第三話:「当然の事ながら、それはそれ」
襟元から遠慮無く雨水が浸入してくる。
既に服も下着も滴るほどに濡れている。
ジャングルブーツなど、雨水が入った長靴のように不快な感触を足裏からダイレクトに伝える。
熱いシャワーが恋しくないのか?
温かいシチューを欲しないのか?
柔らかいベッドは不要なのか?
それともそれらの欲求は受け付けない禁欲主義者なのか?
歩く。
歩く。
歩く。
ひたすら、歩く。
無言で、黙々と、独り言もなく。
目深に覆い被さるフードの向こうにある双眸は『帰還』という最後のチャプターに向けて雑念もなく輝く。
開始から終了。
この二つの間を繋ぐのは単純で、意味の所在がはっきりしない作戦内容。
『無事に帰還することが、与えられた任務』
これを栄光と捉えるか徒労と受け取るか?
仮に今、後悔しているとしても戻れるわけがない。
仮に今、愉悦を期待しているのなら進むしかない。
歩け歩けと、背中が物語っているのは紛れもない事実。
泥濘を踏みしめる両足は疲労に纏わり付かれているはずだが、立ち止まることはない。ペースを落とし歩きながら休息を取る。
長距離行軍では平地において時速4.5kmで50分の行軍の後、必ず10分の小休止を取るように心掛けなければならない。
疲労がもたらす悪影響は予想以上に体力を奪い、下半身に負担をかけているからだ。靴擦れや潰れたマメも放置しておけば雑菌による感染症で酷く化膿する場合が多い。状況が許す限りフットパウダーや消毒薬で処置をして清潔な靴下と交換しなければ皮膚病の発端にもなりかねない。
だが。
この人物はひたすら、歩く。
さも、ゴールは手の届く目前に見えていると言わんばかりに。
※ ※ ※
真樹はいつものように昼休みの寸暇に図書室を訪れていた。
夢を見る、という記述が載せられた書籍でも見つけて目星を付けておこうと考えていたのだが、そのようなコアな書籍はここの書架には無い。
司書係にパソコンで書庫を検索して貰えばそれに該当する書籍が簡単に見つかるのだろうが、自分の目で見て探すのも図書巡りの楽しみの一つだと信じているので頻繁に検索依頼を出さない。
――――あれ?
膝が崩れた。
しかし、すぐにリカバリー。
体勢を立て直し、足元を見るが何かを踏んづけてバランスを崩したわけではなさそうだ。
「ああっ! 惜しい!」
背後で祐輔が書架に凭れながら指をパチンと鳴らす。
「何が惜しいのよ」
「円城女史が麗しくスッ転ぶところをこの俺が颯爽と駆け寄り、この厚い胸板で抱きしめる、ってなシチュエーションになる予定だったんだけどね」
馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ! この万年発情期!」と、悪態を吐いてやろうと祐輔に向き直って大きく息を吸い込んだとき、胃袋から鳩尾から咽頭まで酷い圧迫を感じ、視界に映っているはずの祐輔の姿が、急激に熱くなる目頭に揺らぐ。
頭が「回る」。
意識がゆったりとフェイドアウトに向かっている。
今度こそ両足が崩れる。
────!
────解った……『思い出した!』
全ての不可解な現象が繋がった。
自身に起きている異常の根源を理解した。
────そうだよ……コレだわ!
「おい…… 円城!」
祐輔はその場に糸が断線していく人形を見ているように崩れる真樹を見て顔色を失った。
真樹が床に倒れる直前、祐輔は無様に真樹の体の下に滑り込んで、辛うじて真樹の頭が硬い床に衝突するのを阻止した。左手で頭部をもたげ、右手だけで脱力した真樹の胴体を支える。
※ ※ ※
帰投するなり、オリーブドラブのポンチョを脱ぎ捨て、アリスパックを肩から放り出すように下ろし、一目散に、用意されていたバスルームに向かった。
そしてその人物……円城真樹は暖かいバスタブに身を沈めて、ようやく一言呟いた。
「はー。冷たかった」
丸一日掛かった行軍――体と技術が鈍らないための定期的な自主訓練――はこうして終了した。
自宅のバスルームで冷え切った体を心ゆくまで温める。
浴室の防水デジタル時計は午前0時丁度を指していた。
※ ※ ※
次に重い目蓋を開けたときには、美野里が心配そうに真樹の顔を覗き込んでいた。
「……」
美野里のうろたえる可愛らしい顔をみても何も感じない。
正確には、何も感じないくらいに体が怠かった。体温も高い。軽い寒気と吐き気がする。
「荒木田君からメールがあって……真樹ちゃんが倒れたって……」
今にも泣き出しそうな美野里。
「……ゴメンね」
その後に続けて「心配掛けてゴメン」と続けたかったがカーテンの向こうから祐輔の声がした。どうやらここは保健室らしい。
