第一話:「彼女に到るまでの距離」
天下泰平。
世界情勢が貨幣流通を以って群雄割拠している最中に有っても、極東の島国の住人には緊急に生命を脅かす脅威と感じている者は少なかった。
多様な主義主張が衝突しても独裁者を生み出すまでに到らず、何もかもが平穏な動向を見せている。それを誠に以って素晴らしい世界だと判断するか、単に平和ボケ民族の生態系だと評するかは後の歴史家が下す判断であって、現在を生きる人々の役割ではない。
その中にあって、特異とも言える技術を挙げよと言うのであれば、間違いなく、他者を攻撃するあらゆる手段だと多数の人間は答えるだろう。
事実、それは法治の元に国家体制が布かれている【日本国】では異端な技能だった。否、法律で厳しく取り締まられる対象の象徴でもあるかのように深く根強く浸透していた。
全ての暴力と是に準ずる行為は刑法に於いて裁かれる対象となり、法治国家たる二つ名を世界に知らしめている。
実力で以って他者を傷付けることを何よりも忌み嫌いながら不遇にも、簡潔的暴力での解決策を豊富に取り揃える者がこの国に存在していたというのなら、それは悲劇か? 或いは喜劇か?
『彼女』を取り巻く世界そのものが、『彼女』に敵意を向ける存在であると認識してもおかしくはないが、今の所、『彼女』自身が世を憐れみ、儚み、蔑み……心が負のベクトルに向かう事はなかった。
『彼女』の駆る「牙」は決して殺傷を目的にデザインされた凶器ではない。
寧ろ、殺傷と云う単能主義から程遠いアイテムである。
徒ならぬ技能を有する『彼女』がその「牙」を得物へと変貌させる機会が有ればそれも又、悲劇か? 喜劇か?
※ ※ ※
街灯の間を縫うように走る。
走りざま、足元のゴミとも雑貨とも解らぬ「落ちている物」を爪先で器用に拾い上げて、次々と両手や小脇に抱える。
ビニール紐。箒。空気の抜けたサッカーボール。空き缶が詰まった、収集日前に出されたゴミ袋。不法投棄されていた釣竿数本。
『彼女』はそれらを携え、足を止める事無く深い夜陰に紛れていく。
呼吸も乱さず、人の気配が絶えた路地を走る。
停止。周囲を確認。光源を頼りに距離を計測。把握と算出。
『彼女』の作戦は開始された。
滑らかに執行される作戦。何一つ、神にたのむ計算は含まれない。
全てが「腕に恃む計算」。
……そして、完了。
それは六月を前にした或る夜だった。
寝静まる空間が席巻する空間に小さな影が大きく駆けている。
「残念だけど……この辺りに来れば勝ちなの」
『彼女』、円城真樹(えんじょう まき)は勝利に満ちた声とは裏腹に表情は木彫りの面のように静謐だった。
フレームレスの眼鏡を右手の中指で正すと、小さな体躯に実った双球を押し上げる様に腕を組み、やがて聞こえてくるであろう喚き声を待った。
「命は盗らない。学習して。全ての攻撃対象が自分達より弱者とは限らないことを」
静かな。
落ち着いた。
憂いを含まない、
声。
眉目の整った秀麗な顔つきをした文系少女……誰もが彼女の容貌をそのように捉えるだろう。155cmの背丈に眼鏡。極めつけの発育良好な胸と尻を見せ付けられたら、異性ならば誰でも過剰なまでに性的色香を掻き立てられる。
取り立てて絶世を詠われるほどの美少女では足り得ないが、それ以外の韜晦した能力に惹き付けられる人間も存在するかもしれない。
健康的な黒髪のショート。ボリュームの少ないウルフカットで素直にサラサラと流れている。
凛とした耀きを湛えた大きな双眸はともすれば、機嫌が麗しくない方が魅力的だと思われる。
小豆色をしたシンプルなデザインのジャージの上下。ワゴンセールで売られている青い運動靴……深い夜中にコンビニに用事がなければこんな恰好はしなかっただろうに。
「……軍事用語だと損害3割で全滅。損害5割で壊滅。さて、何割の損害で引いてくれるかしら?」
呟いた途端。
四辻の真ん中に立つ真樹の四方から悲鳴と怒声が呻き声と共に夜風を切った。
真樹の左手首で街灯の灯りを照らし返すハレーションが眼鏡のレンズをチラッと舐める。
午前1時ジャスト。タイメックスのエクスペディションが報せる。彼女の細い腕には些かアンバランスに大きい男性用アウトドアウォッチだ。
