第三話:「当然の事ながら、それはそれ」

 雨が降り頻る中、行軍。
 僅かな食料と水。
 オリーブドラブのポンチョの内側は確実に濡れ鼠だ。
 それでも進軍。退いても進んでも距離は同じ。立ち止まるだけ時間の無駄だった。方位の計測ですら大雑把にグリッドを算出して3つの北を弾き出す。

 ランドナビゲーションは方位を測定すること以上に重要なのに、だ。
 
 カールツァイスのレンザティックコンパスが鉛色の空の下、水滴を滑らせる。
 
 レンザティックコンパスには3つの北が存在する。
 まず、磁針が示す磁北。
 次にコンパス本体の側面に取り付けられたスケールにグリッド経線が沿うように地図を回転させれば、地図とコンパスは自然と北に正置されたことになる。これをグリッド北と呼ぶ。
 この2つの北は地域毎の磁力ポイントの変化や球体の地球を平面にしたことによる誤差等で必ずしも同じ北を指していない。
 そこで北極点の真北が加わる。
 ところがどの北を基準に行動してよいか分からなくなるのは当然だ。
 そこで軍隊では地図とコンパスを用いる際にこの磁北、グリッド北の誤差を巧みに利用し、DMRと呼ばれる偏差数値が利用される。多くの場合はこの数値は軍用地図の余白に書き込まれている。この数値で修正した方角が真北に当たる。
 作戦範囲内を記した軍用地図ではあらかじめ真北を基準に磁北とグリッド北の修正数値が書き込まれており、レンザティックコンパスが有れば容易に3つの北を求めることが出来る。
 
 だが、このポンチョの人物が持っている地図は市販の地図だ。精緻に記された軍用地図ではない。
 時には樹皮や獣道から経験を定規にして方位を割り出す。微調整をレンザティックコンパスが請け負うわけだ。
 状況からすれば正確に方位を求めるレンザティックコンパスよりボーイスカウトやオリエンテーリングで用いられるシルバーコンパスの方が有利だ。
 万能のツールなど存在しない。状況に応じて道具を選ぶのがプロだ。
 それを踏まえて言えば、この人物はわざと不利な状況で不向きなツールを用いて悪天候の下を歩き続けているとしか思えない。
 
 深々とフードを被り、一言も発しない。
 口という器官は完全に呼吸をするためだけに存在していた。
 若しかすると、飲食する手段としての機能を失っているかのようでもある。

 厚い土砂降りのカーテンの中、進軍する。

 孤独な戦いを背負い込んだ翳りだけが悪路にジャングルブーツの跡をつける。
   ※ ※ ※
 二つの影が重なり合う。
 制服姿の彼女達には場違いに映る真っ白で柔らかなベッド。二つの自重で深く、体が沈む。

 白く広いだけの部屋。

 そして……。
 真樹は美野里にゆっくりと覆い被さると、これから行うであろう行為に邪魔な眼鏡を外した。
 美野里の吐息が真樹の耳朶を擽るほどに頬を合わせて互いの心臓を押し当てる。
「服も邪魔だね」
 美野里は薄っすらと霞んだ瞳で真樹の首元を緩やかに束縛するリボンタイを緩めた。
「邪魔……服も……肌も」
 美野里は吐息混じりに呟くと……。


「!」
 真樹は目が覚めた。
 それと同時に無性に絶叫したくなった。
 何がどういう状況でどうなったのか全く理解出来ないでいた。
 それが夢だと判別できる頃――実際には10秒も経過していない――にはそれらの悪夢に類する淫らな夢は脳内の記憶を司る部位から雨散霧消していた。
 親友と信じて疑わない彼女が、小さなツインテールがチャーミングな彼女が、まさか自分とそのような「間違えた」関係に発展するとは思えない……実際に有り得ないことが起きるからそれは「夢」であると断言できる材料になるのだが、中途半端に雑学を詰め込んでいる彼女には「夢は願望の現れである」という可能性も捨てきれないでいた。


 早朝のいつもの起床時間に、眠気も覚める夢で叩き起こされてもパジャマを脱ぎ捨てる頃には夢を見ていた事実も忘れていた。
 制服に着替えて登校の時刻には何時も通りの朝を迎えていた。
 その証拠に、登校途中に美野里と合流しても何の動揺もなく普通に肩を並べて楽しいお喋りで過ごすことが出来た。
 
 1時限目の予鈴が鳴るには充分な時間。教室にて。
「あのねぇ……」
 真樹は呆れ顔を隠さずに美野里のキョトンとしている様を見ながら言う。
「毎日がスクリーンのハリウッドスターみたいにアクセル全開な生活だなんて思わないでよ。フランク・キャンパーでも静かに生活しているわよ」
「……フランク・キャンパーって誰?」
 真樹は鞄の中身を取り出して1時限目に必要な教材を確認する。
 その机の傍で、隣の席の椅子を無断で拝借して座っている美野里は更に小首を可愛らしく捻る。
「んん?」
「まぁ、伝説の傭兵はコッチに置いといて……そりゃあ、下らない技術と知識ばっかりの面白みに欠ける女ですけど。ウォーノグラフィの主人公みたいに疲れも痛みも知らないヘーローズじゃないのは確かよ」
 この光景もいつものことだ。
 美野里はおもちゃ箱を与えられた子供のように溢れる興味で真樹に喋り掛けても、真樹は善良な市民的な返答しか返さない。
 実のところ、非凡な凡人を装う真樹の実力を「敵対勢力ではなく」、目前で確認している数少ない人間に美野里がいる。何事もない平穏で平静な生活を心から望んでそれを実践しようと心を砕いている真樹の姿を知っている人間でもあるのだ。
 それでも、彼女の口から溢れる、聞いたこともない単語や文節の数々は美野里の知的好奇心を刺激するのに充分な素材だったのだ。
 そんな美野里の口の前に戸板は立てられない。
 美野里の取るに足りない質問をどうしても無碍に切り捨てられない真樹。
 困ったお口だ、と辟易することはあってもそれが原因で美野里を遠ざけてしまう考えに及ぶことは今までに一度もない。

 つまるところ、「心を完全に許せてしまうかも知れない親友」というものを真樹は両手でしっかりと抱きしめているのかも知れない。

 真樹の交友関係は薄い。
 マークスクール時代も自分の命を預けているのかも知れない訓練生を親友だとか友人だとか感じたことはない。
 戦友だ。
 馴れ合いの学校ではない。
 戦場に出れば同じマークスクールの同期生同士が傭兵として殺しあうかも知れない状況で黙々と技能の修得に勤しんだ。
 父親以外に師匠と呼べる女性教官がいたが、真樹自身がレイプ未遂の被害者にならなければ出会うことが出来なかった。
 マークスクール時代に欲求の捌け口に真樹を求める訓練生が居たがそんな連中でも教官の前では一生徒に過ぎない。
 就寝時のみ真樹だけを隔離してくれるように取り計らってくれたスカーフェイスの女教官が居なければ真樹はとっくにミシシッピーの密林で破瓜を経験していた。

 男性に対する恐怖症より女性の持つ強かさに憧れを持つようになったのが切っ掛けなのか、男性の持つ男性らしさに怯む自分の心を強く嫌った。

 だからと言って性的嗜好が女性に傾くという結果は招いていないつもりだ。

「……」
「? ……どしたの?」
 ふと、教材を確認していた真樹の手が止まる。
 脳裏に記憶が曖昧な何かが過ぎった。
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