第三話:「当然の事ながら、それはそれ」
いつの何がどうなのか全く解らない空白。
空白……文字で書けばそれしか形容出来ない。
コンマ何秒だけ何かを思い出したがそれ以上の早さで思い出した何かを忘れてしまった。
「ううん。何でもない」
────何だろう?
────この感じ。
────何だか怠い。
揺れ幅が大きな情緒不安定に似た違和感を覚える。
「何でもないことないよー。顔色悪いよ。風邪?」
美野里が不意に右掌を伸ばして真樹の額に触れる。
「……あ」
声には出ていないが真樹の唇は確かにそう、動いた。
「っと……普段からこんなコトしてないから解んないや」
申しわけなさそうな照れ隠しで美野里は直ぐに手を引っ込めて笑う。
「でも、怠いんなら保健室に行く? んー。早退しちゃえ!」
屈託のない美野里の笑顔が急に眩しく感じる。
具体的な表現に困る戸惑い。小さく心臓が跳ねて、苦しく感じる。
高校近辺のバス停に停車したバスから吐き出される生徒の数に比例して教室に入る生徒の数も増える。
「美野里ー。椅子、返してー」
隣の席の椅子を占拠していた美野里はそこの本来の主に声を掛けられて立ち上がる。
「真樹ちゃーん……ホント、体調が悪いんなら早目に保健室に行った方がいいよ?」
「あ、うん。その時はそうする。けど、今は違う気がする……」
「らしくないねぇ。それじゃ」
美野里は右掌をヒラヒラと振ってきびすを返すと自分の席に戻った。
「うん。じゃあね」
真樹も苦笑いと困惑が混じった複雑な表情――それでも笑顔の成分の方が多い――で美野里の後ろ姿を見送った。
美野里が席に座って付近の級友と他愛もない話に夢中になっていても……真樹は美野里を見ていた。
何だかおかしいのは重々承知。
いつもより集中力がない。
今し方もシャープペンシルで書き写すべき黒板の一文を赤いボールペンで記入している。
舌打ち。
消しゴムを机から落とすたびに舌打ち。
布製の筆箱を落としても舌打ち。
仕舞いにはノートの未使用ページの縁で指先を浅く切って舌打ち。
薄っすらと血の浮く指先を咥えて、唾液で以って原始的で簡易的な止血をする。
────?
────何だろう?
自分の視線が不審かも知れないと感付く。
隙があれば美野里の方ばかりに視線を走らせている。
真樹の席からでは美野里の左斜め後姿しか確認出来ない。
なのに、「そこに当たり前のように美野里が席に座っている事実」を確認すると何だか、落ち着く。
「この主文が指している事例が解らん奴は手を挙げろ」
と男性の現国教師が意地悪な質問をぶつけた時も、不覚にも殆どの連中が右に倣え的に挙手する中、美野里に気を取られていた真樹は挙手し損ない、不運にも教師に回答を求められた。
勿論、まともに答えられるわけもなく、「円城にしては切れの悪い冗談だな」と吊るし上げに似た皮肉を言われる。尤も、この程度の問題であれば普段の真樹であれば問題なく回答を返すことが出来る。教師も皆も「円城なら答えられる」と期待していたのに拍子抜けした。
「よく話を聞いていませんでした」
真樹は精一杯、悪びれた様子のない表情と態度で切り返したが、真樹自身も自分のペースを掴み損ねている不調具合に少し苛ついていた。
やがて、1時限目終了。休み時間。
出来の悪い子にホトホト困った、という顔で真樹の席の前で美野里が腕を組んで仁王立ちしていた。こんな時でさえ美野里の仕草の一つ一つが可愛らしいので意外なくらいに男子からは人気が有る。
「真樹ちゃん! 保健室に行っておいで! 絶対おかしいって!」
「いや、本当に大丈夫だから。心配しないで」
その二人の会話を背中で聞く不埒者がいる。
荒木田祐輔だ。
真樹の席の付近で級友と下ネタなだけの話題で盛り上がっている素振りを見せてはいるが、円城真樹ウオッチャーを自称する彼がこの機微に感付かないわけがない。
真樹のいつになく元気のない声は聞き取り難かったが、美野里の良く通る声から察するに真樹に何らかの異変があったらしい。
裏を返せば、純粋に真樹を欲している祐輔としてはこれを放置出来ても完全に見過ごすわけには行かない。つまり、興味が著しく湧いてきたので「いつものように接して探りを入れる」作戦に出た。
「よう。真樹ちゃん。どした? 生理か?」
────ああああっ!
────ややこしいのが来た!