若い男女が恥も外聞も無く泣き叫ぶ。真樹の位置から何処で誰がどのような手痛い仕打ちを受けているのか判断することは不可能だったが、それらの声がこちらに向かってくる気配はない。それどころか半べそで捨て台詞を吐いて遠ざかる足音が聞こえてきた。
「町内会の皆さん、後片付け、御免なさい」
「で、逃げたの? 逃げ出したの?」
翌日、円城真樹は、通学する私立北賀陽高校に登校する途中で級友の樋浦美野里(ひうら みのり)と合流して昨夜の一件を掻い摘んで話す。
自慢する訳でもなく、誰かが書いた読書感想文を無機質に読み上げるような他人事だった。
美野里はトレードマークの小さく纏めたツインテールを揺らしながら思わず撫でてやりたくなる童顔を呆れ顔に変形させた。
「お礼参りはコワイよー。警察に通報した方がいいんじゃない?」
真樹は制服のブレザーに付着していた埃屑を摘みながら、興味無さそうに美野里に返答した。
「暴力にしか敬意が払えない社会不適格者に司法概念の存在は無意味よ。それに足腰が立たなくなるまで傷め付ける必要なんてないの。手出しすれば無事では済まない、という警告と恐怖感を植えつけるだけで良いのよ」
「はあー。そんなモンかねぇ……」
美野里は自分の隣を歩く級友が時折、遠い国から気紛れでひょっこりやって来た「何か」に見える事が有る。
私立北賀陽高校普通科1年3組。
円城真樹。15歳。
取り立てて突出した能力は一見では判別できない。
能力……必ずしも人間離れした括りを指す単語ではない。
それは技術と言い換えた方が説明に填まる。
「真樹のお父さんは何を期待してそんなコト教えたんだろ? 何かの英才教育?」
美野里はいつも可愛らしく小首を傾げる。
真樹の能力は実生活には全く役に立たない「技術と知識」の集大成だ。
「んー。さぁ……でも、今じゃアナログ時計とポケットナイフがないと丸裸にされた気分になるわね」
真樹は欠伸を噛み殺しながら、何度も浴びせられた級友の台詞を軽く受け流した。この話題の会話は真樹自身が態と逸らせるために、よく演技の生欠伸を出す。限りなく親友に近い級友の美野里に対しても、何処か心を許していない、悲しい暗面が心に存在していた。
「あはは……そんな感覚、解んないなぁ」
美野里も何となく苦笑い。美野里自身も真樹が深くこの会話に滑り込まれるのを敬遠しているのを感じ取っている。だから彼女もこれ以上、この話題を続けない。
日常とは常に「連続」である。
「連続」の定義は個人主観に拠る。Aという人間からすればBという人間の生活が全く理解を超えているように。
高校生と言う身分に収まっている真樹も又、大多数の人間が定義する所の「普通な社会」で生活を営むその他大勢だった。
何もないことが普通で、何もないことを守るのが普通の社会。
それは「平和な社会」とも呼ばれる。
世界情勢が貨幣流通を以って群雄割拠している最中に有っても、極東の島国の住人には緊急に生命を脅かす脅威と感じている者は少なかった。
多様な主義主張が衝突しても独裁者を生み出すまでに到らず、何もかもが平穏な動向を見せている。それを誠に以って素晴らしい世界だと判断するか、単に平和ボケ民族の生態系だと評するかは後の歴史家が下す判断であって、現在を生きる人々の役割ではない。
その中にあって、特異とも言える技術を挙げよと言うのであれば、間違いなく、他者を攻撃するあらゆる手段だと多数の人間は答えるだろう。
事実、それは法治の元に国家体制が布かれている【日本国】では異端な技能だった。否、法律で厳しく取り締まられる対象の象徴でもあるかのように深く根強く浸透していた。
全ての暴力と是に準ずる行為は刑法に於いて裁かれる対象となり、法治国家たる二つ名を世界に知らしめている。
実力で以って他者を傷付けることを何よりも忌み嫌いながら不遇にも、簡潔的暴力での解決策を豊富に取り揃える者がこの国に存在していたというのなら、それは悲劇か? 或いは喜劇か?
『彼女』を取り巻く世界そのものが、『彼女』に敵意を向ける存在であると認識してもおかしくはないが、今の所、『彼女』自身が世を憐れみ、儚み、蔑み……心が負のベクトルに向かう事はなかった。
『彼女』の駆る「牙」は決して殺傷を目的にデザインされた凶器ではない。
寧ろ、殺傷と云う単能主義から程遠いアイテムである。
徒ならぬ技能を有する『彼女』がその「牙」を得物へと変貌させる機会が有ればそれも又、悲劇か? 喜劇か?
