと普段から毒吐いている。
『人間とは平等ゆえに争いを起こすのではないか?』
そんな壮大な哲学問答も白けて霞むくらいに詰まらないことで血圧を上げている自分が情けなかった。
その情けない自分も、今直ぐこの荒木田祐輔なる不埒者を殴り飛ばせば赦せる気がした。
「いつでも『紳士の嗜み』を用意して待ってるからな!」
意味もなく祐輔はガッツポーズを取って見せるが、親指を握り拳の指の間に握り込んだものだと判ると、今度はコメカミに三叉路を作った真樹が立ち上がってそのまま、踵を返した。眉に深い皺が寄っている。
何故か、「逆ハの字」を成した眉の怒り顔がキュートに見えるから、祐輔は真樹を挑発するわけだが、真樹がそれに気づく筈もない。
帰宅部員の真樹は放課後、図書室で1時間程「頭のおやつ」を堪能した後、帰路に就く。この学校の入試を受ける理由の半分くらいは、琴線に触れる蔵書が豊富な図書室が気に入ったからだ。
美野里に「文芸部に入れば?」とアドバイスされたが、気ままに読み漁っているのが好きなのであって、上下関係のある組織に組み込まれて束縛されるのが嫌なのだ。
美野里はおっとりとした性分とは裏腹に、全国でも珍しい杖道部に入部した。
私立北賀陽高校に有る杖道部は神道夢想流杖術を修練しているが、打ち込みはせずに、型稽古を部員に広めている。美野里自身は入部して1ヶ月しか経過していないために、大した業は何も習得していない。専用の道着も杖も未だ所持していない。
うっかり、図書室で読書に没頭しているとかなりの確率で部活が終わった美野里と合流してしまう。
「お疲れさま」
「うむ。お疲れた」
小さな胸を逸らしておどける美野里を見る度に、内心で「可愛いなぁ」と漏らす。
美野里とは入学以来の友人で、小癪なことに祐輔とほぼ同時期に接触して直ぐに打ち解けた。
「今日も本の虫?」
「そう。坊主」
「ぼうず?」
「坊主の語源。昔、大きな書庫のことを坊といったの。で、そこで常に陣取って勉学に励んでいた職業の人間が僧侶だったから、坊の主……『坊主』と呼ばれるようになったの」
「へー。お婆ちゃんのシワ袋だねぇ」
「あー、色々間違えてる……ドコのシワ袋だよ。それ」
殆ど同じ背丈の二人は他愛の無い話で盛り上がる。
何ともない、いつもの帰り道。
この安穏が何時までも続きますように。
そう、願う日が訪れるとは、静かな毎日に憧れる日々が訪れようとは神ならぬ彼女にそれが予想できただろうか?
※ ※ ※
「……それだけ痛い思いをしても収穫無しか」
暗がりの中、使い捨てライターの火を熾す。
火の僅かな灯りに若い女の顔が浮かび上がるが、顔の上半分は光源が足りずに表情や造りまでは確認できない。
火を横咥えにしていた煙草に移す。
「まあ、いい。何か、考えておく」
女の髪が揺れて耳元から携帯電話が離れる。
「……少しは遊べる奴が居たんだねぇ」
※ ※ ※
「ん?」
真樹の自室にて。
パジャマに着替えている途中の手を止めて、背後を振り返るが誰も居ない。
――――疲れてるんだ。
この時、僅かな胸騒ぎを真剣に捉えていても彼女にはどうすることも出来なかったのは言うまでもない。
《第1話・終》
真樹はそれを「頭のおやつ」と心の中で定義している。
思想・哲学の啓蒙的内容だけにそれは留まらない。
真樹にとって読書といえば文学や伝記だけを指す内向的な趣味ではない。
実用書、文芸書、参考書、事典も守備範囲だ。赦されるのならラブクラフト全集に登場する魔導書と呼ばれる架空の書籍も読んでみたいと思っている。
図書室と図書館と立ち読みの出来る書店は彼女のオアシスだ。学校内では外見の通りに書物を耽溺する文系少女で通用している。
定期テストはまだ行われていないが、繰り返された抜き打ち小テストの結果、現時点では主要五科は中の上。体育等の実技科目も中の上。平常の素行にも「今は」目立った点はなく、「読書好きな普通のおとなしい生徒」だった。
「……」
……それを踏まえた上で。
真樹は露骨に不機嫌な顔をして『図解 運動力学の応用』と書かれたA4サイズの書籍に紐の栞を挟んで閉じた。
昼休みの図書室でのことだ。
机を挟み、目前に横柄な態度で椅子に座った級友の少年を不快に感じたからだ。
姿恰好が不快なのではない。性格的に問題があるから嫌っているだけだ。クラス内では軽口を連発するお調子者で人気があるが、誰彼構わず自分のペースで話し掛ける嫌な奴という認識をどうしても払拭することが出来なかった。
「なぁ、円城。ちょっと付き合ってくれよ……性的な意味で」
コイツにだけは不殺の誓いを破っても御天道様が赦してくれるに違いないと常々感じている。
少々整った顔つきをしたハンサムな部類に入るコイツの名前は荒木田祐輔(あらきだ ゆうすけ)。入学以前から顔馴染だったわけではない。入学して、クラス分け直後に教諭が適当にクジを引かせて決めた隣の席にコイツが居た。
詰まり、たった1ヶ月の席が隣同士だけの付き合い。
祐輔が真樹に近付こうとする目的は唯一つ。
『学生生活に潤いを求めるために異性と付き合いたいだけ』。
その真意は充分理解するが、自分のような本の虫に目を付けた理由が解らない。父親を篭絡するためにエシュロンが放った工作員で、その作戦の第一段階として自分に接触を図っているだけなのかも? と勘繰ったりもする。
エシュロンの工作員説は突飛としても、魅力的な異性なら他に幾らでも居よう。
それにしても何故、自分なのだ。
色恋沙汰は嫌いではないが、遠巻きに眺めているから楽しいのであって、自身が当事者になると色々面倒臭い。
他人のために時間と金と機嫌を使うのが馬鹿らしいのだ。
『孤独は最高の贅沢。最良の友』と遺書に書き残したフランスの戯曲作家が居たと記憶しているが、コイツのニヤケ面を見ていると痛いほど理解出来る。
「円城よぉ。俺には解るんだぜ……『普通の皮を被っているだろ?』」
―――!
