第三話:「当然の事ながら、それはそれ」
「夢」だ。
多分『夢』だ。
時折、脳裏をチラチラと走る 「何か」は「夢」の一部だ。
――――えーと!
――――落ち着け!
――――願望だと決まったわけじゃない!
――――それに何だ……夢は今の医学では未知の領域で、見る夢の内容のメカニズムははっきりと解明されていないはず。医学的には土着信仰にありがちなシャーマニズムの分類から脱しきれていない現象で願望や占術とは全く関係ないもので!
――――兎に角、落ち着け!
混乱と焦燥が入り混じる複雑な表情で、冷静になることを優先した。
確かに、夢は見る者の願望に機縁する現象だと巷説に言われている。
見たことも来たこともない場所の夢だとしても、覚醒時に視覚による情報伝達が脳内で何らかの処理が施されて従来の記憶――実体験や見た画像など――と混じり、脳内で整理される……そのために経験にない夢を見るとされている。諸説はあるが、どれにしても決定打に欠ける論説ばかりで、確実に真樹の心中を鎮める効果のある資料は引き出せなかった。
――――この感じ……。
――――何度も経験している……はず。
――――どこで? どんな状況で?
その後も下らないミスを連発した。
階段を踏み外す。廊下で他の生徒と肩がぶつかり合う。購買の自動販売機で間違えた商品を買う……おおよそ、普段では有り得ないミスを繰り返す。
勿論。
美野里と顔を合わせるとその度に夢の内容が思い起こされて挙動不審に陥る。
心のどこかで美野里を恋愛の対象若しくは性的対象として認識している自分が居て、「心を解放したがっている欲求」なのでは? と勘繰る。
美野里と顔を合わせるたびに自分の頬をぺちぺちと叩くものだから、美野里の方は何が何だか解らない。
例え、親友といえどもこればかりは憚られる。
気楽に、「ねえ、美野里が好きなんだけどこれは『好き』だと思う? 『恋』だと思う?」などと聞けるわけがない。
生憎、灰色の脳味噌に詰め込んだ知識と技術と雑学ではこの問題は解決できない。
原点に帰って考えれば、この感情自体が色恋沙汰に類する感情なのかも不明なのだ。
敢えて言えば、心の不具合……としか表現できない。
どんなに冷静を保とうと苦労しても簡単に揺さぶられる。
試しに自分の性の対象というものを洗いざらい考えるサンプルとして教室内の女子を一望するが、レティクルが捉えるのは残念ながら男子生徒の方が多かった。
祐輔の持論を引用するようで癪に障るが、恋愛にうつつを抜かす学生生活も潤いがあって良いかも知れない。
……皮肉なことに、それを簡単に行動に移せないのは、悲運にも荒木田祐輔なる男子生徒と出会ってしまったからに他ならないわけだが。
真樹は出来るだけ多角的に一連の不調を一顧だにした。
急に美野里を意識したのは「悪い夢」のため。
急に小癪なミスを連発するようになったのは美野里に意識を取られ過ぎたため。
どんなに考察を繰り返しても、今朝方見たであろう「悪い夢」に起因しているのは確かだ。
ならば、「悪い夢」の記憶が薄れゆくのを待つしかないわけだ。
――――美味しくない。
昼休みに教室で弁当を突きながら、心で溜息を吐く。
――――試しに荒木田を殴ってみようか?
弁当の味と祐輔に暴力を振るうことにどういう関係性があるのかは不明だが、このいかんともしがたい不調が晴れるのなら何でも試してみたい。……その理論で美野里の頭を撫でるとか抱きしめるとかした末に、心が晴れて体が軽くなったのなら、今後の付き合い方を慎重に考える必要性が生じる。
――――おかしいのよねぇ。
――――手を握っただけでこんなにブレるものかしら?
――――「普通」に手を握っただけなら今までに何回もあるのに……。
――――こんなに美野里の手が心地良かったなんて初めて。
「うわー……真樹ちゃんてそんな顔も似合うんだねぇ」
不意に、隣で座って小さな弁当箱にフォークを突き立てていた美野里が溜息交じりな声を出す。
「どしたの? 物憂げな表情が綺麗だよ……必要以上に」
「え? え?」
――――そんな顔してた?
――――って、どんな顔?
