第一話:「彼女に到るまでの距離」

 しかし、自分は兎も角、美野里に何らかのペナルティが課されてしまっては慙愧に堪えない。
 予め下見して確保しておいた退路を通り、2人は早々に立ち去った。

 後日、この一件は誰に何も咎められる事無く過ぎ去る。
 それを顧みるに、学校や公的機関には一切感知されない事件として終わったようだ。
 美野里も心配していた両親には「寄り道していた」で押し通した。
 ただ、真樹の場合は少し事情が違った。
「評価を出せ」
 精悍な顔つきに熊髭を蓄えた40代前半位の男――刃が欠けた鑿で削った様な野性的なセックスアピールが印象的な風貌――は四畳半の狭い書斎の中でノートパソコンのキーを叩きながら「休め」の姿勢で立つ真樹に対して言い放った。
 その姿は上官が部下に対して行うそれと同じ雰囲気を持っていたが、この二人は紛うことなく、「親子」だった。
「作戦カテゴリー『救出』。作戦概要『投入戦力1。支援無し。遂行時間3分15秒。退路を確保した後、敵戦力の撹乱及び無力化を優先順位1としてパック(人質)の救出』。推定難度3。敵戦力10。損害率100%。非損害率0%。」
 熊髭が印象的な父親はノートパソコンから顔を上げ、老眼鏡を外しながら、安っぽいオフィスチェアを回転させた。部下の次の報告を待つ上官の顔で視線を、そこに立つ娘に注ぐ。
「では、『救出』なのに優先順位を敵戦力に割いた理由は?」
 敬礼でもしかねない凛とした表情で真樹は答えた。
「投入戦力は1で、近接戦闘を不得意としています。戦闘距離を保つために投擲兵器を急造して脅威を排撃した後に遂行目的を入手し、速やかに撤退する事項を採用したからです。従いまして、敵戦力に対する間接的打撃と直接的撹乱の成功が主要だと判断したからです」
「……」
 父親の間柄にいる男は手元のヒュミドールからハバナ製機械巻のジスパートハバナレス№2を取り出して、セロファンごと吸い口をギロチンカッターで切り落とした。
「自評は?」
「当初の目的を完遂した事を鑑みて『A-』です」
「『A+』に達しなかった理由は?」
 真樹はクッと息を呑んだ。
 父親は険しい顔でジッポーを鳴らして火を点けた。
「それは……」
「それは?」
 真樹は葉巻を咥える熊髭を見据えて荒立て気味な声質で言う。
「それは、親友に外敵の脅威を与え、尚且つ救出にいたるまでの危険に晒してしまったからです!」
「……」
「……」
 狭い室内にハバナの機械巻の香りが充満し、それを感知した空気清浄機と換気扇が静かに作動する。
 重い空気が二人の間に流れる。
「そうだ。『合格』だ……作戦としては及第点をクリアしたくらいだが、心が伴っていなければ『親友は救えない』。大事小事をなすにも、友人や他者を思う心がなければ、それは機械のように『作動』しただけでしかない」
 漸く、愛娘を慈しむ目で見る父親らしい顔を見せて満足に頷いた。
 この熊髭の心中を表すように濃厚な紫煙が景気良く吐き出される。
 父親。円城真雅(えんじょう まさや)。41歳。職業・小説家。
 元米国陸軍某特殊任務群隊員で在籍中は「作戦立案」「生存術」「応急衛生」「爆破・解体」のエキスパートとして世界中の低強度紛争地帯を渡り歩く。教官として、兵士として、顧問として干渉の厳しい小国の軍隊を率いた経験もある。
 公の最終軍歴は大尉であるが、作戦内容や干渉国への派遣に際しては暫定的に階級が上昇した。現地で指揮を執りやすくするために、現地の軍人より階級が高い方が有利だったからだ。勿論一通りの武器や格闘技も扱えるが、特殊部隊ではアンバランスに突出した戦闘力しか取り得のない兵士に居場所はない。物理的戦闘術は「行えて当然。使えて当然」なのだ。特殊作戦を行う部隊にとって戦闘技術など、挙げれば暇がないスキルの一つでしかない。その上で前述の項目を得意としている。
「男の中の男たれ」の言葉の元、西側国家を水面下で支えた男は退役後、祖国で著述業を糊口の糧として生きている。26歳の頃に出会った2歳年上の日本人女性と結婚して現在に到る。
 初めて授かった娘に幼少の頃より、「やがて来る万が一」のために自身が身に付けた技術と知識を伝授し、それを実地で経験させるために学校が休日の時には山野や河川、海浜を走り回った。その中で、多機能ナイフとアナログ時計の有用性を体感させた。
 中学生の頃には毎年夏休みになると、語学を名目に米国ミシシッピー州に点在するマークスクールに1ヶ月も放り込んだ。普段の生活は元より、自分の命に直結する授業も全て英語なので短期間でネイティブなアメリカ英語を体得した。
 幼稚園時分から、両親から咄嗟に英語で受け答えすることを躾られていたために基本的な文法は既に習得していた。両親曰く「受験をクリアするためだけに詰め込んで、応用する機会のない『硬い外国語』は無意味である」らしい。
 物理学者である母親もネイティブなトリリンガルだった。
 勿論、「その力」の使い方を間違えないように教育することも忘れていない。
 強い力を持てば責任も大きい。
 故に、真樹は「早く育った」。
 さて、真樹本人はと言うと……。
 好きで覚えた技術ではなかったが、別段、抵抗もなかった。
 呼吸をするように、毎日に学習が普通にあった。幼い真樹にも充分解る程にこの技術があらゆる分野で「使える」ことが噛み砕かれて吸収されていた。
 咄嗟の応急処置や地図の効率の良い読み方は日常で充分有効だし、ロープワークも覚えているか否かで作業効率が違ってくる。お陰でアーミーナイフ1本にしても「缶切りは缶切り、栓抜きは栓抜きにしか使えない」という固まった発想もない。
 刃物で怪我もしたし、怪我をさせられたことも、させたこともある。「痛み」を知らぬ経験は大した成長を促さない。
 それは紙が油を吸う様にじっくりと深く学習し、体感を通じて感覚にまで昇華されていた。
 一応、傭兵訓練所ことマークスクールを卒業しているので、あらゆる対人戦闘も修得してはいるが、得意ではなかった。
 明らかな膂力不足とスタミナの問題、それ以前に法治国家で生まれた所為もあって、彼女自身は他人を直接的に殺傷する技術を忌み嫌っていた。
 「葦の矢」の先端に発泡スチロールを取り付けるなど、他人を傷付けるかもしれない急造武器にさえ最低限のセフティケアを施すくらいだ。彼女自身が言う通り、最強の護身武器は大声を張り上げることだ。
 無論、真樹が修めている全ての技能が全力で発揮される事態が今の日本で起こるとすれば、それは即ち有事に等しい非常事態を意味している。
 そもそも、最近漸く著述業者として落ち着いた父親にすら頻繁に戦線復帰を促す手紙や電話がやって来る。真樹の観測していない世界では常に戦場なのだ。それはメディアが伝えるよりも遥かに現実で非情な世界を物語っている。
 真雅は、この世界を憂い果敢なむだけで何もしない平和ボケ人種に嫌気が指しているのかもしれない。それが愛娘に「自力で解決する能力」を与えたとすれば、猛禽の皮を被った鳩だと揶揄されても文句は言えないだろう。
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