背後からの聞き慣れた忌々しい軽口。
途端に心臓に100トンの重さで出来た錠前を嵌め込まれた気分になった。
真樹は頭を抱えるジェスチャーの代わりに、膝の上で大人しくしていた両手を滑らかに動かす。明らかにツァスタバ・トカレフの民生向け後期型のグリップを握ってスライドを引く「エアアクション」だ。丁寧にハンマーを起こす動作まで再現されている。
余談だが、ツァスタバ造兵廠で生産されたトカレフコピーの民生向け最終モデルは、スライドを引いて薬室に初弾を装填してもハンマーが起きた状態で待機しない。初弾を撃発する時は必ずハンマーを起こしてやらねばトリガーを引いても空撃ちするだけだ。初弾以降はガスオペレーションが作動するために一般的な自動拳銃と同じく、ハンマーが起きた状態で待機する。初期のトカレフに似た構造だが、これをハンマーデコッキング内蔵のマニュアルセフティと合わせて、より安全に携行出来るように改良したモデルだ。ソ連製トカレフの理解に苦しむ機構を逆手に取って、安全装置として利用した結果だ。
閑話休題。
「で、どーよ? 元気ないねぇ。何日目?」
「荒木田君て底無しの品性下劣人間だね」
美野里に手厳しく吐き捨てられても祐輔は「そりゃ、どうも」とへらへらした笑顔で返しただけで何のダメージにもなっていない。
「私の気分いかん問わずに消えてくれたらもっと晴れやかな学生生活が送れる気がするのは多分、間違いじゃないわ」
真樹は、少なくともステンレス工具鋼で拵えた刃物より剣呑な切れ味を含んだ視線で荒木田を射抜くが、その程度で怖気る相手ではないのは解っている。
この男のデリカシーの欠如ぶりを指摘するには劣化ウランで拵えた35mm対戦車徹甲弾は必要だ。それも毎分800発の速度で最低5秒間は掃射しなければ効果がないだろう。或いはラインメタルの57mmクラス速射砲でインテリジェンス弾頭の砲弾でもガツンと叩き込むか、だ。
「美野里、行こう」
真樹は席を立って美野里の手を引いた。
思わず、美野里の手を引いてしまった。
美野里は嬉しそうに「うん!」と応えて真樹の手に引かれるまま、教室を出る。
瞬く間に蚊帳の外に追いやられる荒木田祐輔。
「?」
祐輔自身も強い違和感を覚える。
――――何だ? これ?
この一連の風景が「型に嵌っていない」。
何か違う。
それは真樹も同じだったが、こちらの方は簡単に違和感に気が付いた。
美野里の手を引いてしまった。
咄嗟のこととはいえ、「普段なら行わない行動を取った」。
咄嗟が生み出した「異次元」。
どんなに仲の良い真樹と美野里といえど、嫌なヤツを振り切るのに親友の手を取ってまで、逃げ出したりしない。
空白……文字で書けばそれしか形容出来ない。
コンマ何秒だけ何かを思い出したがそれ以上の早さで思い出した何かを忘れてしまった。
「ううん。何でもない」
────何だろう?
────この感じ。
────何だか怠い。
揺れ幅が大きな情緒不安定に似た違和感を覚える。
「何でもないことないよー。顔色悪いよ。風邪?」
美野里が不意に右掌を伸ばして真樹の額に触れる。
「……あ」
声には出ていないが真樹の唇は確かにそう、動いた。
「っと……普段からこんなコトしてないから解んないや」
申しわけなさそうな照れ隠しで美野里は直ぐに手を引っ込めて笑う。
「でも、怠いんなら保健室に行く? んー。早退しちゃえ!」
屈託のない美野里の笑顔が急に眩しく感じる。
具体的な表現に困る戸惑い。小さく心臓が跳ねて、苦しく感じる。
高校近辺のバス停に停車したバスから吐き出される生徒の数に比例して教室に入る生徒の数も増える。
「美野里ー。椅子、返してー」
隣の席の椅子を占拠していた美野里はそこの本来の主に声を掛けられて立ち上がる。
「真樹ちゃーん……ホント、体調が悪いんなら早目に保健室に行った方がいいよ?」
「あ、うん。その時はそうする。けど、今は違う気がする……」
「らしくないねぇ。それじゃ」
美野里は右掌をヒラヒラと振ってきびすを返すと自分の席に戻った。
「うん。じゃあね」
真樹も苦笑いと困惑が混じった複雑な表情――それでも笑顔の成分の方が多い――で美野里の後ろ姿を見送った。
美野里が席に座って付近の級友と他愛もない話に夢中になっていても……真樹は美野里を見ていた。
何だかおかしいのは重々承知。
いつもより集中力がない。
今し方もシャープペンシルで書き写すべき黒板の一文を赤いボールペンで記入している。
舌打ち。
消しゴムを机から落とすたびに舌打ち。
布製の筆箱を落としても舌打ち。
仕舞いにはノートの未使用ページの縁で指先を浅く切って舌打ち。
薄っすらと血の浮く指先を咥えて、唾液で以って原始的で簡易的な止血をする。
────?
────何だろう?