「あ、いや、その……」
「?」
美野里は怪訝に小首を傾げる。
「顔が赤いよ。熱があるんじゃない?」
再び、美野里は真樹の額に掌を翳した。
又しても、息を呑むことしかできない真樹。
ぴたっと美野里の冷たい手が触れる。
「?」
「あー。私、冷え性だから良く解んないや」
照れ笑いする美野里。
「んー、でも、良いもの見ちゃった」
「何?」
「真樹ちゃんて本当は凄い美少女で……誰からも褒められるような美人で、その正体をいつも隠しているんじゃないのかな?」
「あはは。まさか。そんなことが本当なら凄く面倒臭いことよ?」
真樹は解っている。
否、一つだけ理解できているかも知れない事象がある。
それは、このツインテールの似合う可愛い女の子は掛け替えのない存在で、必ず自分を助けてくれる尊い人物であると。
どんな苦境に立たされてもこの子だけは離してはならない。又、どんな苦境でもこの子が私を捨てる選択を取らせてはいけない、と。
明らかに友情だ。
他人が興味本位で覗ける下世話な同性愛的感情ではない。
確信。
否、再確認。
途端に、心の群雲に一筋の光が差し込む。
またも土砂降りが近いという予報が出ている曇り空の下、真樹は長年の難病が完治した気分になった。
※ ※ ※
土砂降りの中、進軍は続く。
体を万遍なく叩く雨は容赦なく体温を奪う。
今し方も出来るだけ体熱を作るためにチョコレートバーを一口齧った。
微量のアルコール飲料でもあればカロリーも効率良く吸収できるのだが、この人物の背負うアリスパックには装備としてアルコールが含まれていない。応急処置用のオキシドールが300mlほどあるが、勿論飲用には適さない。
太陽が傾き始める時間だが、この分厚い雲では太陽の位置を掴むことは不可能だった。
孤独。
進軍。
空腹。
たった一人で……一人で望んだこのオペレーションにネガティブな結果は全て敗北を意味する。
100%の結果等、当然の事で、120%達成して初めて評価される。
全てが厳しい。
最初から支援と補給が皆無の状態で、最低最小の装備だけで達成することに意味がある作戦。
誰もが首を横に振るであろう作戦概要を、この人物は待ち望んでいたように歓喜した。
この衝動は何か?
己の限界を知る格好の実験場なのか?
本来の任務を達成することにだけ飢えているのか?
あるいは……もっとシンプルに……全てを終えた後の休息を心身の奥から満喫するためにこのような過酷な試練を受け入れているのか?
「……」
口元を拭う。
この地域の雨の成分は身体にいい影響を与えない。
大気汚染が進むこの国では迂闊に口を開けて雨水の恩恵に与るのは愚かな行為の一つだった。
大気中のバクテリアでさえ突然変異を起こす化学物質で汚染されているのだ。
広葉樹の葉に溜まった水滴は得体の知れない病原菌で一杯だ。
このような水質で汚染された一帯の植物もまた、少なからず冒されている。木の実やその切断面から滴る水分すら気安く口には出来ない。
「……」
多分『夢』だ。
時折、脳裏をチラチラと走る 「何か」は「夢」の一部だ。
――――えーと!
――――落ち着け!
――――願望だと決まったわけじゃない!
――――それに何だ……夢は今の医学では未知の領域で、見る夢の内容のメカニズムははっきりと解明されていないはず。医学的には土着信仰にありがちなシャーマニズムの分類から脱しきれていない現象で願望や占術とは全く関係ないもので!
――――兎に角、落ち着け!
混乱と焦燥が入り混じる複雑な表情で、冷静になることを優先した。
確かに、夢は見る者の願望に機縁する現象だと巷説に言われている。
見たことも来たこともない場所の夢だとしても、覚醒時に視覚による情報伝達が脳内で何らかの処理が施されて従来の記憶――実体験や見た画像など――と混じり、脳内で整理される……そのために経験にない夢を見るとされている。諸説はあるが、どれにしても決定打に欠ける論説ばかりで、確実に真樹の心中を鎮める効果のある資料は引き出せなかった。
――――この感じ……。
――――何度も経験している……はず。
――――どこで? どんな状況で?
その後も下らないミスを連発した。
階段を踏み外す。廊下で他の生徒と肩がぶつかり合う。購買の自動販売機で間違えた商品を買う……おおよそ、普段では有り得ないミスを繰り返す。
勿論。
美野里と顔を合わせるとその度に夢の内容が思い起こされて挙動不審に陥る。
心のどこかで美野里を恋愛の対象若しくは性的対象として認識している自分が居て、「心を解放したがっている欲求」なのでは? と勘繰る。
美野里と顔を合わせるたびに自分の頬をぺちぺちと叩くものだから、美野里の方は何が何だか解らない。
例え、親友といえどもこればかりは憚られる。
気楽に、「ねえ、美野里が好きなんだけどこれは『好き』だと思う? 『恋』だと思う?」などと聞けるわけがない。
生憎、灰色の脳味噌に詰め込んだ知識と技術と雑学ではこの問題は解決できない。
原点に帰って考えれば、この感情自体が色恋沙汰に類する感情なのかも不明なのだ。
敢えて言えば、心の不具合……としか表現できない。
どんなに冷静を保とうと苦労しても簡単に揺さぶられる。
試しに自分の性の対象というものを洗いざらい考えるサンプルとして教室内の女子を一望するが、レティクルが捉えるのは残念ながら男子生徒の方が多かった。
祐輔の持論を引用するようで癪に障るが、恋愛にうつつを抜かす学生生活も潤いがあって良いかも知れない。
……皮肉なことに、それを簡単に行動に移せないのは、悲運にも荒木田祐輔なる男子生徒と出会ってしまったからに他ならないわけだが。
真樹は出来るだけ多角的に一連の不調を一顧だにした。
急に美野里を意識したのは「悪い夢」のため。
急に小癪なミスを連発するようになったのは美野里に意識を取られ過ぎたため。
どんなに考察を繰り返しても、今朝方見たであろう「悪い夢」に起因しているのは確かだ。
ならば、「悪い夢」の記憶が薄れゆくのを待つしかないわけだ。
――――美味しくない。
昼休みに教室で弁当を突きながら、心で溜息を吐く。
――――試しに荒木田を殴ってみようか?
