第二話:「やがて始まる路地裏オペラ」

 再び踵を返すと、真っ直ぐ美野里に向かって走り出し、無言で美野里の手を取って狭い路地を駆け出した。
 後を追撃しようと連中が走り出すが、八重子は一喝して制止する。
 全ての切っ掛けは自分達の非にある。面子だけでそれを曲げようとしなかった愚かさが加速をかけた。
 自分達の世界でしか通用しないルールが世界基準だという、つまらない妄信に捕われ過ぎた。
「……」
 俯いたままの八重子に声をかける闖入者。
「鬼の目にも涙だねぇ。デジカメでも持ってくりゃ良かった」
「……失せろ」
「嘗ての優等生様はどこの世界でも優等生なんだ」
「……ぶっ殺すぞ」
「そりゃ怖い」
 ピースフィルターを咥えた、白い麻のジャケットを着た少年。
 中柴和晃だ。
「こんなに美味しいソースなのに何故か、書き立てる気がしないねぇ」
 悪びれた様子もなく軽薄な口調で喋る。
「円城真樹か。俺って浮気性じゃないと思ってたんだけど今度はあのコを追っ掛けたくなった」
 大粒の涙を湛えた双眸を殺意に切り替えて中柴を突き刺す。
「じゃ、俺はこれで。命の危険を感じたので帰らせて貰うわ」
 掌をヒラヒラを振りながら辻の角に姿を消す中柴。
「お前らも帰れ!」
 どう振舞っていいか解らない連中を追い返すと、その場で高津八重子は声を殺して泣いた。
 泣く理由は様々なのか一つしかないのか自分でも解らない。
 ただ、泣きたかった。
   ※ ※ ※
 数日後の早朝。
 あるアパートの一室で少女は目が覚めた。
 ベッドから身をもたげると、いつもの癖でマルボロを手に取ったが、暫し考え、クシャクシャに握り潰してゴミ箱に捨てた。
「嫌な朝だ……」
 少女……高津八重子は私立北賀陽高校の女子制服と生徒手帳を乱雑にテーブルに投げ出すと、ポートレートの中でのみ生きている母親に微笑みかけてこう言った。
「ちょっと学校に行って来る。急に卒業したくなっちゃった……」
 私立北賀陽高校普通科3年生・高津八重子。
 実に1年半ぶりの登校である。
 勿論これから、紙面的手続きを行い、復学するためだ。
 1年生で1年留年すると同時に学業から急速にドロップアウトしたが復学の資格を完全に失ったわけではない。
「嫌気がするほどイイ天気だなぁ」

 この後、ショットバー「アイリス」から、暫くポニーテールの札付きの姿は掻き消えるように訪れなくなる。
    ※ ※ ※
「天下泰平事も無し」
 美野里は6月の鬱陶しい梅雨空をさも眩しげに見上げた。
―――あーもー。憎らしいほど可愛いコだなぁ。
 その隣で眉を微妙に歪めて美野里を眺める真樹。
 美野里に数日前の精神的ダメージは殆どない。元から与えられていないのは事実だったらしい。
 あの高津八重子とかいう札付きは美野里が「身振り手振りを使って喧伝するほど」の善人だという裏付けにもなった。或いは、美野里に触れた人間は必ず改心する不思議な何かを持っているというのか?
 今となってはどうでもいいことだ。
 早く梅雨が明けて暑い季節が来ることを祈る。
 次のテストまで力の限り学生を愉しむ。
 帰り道で季節外れな鯛焼きでも買って帰る。
 願うこと、楽しむこと、したいこと。
 今はそれだけ見えていればいいじゃないか。
 美野里が天下泰平だと謳った梅雨空を真樹も見上げる。
「青春は単なる人生の花盛りではなく、来るべき結実の秋への準備の季節である」
「?」
 可愛らしく小首を傾げる美野里。
「竹越与三郎の言葉……だったと思う」
 二人の仲の良い親友同士は正門過ぎで、暫し止めた足を再び進めて普通の生徒と同じく、ごく普通に校舎に吸い込まれるように入っていく。

 と或る梅雨の日。

 名門というほどでもない、普通の中流進学校として目立たない私立北賀陽高校でのワンシーンだ。

《第2話・終》
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