「あーあー。全くだ。風邪なら風邪で、家でゆっくり寝てろいっ! それにしても面倒臭ぇ風邪だなぁ、おい?」
「……荒木田が運んでくれたの?」
「俺と司書の職員さん。治ったら挨拶しとけよ。帰るわ。移されたらかなわんからな」
そう言う声と共に保健室から去る祐輔。
「荒木田君、物凄く心配してたよ……本当に風邪なら休めばよかったじゃない」
美野里の言うこ事は尤もだが、真樹にも言い分はあった。
「私……風邪引きって……極限型なの」
「?」
「朝方に突拍子も無い夢を見ると殆どの確率で風邪を引いてるんだけど……38度くらいの熱が出て立っていられなくなるまで、割りと平気で動けるのよね……それまでに色んな情緒不安定とか……精神面での違和感に悩まされるタイプで……アレが始まって何日目とかに似てるから結構、見落とすことが多いの……なかなか、学習しなくてね」
「……でも!」
美野里が口を挟むが、真樹はうなされるようように話を続ける。
「この間……発売された……国土地理院の新しい地図……と、カールツァイスのエスティムⅡの……精度が……どうしても知りたくて……DMRがないと……やっぱり無理……雨の中じゃコンパスのワイヤーは見難い……この地図じゃ駄目……グリッドなんて当て嵌められない……座標の偏差が……」
「え? 真樹……ちゃん?」
真樹の独り言に似た台詞はやがて消え、真樹自身もゆっくり目を閉じて寝息を立て始めた。
「寝ちゃった……」
半ばぽかんとしていた美野里だったが、しばらく、腕を組み天井を仰いで考えていた。
カーテンの外を覗うと保健室には誰も居ない。
真樹を迎えに来るという親の姿は未だ確認できない。
隣のベッドにも誰も居ない。
「んー……」
真樹の顔を覗き込んでいた美野里は唐突に真樹の頬に唇を寄せるが、あと1cmで接触するところで急停止し、真樹の頬から遠ざかる。
「はは。やっぱり、臆病だなぁ……できないや」
「……早く良くなってね」
美野里は自分の人差し指に自分の唇を当てると、それを真樹の頬に優しく押し付けた。
こうして、真樹の体調不良から来る、一方通行な勘違い的色恋沙汰は違う形で終結した。
後日談其の一。
「日曜日……えー! あの土砂降りの中、山道を歩いていたの? 大雨警報が出てたんだよ!」
美野里は大層驚いていた。
後日談其の二。
結局、真樹は風邪で3日間寝込んだ。
後日談其の三。
「風邪引きの円城もなかなか……」
荒木田祐輔の善からぬ企みに加速がついた。
《第3話・終》
既に服も下着も滴るほどに濡れている。
ジャングルブーツなど、雨水が入った長靴のように不快な感触を足裏からダイレクトに伝える。
熱いシャワーが恋しくないのか?
温かいシチューを欲しないのか?
柔らかいベッドは不要なのか?
それともそれらの欲求は受け付けない禁欲主義者なのか?
歩く。
歩く。
歩く。
ひたすら、歩く。
無言で、黙々と、独り言もなく。
目深に覆い被さるフードの向こうにある双眸は『帰還』という最後のチャプターに向けて雑念もなく輝く。
開始から終了。
この二つの間を繋ぐのは単純で、意味の所在がはっきりしない作戦内容。
『無事に帰還することが、与えられた任務』
これを栄光と捉えるか徒労と受け取るか?
仮に今、後悔しているとしても戻れるわけがない。
仮に今、愉悦を期待しているのなら進むしかない。
歩け歩けと、背中が物語っているのは紛れもない事実。
泥濘を踏みしめる両足は疲労に纏わり付かれているはずだが、立ち止まることはない。ペースを落とし歩きながら休息を取る。
長距離行軍では平地において時速4.5kmで50分の行軍の後、必ず10分の小休止を取るように心掛けなければならない。
疲労がもたらす悪影響は予想以上に体力を奪い、下半身に負担をかけているからだ。靴擦れや潰れたマメも放置しておけば雑菌による感染症で酷く化膿する場合が多い。状況が許す限りフットパウダーや消毒薬で処置をして清潔な靴下と交換しなければ皮膚病の発端にもなりかねない。
だが。
この人物はひたすら、歩く。
さも、ゴールは手の届く目前に見えていると言わんばかりに。
※ ※ ※
真樹はいつものように昼休みの寸暇に図書室を訪れていた。
夢を見る、という記述が載せられた書籍でも見つけて目星を付けておこうと考えていたのだが、そのようなコアな書籍はここの書架には無い。
司書係にパソコンで書庫を検索して貰えばそれに該当する書籍が簡単に見つかるのだろうが、自分の目で見て探すのも図書巡りの楽しみの一つだと信じているので頻繁に検索依頼を出さない。
――――あれ?