弁当の味と祐輔に暴力を振るうことにどういう関係性があるのかは不明だが、このいかんともしがたい不調が晴れるのなら何でも試してみたい。……その理論で美野里の頭を撫でるとか抱きしめるとかした末に、心が晴れて体が軽くなったのなら、今後の付き合い方を慎重に考える必要性が生じる。
――――おかしいのよねぇ。
――――手を握っただけでこんなにブレるものかしら?
――――「普通」に手を握っただけなら今までに何回もあるのに……。
――――こんなに美野里の手が心地良かったなんて初めて。
「うわー……真樹ちゃんてそんな顔も似合うんだねぇ」
不意に、隣で座って小さな弁当箱にフォークを突き立てていた美野里が溜息交じりな声を出す。
「どしたの? 物憂げな表情が綺麗だよ……必要以上に」
「え? え?」
――――そんな顔してた?
――――って、どんな顔?
「あ、いや、その……」
「?」
美野里は怪訝に小首を傾げる。
「顔が赤いよ。熱があるんじゃない?」
再び、美野里は真樹の額に掌を翳した。
又しても、息を呑むことしかできない真樹。
ぴたっと美野里の冷たい手が触れる。
「?」
「あー。私、冷え性だから良く解んないや」
照れ笑いする美野里。
「んー、でも、良いもの見ちゃった」
「何?」
「真樹ちゃんて本当は凄い美少女で……誰からも褒められるような美人で、その正体をいつも隠しているんじゃないのかな?」
「あはは。まさか。そんなことが本当なら凄く面倒臭いことよ?」
真樹は解っている。
否、一つだけ理解できているかも知れない事象がある。
それは、このツインテールの似合う可愛い女の子は掛け替えのない存在で、必ず自分を助けてくれる尊い人物であると。
どんな苦境に立たされてもこの子だけは離してはならない。又、どんな苦境でもこの子が私を捨てる選択を取らせてはいけない、と。
明らかに友情だ。
他人が興味本位で覗ける下世話な同性愛的感情ではない。
確信。
否、再確認。
途端に、心の群雲に一筋の光が差し込む。
またも土砂降りが近いという予報が出ている曇り空の下、真樹は長年の難病が完治した気分になった。
※ ※ ※
土砂降りの中、進軍は続く。
体を万遍なく叩く雨は容赦なく体温を奪う。
今し方も出来るだけ体熱を作るためにチョコレートバーを一口齧った。
微量のアルコール飲料でもあればカロリーも効率良く吸収できるのだが、この人物の背負うアリスパックには装備としてアルコールが含まれていない。応急処置用のオキシドールが300mlほどあるが、勿論飲用には適さない。
太陽が傾き始める時間だが、この分厚い雲では太陽の位置を掴むことは不可能だった。
孤独。
進軍。
空腹。
たった一人で……一人で望んだこのオペレーションにネガティブな結果は全て敗北を意味する。
100%の結果等、当然の事で、120%達成して初めて評価される。
全てが厳しい。
最初から支援と補給が皆無の状態で、最低最小の装備だけで達成することに意味がある作戦。
誰もが首を横に振るであろう作戦概要を、この人物は待ち望んでいたように歓喜した。
この衝動は何か?
己の限界を知る格好の実験場なのか?
本来の任務を達成することにだけ飢えているのか?
あるいは……もっとシンプルに……全てを終えた後の休息を心身の奥から満喫するためにこのような過酷な試練を受け入れているのか?
「……」
口元を拭う。
この地域の雨の成分は身体にいい影響を与えない。
大気汚染が進むこの国では迂闊に口を開けて雨水の恩恵に与るのは愚かな行為の一つだった。
大気中のバクテリアでさえ突然変異を起こす化学物質で汚染されているのだ。
広葉樹の葉に溜まった水滴は得体の知れない病原菌で一杯だ。
このような水質で汚染された一帯の植物もまた、少なからず冒されている。木の実やその切断面から滴る水分すら気安く口には出来ない。
「……」