※ ※ ※
街灯の間を縫うように走る。
走りざま、足元のゴミとも雑貨とも解らぬ「落ちている物」を爪先で器用に拾い上げて、次々と両手や小脇に抱える。
ビニール紐。箒。空気の抜けたサッカーボール。空き缶が詰まった、収集日前に出されたゴミ袋。不法投棄されていた釣竿数本。
『彼女』はそれらを携え、足を止める事無く深い夜陰に紛れていく。
呼吸も乱さず、人の気配が絶えた路地を走る。
停止。周囲を確認。光源を頼りに距離を計測。把握と算出。
『彼女』の作戦は開始された。
滑らかに執行される作戦。何一つ、神にたのむ計算は含まれない。
全てが「腕に恃む計算」。
……そして、完了。
それは六月を前にした或る夜だった。
寝静まる空間が席巻する空間に小さな影が大きく駆けている。
「残念だけど……この辺りに来れば勝ちなの」
『彼女』、円城真樹(えんじょう まき)は勝利に満ちた声とは裏腹に表情は木彫りの面のように静謐だった。
フレームレスの眼鏡を右手の中指で正すと、小さな体躯に実った双球を押し上げる様に腕を組み、やがて聞こえてくるであろう喚き声を待った。
「命は盗らない。学習して。全ての攻撃対象が自分達より弱者とは限らないことを」
静かな。
落ち着いた。
憂いを含まない、
声。
眉目の整った秀麗な顔つきをした文系少女……誰もが彼女の容貌をそのように捉えるだろう。155cmの背丈に眼鏡。極めつけの発育良好な胸と尻を見せ付けられたら、異性ならば誰でも過剰なまでに性的色香を掻き立てられる。
取り立てて絶世を詠われるほどの美少女では足り得ないが、それ以外の韜晦した能力に惹き付けられる人間も存在するかもしれない。
健康的な黒髪のショート。ボリュームの少ないウルフカットで素直にサラサラと流れている。
凛とした耀きを湛えた大きな双眸はともすれば、機嫌が麗しくない方が魅力的だと思われる。
小豆色をしたシンプルなデザインのジャージの上下。ワゴンセールで売られている青い運動靴……深い夜中にコンビニに用事がなければこんな恰好はしなかっただろうに。
「……軍事用語だと損害3割で全滅。損害5割で壊滅。さて、何割の損害で引いてくれるかしら?」
呟いた途端。
四辻の真ん中に立つ真樹の四方から悲鳴と怒声が呻き声と共に夜風を切った。
真樹の左手首で街灯の灯りを照らし返すハレーションが眼鏡のレンズをチラッと舐める。
午前1時ジャスト。タイメックスのエクスペディションが報せる。彼女の細い腕には些かアンバランスに大きい男性用アウトドアウォッチだ。
若い男女が恥も外聞も無く泣き叫ぶ。真樹の位置から何処で誰がどのような手痛い仕打ちを受けているのか判断することは不可能だったが、それらの声がこちらに向かってくる気配はない。それどころか半べそで捨て台詞を吐いて遠ざかる足音が聞こえてきた。
「町内会の皆さん、後片付け、御免なさい」
「で、逃げたの? 逃げ出したの?」
翌日、円城真樹は、通学する私立北賀陽高校に登校する途中で級友の樋浦美野里(ひうら みのり)と合流して昨夜の一件を掻い摘んで話す。
自慢する訳でもなく、誰かが書いた読書感想文を無機質に読み上げるような他人事だった。
美野里はトレードマークの小さく纏めたツインテールを揺らしながら思わず撫でてやりたくなる童顔を呆れ顔に変形させた。
「お礼参りはコワイよー。警察に通報した方がいいんじゃない?」
真樹は制服のブレザーに付着していた埃屑を摘みながら、興味無さそうに美野里に返答した。
「暴力にしか敬意が払えない社会不適格者に司法概念の存在は無意味よ。それに足腰が立たなくなるまで傷め付ける必要なんてないの。手出しすれば無事では済まない、という警告と恐怖感を植えつけるだけで良いのよ」
「はあー。そんなモンかねぇ……」
美野里は自分の隣を歩く級友が時折、遠い国から気紛れでひょっこりやって来た「何か」に見える事が有る。
私立北賀陽高校普通科1年3組。
円城真樹。15歳。
取り立てて突出した能力は一見では判別できない。
能力……必ずしも人間離れした括りを指す単語ではない。
それは技術と言い換えた方が説明に填まる。
「真樹のお父さんは何を期待してそんなコト教えたんだろ? 何かの英才教育?」
美野里はいつも可愛らしく小首を傾げる。
真樹の能力は実生活には全く役に立たない「技術と知識」の集大成だ。
「んー。さぁ……でも、今じゃアナログ時計とポケットナイフがないと丸裸にされた気分になるわね」
真樹は欠伸を噛み殺しながら、何度も浴びせられた級友の台詞を軽く受け流した。この話題の会話は真樹自身が態と逸らせるために、よく演技の生欠伸を出す。限りなく親友に近い級友の美野里に対しても、何処か心を許していない、悲しい暗面が心に存在していた。
「あはは……そんな感覚、解んないなぁ」
美野里も何となく苦笑い。美野里自身も真樹が深くこの会話に滑り込まれるのを敬遠しているのを感じ取っている。だから彼女もこれ以上、この話題を続けない。
日常とは常に「連続」である。
「連続」の定義は個人主観に拠る。Aという人間からすればBという人間の生活が全く理解を超えているように。
高校生と言う身分に収まっている真樹も又、大多数の人間が定義する所の「普通な社会」で生活を営むその他大勢だった。
何もないことが普通で、何もないことを守るのが普通の社会。
それは「平和な社会」とも呼ばれる。
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