自分の視線が不審かも知れないと感付く。
隙があれば美野里の方ばかりに視線を走らせている。
真樹の席からでは美野里の左斜め後姿しか確認出来ない。
なのに、「そこに当たり前のように美野里が席に座っている事実」を確認すると何だか、落ち着く。
「この主文が指している事例が解らん奴は手を挙げろ」
と男性の現国教師が意地悪な質問をぶつけた時も、不覚にも殆どの連中が右に倣え的に挙手する中、美野里に気を取られていた真樹は挙手し損ない、不運にも教師に回答を求められた。
勿論、まともに答えられるわけもなく、「円城にしては切れの悪い冗談だな」と吊るし上げに似た皮肉を言われる。尤も、この程度の問題であれば普段の真樹であれば問題なく回答を返すことが出来る。教師も皆も「円城なら答えられる」と期待していたのに拍子抜けした。
「よく話を聞いていませんでした」
真樹は精一杯、悪びれた様子のない表情と態度で切り返したが、真樹自身も自分のペースを掴み損ねている不調具合に少し苛ついていた。
やがて、1時限目終了。休み時間。
出来の悪い子にホトホト困った、という顔で真樹の席の前で美野里が腕を組んで仁王立ちしていた。こんな時でさえ美野里の仕草の一つ一つが可愛らしいので意外なくらいに男子からは人気が有る。
「真樹ちゃん! 保健室に行っておいで! 絶対おかしいって!」
「いや、本当に大丈夫だから。心配しないで」
その二人の会話を背中で聞く不埒者がいる。
荒木田祐輔だ。
真樹の席の付近で級友と下ネタなだけの話題で盛り上がっている素振りを見せてはいるが、円城真樹ウオッチャーを自称する彼がこの機微に感付かないわけがない。
真樹のいつになく元気のない声は聞き取り難かったが、美野里の良く通る声から察するに真樹に何らかの異変があったらしい。
裏を返せば、純粋に真樹を欲している祐輔としてはこれを放置出来ても完全に見過ごすわけには行かない。つまり、興味が著しく湧いてきたので「いつものように接して探りを入れる」作戦に出た。
「よう。真樹ちゃん。どした? 生理か?」
────ああああっ!
────ややこしいのが来た!
背後からの聞き慣れた忌々しい軽口。
途端に心臓に100トンの重さで出来た錠前を嵌め込まれた気分になった。
真樹は頭を抱えるジェスチャーの代わりに、膝の上で大人しくしていた両手を滑らかに動かす。明らかにツァスタバ・トカレフの民生向け後期型のグリップを握ってスライドを引く「エアアクション」だ。丁寧にハンマーを起こす動作まで再現されている。
余談だが、ツァスタバ造兵廠で生産されたトカレフコピーの民生向け最終モデルは、スライドを引いて薬室に初弾を装填してもハンマーが起きた状態で待機しない。初弾を撃発する時は必ずハンマーを起こしてやらねばトリガーを引いても空撃ちするだけだ。初弾以降はガスオペレーションが作動するために一般的な自動拳銃と同じく、ハンマーが起きた状態で待機する。初期のトカレフに似た構造だが、これをハンマーデコッキング内蔵のマニュアルセフティと合わせて、より安全に携行出来るように改良したモデルだ。ソ連製トカレフの理解に苦しむ機構を逆手に取って、安全装置として利用した結果だ。
閑話休題。
「で、どーよ? 元気ないねぇ。何日目?」
「荒木田君て底無しの品性下劣人間だね」
美野里に手厳しく吐き捨てられても祐輔は「そりゃ、どうも」とへらへらした笑顔で返しただけで何のダメージにもなっていない。
「私の気分いかん問わずに消えてくれたらもっと晴れやかな学生生活が送れる気がするのは多分、間違いじゃないわ」
真樹は、少なくともステンレス工具鋼で拵えた刃物より剣呑な切れ味を含んだ視線で荒木田を射抜くが、その程度で怖気る相手ではないのは解っている。
この男のデリカシーの欠如ぶりを指摘するには劣化ウランで拵えた35mm対戦車徹甲弾は必要だ。それも毎分800発の速度で最低5秒間は掃射しなければ効果がないだろう。或いはラインメタルの57mmクラス速射砲でインテリジェンス弾頭の砲弾でもガツンと叩き込むか、だ。
「美野里、行こう」
真樹は席を立って美野里の手を引いた。
思わず、美野里の手を引いてしまった。
美野里は嬉しそうに「うん!」と応えて真樹の手に引かれるまま、教室を出る。
瞬く間に蚊帳の外に追いやられる荒木田祐輔。
「?」
祐輔自身も強い違和感を覚える。
――――何だ? これ?
この一連の風景が「型に嵌っていない」。
何か違う。
それは真樹も同じだったが、こちらの方は簡単に違和感に気が付いた。
美野里の手を引いてしまった。
咄嗟のこととはいえ、「普段なら行わない行動を取った」。
咄嗟が生み出した「異次元」。
どんなに仲の良い真樹と美野里といえど、嫌なヤツを振り切るのに親友の手を取ってまで、逃げ出したりしない。