第一話:「彼女に到るまでの距離」

「……来てるよ……真樹はすぐそこまで来てるよ……」


 スカートのポケットの底から集めた埃屑に制服の表面に付着していた玉状の綿埃を指で軽く揉んで丸い玉を作る。
 その埃の玉を、ハンドタオルを巻き付けたガラス片の先端に乗せて無造作に罅が酷い漆喰塀に擦りつける。
 摩擦熱であっという間に小さな火種が発生する。
 小さな創りの可憐な唇に火種を近付けると2回、息を優しく吹き付けた。
「……」
 ガラス片を足元に落とす。
 罅割れた雨樋の内側を浅く浸す液体に火種が接触すると、雨樋の上を炎が走った。その先には連中の停車した原付バイク。……横たわる雨樋を浅く満たす、燃える液体は原付バイクから零れ落ちた物だ。
 アーミーナイフの栓抜き先端に付いている-ドライバーと多機能プライヤーを駆使して、ホンの2分で解体したヒューエルパイプから燃料が漏れている。目的を果たすのに大量の可燃物は要らない。確実な「導火線」が有ればそれでいい。
 違法改造の原付バイク1台が火柱を上げるまで10秒もかからなかった。


「あーっ! 俺の原チャリ!」
 不意に窓の外が明るくなったと思ったら、愛車が炎上していた。
 屯していた9人の内、3人が一番近い出入り口に殺到して錆の酷いスライド式の片面扉を開いた。
 その途端、足元に張られたザイルに爪先を取られて盛大につまづく。顔面を強かに打った3人は例外なく、自分達の感覚より近くに停車して炎上している原付バイクの熱気で肌を舐められた。
「アチぃ!」
「うわっ」
 短い悲鳴を挙げながら顔面を押さえたり、貰い火で焦げた前髪を慌てて叩いていた。
 ズボンのポケットからスパイダルコナイフのコピー品を抜いた少年はそれを握り締めて、安い光沢を放つ台湾製の手錠で拘束されている美野里に駆け寄ろうとした。
「!」
 ナイフを握る手の甲に矢が刺さった……かのように見えたが、実際は長さ40cmほどにカットされた葦だった。先端には錘の小石。反対側には弾道を安定させるための細い布切れ。
 二矢目が間髪入れずに少年の右目に命中する。
 今度は発泡スチロールで先端をカバーした葦の矢だった。大したダメージではないとしても、眼球に直接命中すれば暫くは視界が塞がれる。事実、少年はナイフを落とし、大袈裟に顔を押さえて苦悶する。
「! 来たか!」
「どこだ!」
 他の少年5人も、見栄だけの安いナイフや有刺鉄線を巻き付けた鉄パイプを握るが、真樹の姿は視認できない。
 気配は有る。鈍感な人間にも解るように四方の壁が外側から叩かれている。
 それも複数。「同時」に。
 暗い鉄工所内部の各所でガラスが激しく割れる音がする。
 その度に少年達は視線を走らせるが、誰も何も視界に捉えられない。
 ガラスが割れる音がするのに「この建物の窓ガラスは一枚も割れていない」。
「イタッ」
 一人の少年が蹲って脛を抱えて転げる。発泡スチロールのカバーを外した葦の矢が命中したのだ。余ほど痛かったのか涙目になっている。錘の小石が的確に命中したらしい。


