第二話:「やがて始まる路地裏オペラ」

 連中の平衡器官や三半規管が麻痺している今だから成功したようなものだ。
 手にしたビニール紐の端を路地に突き出た邪魔なエアコンの室外機カバーに括り付けて、回復しようとしている顔面ピアスの男に近付く。スカートの腹の辺りに挿した塩ビパイプを抜くと警棒護身術の拉ぎ技でうつ伏せに倒し、拉ぎ上げた手を一本ずつ温存していた1m50cmのビニール紐で無力化する。
 後ろ手に掌が合わさるように密着させて親指、小指、手首の順で縛る。最後に紐の両端を喉仏を経由して気管の直上で縛り、紐の弛んだ部分に塩ビパイプを通して4、5回、回転させる。この括り方だけで弛んだ紐は指や手首、喉仏に食い込み、呼吸困難と激痛に襲われる。下半身は自由だが、この苦しみの前では失禁する以外に何も行動できない。
 捕虜拷問の際に使われる基本的な緊縛方法だ。尚、正規軍がこの方法で捕虜を虐待した場合、即座に然るべき機関で裁かれる。何の国際的庇護も受けない傭兵を訓練するマークスクール出身の真樹だからこそ、躊躇わず「穏便」に使用することが出来るのだ。
 顔面ピアスの男をうつ伏せの状態で寝かせる。彼を拘束する一切の要である塩ビパイプに全体重を乗せて苦痛故の行動不能に陥れる。
「……」
 辺りを警戒しながらアーミーナイフの多機能プライヤーを展開する。
 塩ビパイプから僅かに体重を移動させて、多機能プライヤーを男の顔面に近付ける。
「聞こえるでしょ? 聞きなさい! コレが見える? コレで今から何をするのか予想できる?」
 真樹は体を屈めると、腹の底からのドスの効いた声で顔面ピアス男の目前に多機能プライヤーをちらつかせた。
「!」
 男は即座に顔中のピアスを引っこ抜かれるものだと思い込み震え上がった。
 勿論、真樹はそんな無粋な実力行使に出るつもりは毛頭ない。大事な「相棒」を人間の血で汚したくない。だから、「脅しをかける」というブラフにも大変な葛藤があった。
 美野里を救出するために選択できる効率の良い手段を取捨した結果、彼女の誓いは半分、破る羽目になったわけだ。
 兎に角様々な意味で時間がない。
 今し方、無力化した連中が回復してビニール紐を解くのは時間の問題。
 他に伏兵が潜んでいるかもしれないので、素早く行動を起こさなければならない。
 自分から虎口に飛び込んだ手前、一分一秒も無駄に出来ない。
 何より、美野里の身柄を確保するのが最優先だ。
 この実働作戦に第2陣はない。
 展開、遂行、帰投を全て自分一人で行わなければならない。
 大人の介入が有っては、話が拗れるだけだ。
「先ず質問する前に、私がどれだけアタマに来てるか教えてあげる」
 多機能プライヤーが男の鼻先のピアスに触れようとした時だ。
「ダメ! 待って! 真樹ちゃん!」
 背後に人の気配がしたと同時に聞きなれた、そして求めていた声が……悲痛に叫んだ。
「! 美野里!」
 体は反射的に背後4mの位置で立っている美野里を確認した。右手の指は、ほぼ同時にオープンスタイルの携帯電話を閉じるようなモーションで多機能プライヤーを収納していた。
「ダメだよ……真樹ちゃんがこんなことのためにそんなことしちゃダメだよぅ……」
 大粒の涙をポロポロと零しながら美野里は泣きじゃくった。
「クソやろー……」
「ブッ殺してやる……」
 再び視線を巡らせると予想通り、先ほど、簡易的に捕縛した連中が回復してビニール紐から脱出していた。
「くっ……」
 流石に、数が違う。
 間合いを取った戦闘なら負ける気がしないが、殴り合いの喧嘩慣れした連中を複数相手にするのは難しい。
 この路地は狭いがそれ故の難点がある。
 真樹一人で複数を「一人ずつ倒さなければならない」ことだ。