―――コイツ!
真樹の心臓に氷を押し当てられた感覚が走る。
「おっと。そんな怖い顔すんなよ……安心しろよ。俺は『既に剥けている!』」
思わず、手にしていた『図解 運動力学の応用』を真正面のニヤケ面に叩き付けた。
「あんた、馬鹿でしょ?」
真樹は出来る限り平静を装った声で浴びせ掛けたが、その直前に執った行動は明らかに感情の昂ぶりだった。
高校に入れば少しは馬鹿が減ると思ったが、考えてみれば高校に入ることが出来るだけのアタマを持った馬鹿が多数の校区から集まって来るわけだ。中には想像を絶する思考回路を持った人間も混じっている。
真樹とて自分より劣る人間を軽蔑し、容赦なしに格付けする非情な少女ではない。
彼女は自分で思っている以上に温和な平等主義者だ。本当に人智を超えた神と呼ばれる何かしらが人の上下に人を作ったというのなら、そんな天国は真っ平ゴメンだと普段から毒吐いている。
『人間とは平等ゆえに争いを起こすのではないか?』
そんな壮大な哲学問答も白けて霞むくらいに詰まらないことで血圧を上げている自分が情けなかった。
その情けない自分も、今直ぐこの荒木田祐輔なる不埒者を殴り飛ばせば赦せる気がした。
「いつでも『紳士の嗜み』を用意して待ってるからな!」
意味もなく祐輔はガッツポーズを取って見せるが、親指を握り拳の指の間に握り込んだものだと判ると、今度はコメカミに三叉路を作った真樹が立ち上がってそのまま、踵を返した。眉に深い皺が寄っている。
何故か、「逆ハの字」を成した眉の怒り顔がキュートに見えるから、祐輔は真樹を挑発するわけだが、真樹がそれに気づく筈もない。
帰宅部員の真樹は放課後、図書室で1時間程「頭のおやつ」を堪能した後、帰路に就く。この学校の入試を受ける理由の半分くらいは、琴線に触れる蔵書が豊富な図書室が気に入ったからだ。
美野里に「文芸部に入れば?」とアドバイスされたが、気ままに読み漁っているのが好きなのであって、上下関係のある組織に組み込まれて束縛されるのが嫌なのだ。
美野里はおっとりとした性分とは裏腹に、全国でも珍しい杖道部に入部した。
私立北賀陽高校に有る杖道部は神道夢想流杖術を修練しているが、打ち込みはせずに、型稽古を部員に広めている。美野里自身は入部して1ヶ月しか経過していないために、大した業は何も習得していない。専用の道着も杖も未だ所持していない。
うっかり、図書室で読書に没頭しているとかなりの確率で部活が終わった美野里と合流してしまう。
「お疲れさま」
「うむ。お疲れた」
小さな胸を逸らしておどける美野里を見る度に、内心で「可愛いなぁ」と漏らす。
美野里とは入学以来の友人で、小癪なことに祐輔とほぼ同時期に接触して直ぐに打ち解けた。
「今日も本の虫?」
「そう。坊主」
「ぼうず?」
「坊主の語源。昔、大きな書庫のことを坊といったの。で、そこで常に陣取って勉学に励んでいた職業の人間が僧侶だったから、坊の主……『坊主』と呼ばれるようになったの」
「へー。お婆ちゃんのシワ袋だねぇ」
「あー、色々間違えてる……ドコのシワ袋だよ。それ」
殆ど同じ背丈の二人は他愛の無い話で盛り上がる。
何ともない、いつもの帰り道。
この安穏が何時までも続きますように。
そう、願う日が訪れるとは、静かな毎日に憧れる日々が訪れようとは神ならぬ彼女にそれが予想できただろうか?
※ ※ ※
「……それだけ痛い思いをしても収穫無しか」
暗がりの中、使い捨てライターの火を熾す。
火の僅かな灯りに若い女の顔が浮かび上がるが、顔の上半分は光源が足りずに表情や造りまでは確認できない。
火を横咥えにしていた煙草に移す。
「まあ、いい。何か、考えておく」
女の髪が揺れて耳元から携帯電話が離れる。
「……少しは遊べる奴が居たんだねぇ」
※ ※ ※
「ん?」
真樹の自室にて。
パジャマに着替えている途中の手を止めて、背後を振り返るが誰も居ない。
――――疲れてるんだ。
この時、僅かな胸騒ぎを真剣に捉えていても彼女にはどうすることも出来なかったのは言うまでもない。
《第1話・終》