「……5人目」
 真樹は鉄工所の罅割れた漆喰の塀に背中を預けて「への字」に折った塩ビパイプの先端から葦の矢を差し込んだ。
 梃子の原理を応用した古代からある槍投げ器「アトゥルアトゥル」を作成したのだ。これを用いれば槍の破壊力は格段に上がる。おまけに手で石を投げるより素直な弾道で的に命中する。
 オモチャのような葦の矢でも、先端にそれらしい鏃を付ければ人間を充分に殺傷できる兵器に変わる。
 撹乱させるために、拾ったガラス片を窓の隙間から建物内にカードを投げる要領で次々と放つ。形状により出鱈目な軌道を描くガラス片は右へ左へと勝手にカーブして連中を掻き回すのに役立った。
 発泡スチロールのカバーが付いた葦の矢で容赦なく顔面を狙い、カバーの無い矢で脛や手の甲等、肉が薄い箇所だけを狙撃する。
「……6人目……7人目」
 頻繁に場所を転々としながら矢を放つ。
 残り2人。
「人質だ! コイツを使え!」
 2人が一斉に美野里に襲い掛かる。
「……」
 美野里は必死の形相の二人を見てペロッと小さく舌を出す。
 美野里の真っ直ぐな視線の先には「1m50cmのザイルで作ったボーラ」を振り回している真樹がいた。月明かりを背に、眼鏡のフレームがハイライトを描く。
 放たれたボーラ――2個の石を紐で繋いだだけの、獣の捕獲道具――は並列になって美野里に駆け寄る2人の少年の足首を二人三脚さながらに強制的に連結させた。お互いの息が合う道理もなく、2人はその場に顔面から倒れ込んだ。
 全員の「無力化」に要した時間は3分。
 真樹は銃床を振り回すように塩ビパイプの取っ手の底部で煤けた窓ガラスの縁を叩き割ると、塩ビパイプの先端を天井に向けながら窓から侵入して来た。
 本物の銃火器でも扱うように葦の矢が装填されたパイプの先端を天井に向ける。
「ゴメンね。遅くなっちゃった」
「もう。謝る言葉が違うでしょ!」
 美野里は少し不機嫌だ。
 塩ビパイプを床に置き、アーミーナイフの-ドライバー兼栓抜きの根元に有るワイヤーストリッパーで、落ちていた針金の先端を「¬の字」に折り曲げる。
「……ん。ごめん……巻き込んじゃった」
「ん! 赦す!」
 安物の手錠を、3mmばかり先端を折り曲げただけの簡単な開錠道具でものの10秒で解放する。
「このアマぁ!」
 背後で二人三脚の恰好で倒れたままの少年が、バックホールディングのナイフのコピー品を投げナイフのモーションで振り被っていた。
「!」
「真樹!」
 真樹は床に置いた塩ビパイプを拾うと流れるような槍投げ器のモーションで矢を放った。
「あ……」
 少年の鼻っ柱に塩ビパイプが命中し、葦の矢は明後日の方向に飛んでいき、無意味に壁に当って落ちた。
 真樹の手中から塩ビパイプがすっぽ抜けた結果だった。
 ……当然だが。
 発泡スチロールのカバーが付いた葦の矢より、塩ビパイプそのものを顔面に受けた方がダメージは大きい。運動エネルギーが乗るよりも近い距離では、質量そのもののエネルギーの方が威力を発揮する。
 少年は鼻血をダラダラ流しながら首を前に折るようにその場に伏せてしまった。重みの無いコピー品のナイフが転がる。
 真樹は少年の付近に落ちた塩ビパイプを回収して後ろ腰のベルトに差していた葦の矢を素早く装填した。
「早く行こう」
 炎上する原付バイクの異臭や異変で近隣の住民がそろそろ通報するはずだ。
 裏手へ通じる出入り口に二人は駆け寄り、緑青が浮いた古い南京錠を、先程手錠の開錠に用いた針金を使って開ける。流石に1本では事足りずに早急にもう1本拵えて2本用いた。
 美野里の運動神経が自分と同じだと保障されていれば窓から飛び出しても良かったが、拘束されて疲労している彼女にそれを強要するのは無理があると思ったのだ。
「さ。早く!」
 美野里を先行させて真樹は、体勢を整えた最初にサイルで足元を掬った3人に対して葦の矢を放つ。逃げる為の時間稼ぎなので、残弾など確認せず、的確に顔面に命中させて足止めさせる。葦の矢が無くなると塩ビパイプを投げつける。
 遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。
 自分達に一方的な非が有るわけではないので速やかな退散など必要無いと思われた。
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