 スタミナと膂力に全く自信の無い真樹が、美野里を連れて無事に脱出するのは限り無く難しい。
 美野里の後から腕が伸びて美野里を押し退ける。
「よう。初めまして」
 ポニーテールと山猫みたいな眼光が印象的な女。
 高津八重子だ。
「え、えっと……コチラ、八重子さんって人。高津八重子さん」
 後ろで美野里が背伸びしながら申しわけなさそうに真樹に紹介する。
「……」
 真樹は心に巣食う、出来るだけの悪意敵意を掻き集めて目に見えぬ矛先を形成して突き付けた。
「イイ眼だ。『素人とは思えない』な」
 言葉は真樹を評価していたが、態度は実に軽いもので、ズボンのポケットから煙草を取り出して悠々と火を点けた。
 煙草の煙を纏いながら、真樹の方へと歩み出す。
「……」
 真樹はアーミーナイフをスカートのポケットに仕舞うと、足を肩幅よりやや狭く開き、左足を半歩以上後退させる。腰を脱力させ、軽く両方の掌を握って不完全な握り拳を作る。やや、右半身の体勢。
 肘から下、手首に到るまでの尺側手根筋が僅かに膨張する。膝から下の下腿三頭筋がバネを蓄え始める。自然と深い腹式呼吸に変わる。
「!」
――――早い!
 高津八重子の右足が振り上げられる。
 反射的に上腕部を翳し、衝撃に備える。
 素手同士の白兵戦において戦場格闘術では7秒以内で正面の敵を無力化しなければ以降0.8秒毎に命の危険が7%ずつ増す。更に相手にイニシアティヴを取られた場合、更に9%ずつ加算される。
 不測の事態が常にとぐろを巻いている街中の喧嘩でもその公式は当て嵌まる場合が多い。
「っ!」
 奥歯を食い縛って、それでも視線だけは高津八重子から外すまいと踏ん張る。
「がっ!」
 苦悶の悲鳴を挙げたのは真樹ではない。
 真樹の足元でビニール紐で束縛され、塩ビパイプで締め上げられている顔面ピアスの男だった。
「?」
「おい! 加田! テメェんトコの三下連中があの、ちんまいのに先に手を出したんだってな!」
 八重子は親指で後ろでオロオロと落ち着きの無い美野里を指して厳しく言い放つ。
 生憎、加田という名前らしい男は八重子の蹴り下ろしで気絶していた。
「!」
 八重子は呆然とする真樹に向き直って目を伏せた。
「済まない。完全にコッチが悪い。こいつら馬鹿だが、可愛い舎弟分だ。アンタの好きなように私だけをタコ殴りにしてくれ。それ以外にオトシマエの着け方がワカラねぇ」
 尊大な台詞と沈んだ口調が一致しない。
 彼女自身も不器用な人間なのだろう。
「あなたの言うことが信用できない」
「……」
 真樹の冷たい一言が八重子を凍りつかせる。
 八重子の瞳に一瞬だけ、捨てられた子猫の瞳の影を見た。
「……あなたの言うことが信用できないって、今まで何度も言われてきたんでしょ?」
「え?」
 真樹は一歩踏み出して八重子と擦れ違いざまに呟いた。
「え? え?」
 長い灰の煙草が唇の端から地面に落ちる。
「美野里がこんな時間でも『普通にしていられる』のは、何か充分に食べさせてあげたんでしょ? さっき、美野里が助けを呼ぶより私のブラフを止めようとするほど、心に余裕があった……壊れ物を扱うように存分な待遇で美野里を守ってくれていたんでしょ? 詰まり、美野里は少なくとも、あなたという人間だけは信じていた」
「……」
 静かに歩きながら背中越しに真樹は独自の解釈を披露するが、八重子からは反論も意見もなかった。
 突然、真樹は踵を返して八重子の背中に語った。
「美野里が信じるのなら、私も信じる。美野里が信じ続けている限り、私も信じ続けてあげる」
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