膝が崩れた。
しかし、すぐにリカバリー。
体勢を立て直し、足元を見るが何かを踏んづけてバランスを崩したわけではなさそうだ。
「ああっ! 惜しい!」
背後で祐輔が書架に凭れながら指をパチンと鳴らす。
「何が惜しいのよ」
「円城女史が麗しくスッ転ぶところをこの俺が颯爽と駆け寄り、この厚い胸板で抱きしめる、ってなシチュエーションになる予定だったんだけどね」
馬鹿なこと言ってるんじゃないわよ! この万年発情期!」と、悪態を吐いてやろうと祐輔に向き直って大きく息を吸い込んだとき、胃袋から鳩尾から咽頭まで酷い圧迫を感じ、視界に映っているはずの祐輔の姿が、急激に熱くなる目頭に揺らぐ。
頭が「回る」。
意識がゆったりとフェイドアウトに向かっている。
今度こそ両足が崩れる。
────!
────解った……『思い出した!』
全ての不可解な現象が繋がった。
自身に起きている異常の根源を理解した。
────そうだよ……コレだわ!
「おい…… 円城!」
祐輔はその場に糸が断線していく人形を見ているように崩れる真樹を見て顔色を失った。
真樹が床に倒れる直前、祐輔は無様に真樹の体の下に滑り込んで、辛うじて真樹の頭が硬い床に衝突するのを阻止した。左手で頭部をもたげ、右手だけで脱力した真樹の胴体を支える。
※ ※ ※
帰投するなり、オリーブドラブのポンチョを脱ぎ捨て、アリスパックを肩から放り出すように下ろし、一目散に、用意されていたバスルームに向かった。
そしてその人物……円城真樹は暖かいバスタブに身を沈めて、ようやく一言呟いた。
「はー。冷たかった」
丸一日掛かった行軍――体と技術が鈍らないための定期的な自主訓練――はこうして終了した。
自宅のバスルームで冷え切った体を心ゆくまで温める。
浴室の防水デジタル時計は午前0時丁度を指していた。
※ ※ ※
次に重い目蓋を開けたときには、美野里が心配そうに真樹の顔を覗き込んでいた。
「……」
美野里のうろたえる可愛らしい顔をみても何も感じない。
正確には、何も感じないくらいに体が怠かった。体温も高い。軽い寒気と吐き気がする。
「荒木田君からメールがあって……真樹ちゃんが倒れたって……」
今にも泣き出しそうな美野里。
「……ゴメンね」
その後に続けて「心配掛けてゴメン」と続けたかったがカーテンの向こうから祐輔の声がした。どうやらここは保健室らしい。
「あーあー。全くだ。風邪なら風邪で、家でゆっくり寝てろいっ! それにしても面倒臭ぇ風邪だなぁ、おい?」
「……荒木田が運んでくれたの?」
「俺と司書の職員さん。治ったら挨拶しとけよ。帰るわ。移されたらかなわんからな」
そう言う声と共に保健室から去る祐輔。
「荒木田君、物凄く心配してたよ……本当に風邪なら休めばよかったじゃない」
美野里の言うこ事は尤もだが、真樹にも言い分はあった。
「私……風邪引きって……極限型なの」
「?」
「朝方に突拍子も無い夢を見ると殆どの確率で風邪を引いてるんだけど……38度くらいの熱が出て立っていられなくなるまで、割りと平気で動けるのよね……それまでに色んな情緒不安定とか……精神面での違和感に悩まされるタイプで……アレが始まって何日目とかに似てるから結構、見落とすことが多いの……なかなか、学習しなくてね」
「……でも!」
美野里が口を挟むが、真樹はうなされるようように話を続ける。
「この間……発売された……国土地理院の新しい地図……と、カールツァイスのエスティムⅡの……精度が……どうしても知りたくて……DMRがないと……やっぱり無理……雨の中じゃコンパスのワイヤーは見難い……この地図じゃ駄目……グリッドなんて当て嵌められない……座標の偏差が……」
「え? 真樹……ちゃん?」
真樹の独り言に似た台詞はやがて消え、真樹自身もゆっくり目を閉じて寝息を立て始めた。
「寝ちゃった……」
半ばぽかんとしていた美野里だったが、しばらく、腕を組み天井を仰いで考えていた。
カーテンの外を覗うと保健室には誰も居ない。
真樹を迎えに来るという親の姿は未だ確認できない。
隣のベッドにも誰も居ない。
「んー……」
真樹の顔を覗き込んでいた美野里は唐突に真樹の頬に唇を寄せるが、あと1cmで接触するところで急停止し、真樹の頬から遠ざかる。
「はは。やっぱり、臆病だなぁ……できないや」
「……早く良くなってね」
美野里は自分の人差し指に自分の唇を当てると、それを真樹の頬に優しく押し付けた。
こうして、真樹の体調不良から来る、一方通行な勘違い的色恋沙汰は違う形で終結した。
後日談其の一。
「日曜日……えー! あの土砂降りの中、山道を歩いていたの? 大雨警報が出てたんだよ!」
美野里は大層驚いていた。
後日談其の二。
結局、真樹は風邪で3日間寝込んだ。
後日談其の三。
「風邪引きの円城もなかなか……」
荒木田祐輔の善からぬ企みに加速がついた。
《第3話・終》
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