淑女ならざる者の脳科学

 体に残る倦怠感と思考鈍麻は変わらないが、自分が今の姿のまま立ちっぱなしだと風邪をひくという状況の理解はできたので、電子メモパッドとコーヒーカップを持って、リビングへ行く。エアコンの暖房を作動させて、ドテラを羽織る。
「さてさて……どうしたものか……」
 美妙は名店のオリジナルブレンドだという触れ込みのドリップコーヒーを啜りながら、電子メモパッドを2つ並べる。更にこの部屋に置いている何も書かれていない同じモデルも持ってくる。
 先の2つの電子メモパッドには電話から入ってきた情報や報告の要点だけが走り書きされている。書いている最中に一枚の電子メモパッドだけでは足りずにもう一枚追加したのだ。 
 そしてそれらを一望して更に要点を抽出して何も書かれていない3枚目のそれに書き連ねていく。この電子メモパッドは全くのスタンドアロンでデジタルとは無関係だ。ボタン電池の力で、書いたものを一瞬で削除する機能しかない。……つまりは安心して思考の羽を広げる事ができる。
 現時点で判明ししている事は……。
 敵対組織の脅威だと判断するのは早い。
 個人か零細が箔をつけるために攻勢的な行動に出た可能性。
 こちらの被害は死者2名。負傷者4名。交戦情報は現時点で合計12件。
 以上。
 美妙は先ずは客観的事実だけを抜き取って書いた。
 コーヒーを一口、呷る。シガリロが恋しい。……頭が少しずつ覚めてきた証拠だ。睡眠薬の副作用である思考鈍麻はまだまだ消えてくれない。
 書き出した客観的事実から今度は抽象的事象を抜き出す。
 即ち、【敵なのか、敵でないのか?】【目的は殺傷以外に有る】【実力の計測】【コスト無視……故に、無理、無茶、無謀を恐れない個人または団体か?】などだ。
 事実だけを並べてその根底に共通している情報を読み取る作業を情報の抽象化という。
「あ……」
 ―――ダメ。無理
 不意に美妙は立ち上がり、手元の小さなポーチからロメオyジュリエッタのシガリロを取り出して一本銜える。愛用のブラス仕上げのトレンチライターで先端を炙る。
 思考しながらコーヒー……と、来てシガリロが無いのは画竜点睛に欠くというものだ。
 リビングの空気清浄機が赤いランプを光らせて作動する。締め切った空間では、余程、シガリロの煙は嫌われるらしい。
 ロメオのシガリロを軽く舌の上で転がして細く長く吐く。チェイサーのようにコーヒーを一口。口内がお気に入りのマリアージュを奏でるが、眠気と睡眠薬の副作用で有難みが半減している。
 電子メモパッドのディスプレイを胡乱な目で眺める。
 3枚の電子メモパッド。情報の要点。客観的事実。その根底。……そして今、美妙が思考を練っているのはその次の段階……『自身への転用』だ。
 ありのままの情報の羅列から、直ぐに伺える要点を抜き出しそれを客観的事実として羅列しなおす。その数行の羅列の中に通じる意図や目的や真意に近い抽象的概念を想像しうるだけ書き連ねる。……その自分と言うフィルターを通した結果から、『自分ならば、この場合、このように指示された時、こうなってしまった時、どのように打って出るか? 打って出るだけの合理的な説明ができるか? 打って出た結果に得たモノで満足できるか?』等という順番で思考を次々に展開していく。
 これは美妙が正体不明の敵と遭遇した時に用いる思考術だ。正体不明の敵を正体不明のまま放置しているほど愚かではない。必ず傾向と対策と善後策を練る。
 この世には大したことの無い本物の雑魚はごく少数だ。それは昨夜の尾行からの襲撃のように、金で雇われただけの三下か半グレもどきでも何かの意図が働いて『中堅企業をでっち上げる力の有る組織の、それも特定の部署の人間だけを襲撃してきた』のだ。これを単なる偶然で片付けるのは愚の骨頂だ。
 予想通りに『勤め先』からのモーニングコール。睡眠薬の副作用が抜けていない頭で早朝からシガリロとコーヒーで活を入れながら思考を巡らせている。時々、欠伸。眦に涙が浮かぶ。
 ―――間違いなく、『処刑担当』を狙っている。
 ―――特定の誰かを探している? 全員が標的?
 ―――この街で新しく興きた勢力とは思えない。
 ―――その根拠は……『うちの会社』が大きいのは周知の事実なのだから、噛みついて箔をつけても逆にお尋ね者になる可能性が高い。
 ―――結局のところ……敵は個人か組織か?
 ―――これが判明しないと手の打ち方が180度違ってくる。
 あらゆる角度から考察を重ねて思考を巡らせても、情報が出揃っていない状態での分析には限界が有った。
 寧ろ、この街で美妙が所属する大手組織に一矢報いようとする個人や組織が唐突に生まれたとは考えられない。
 かなり前から何かが仕組まれていたような気配がする。
 更に電子メモパッドを追加して謎や違和感を覚える事柄を書き出す。情報を全て吸い出したそれらのディスプレイは即座に削除する。
 最後に残った電子メモパッドは1枚だけになったが、ここに今までの要点と要約と客観主観から導き出した諸々がメモされている。勿論、誰にも通用しない自分だけの暗号のような文面に変換してそれをスマートフォンで撮影する。スマートフォンに残された情報は恐らくサムネイルからも拡大してからも、美妙以外に解読するのは不可能だ。
 ここまでメモをまとめるのに結局3時間も経過していた。
 シガリロも5本を灰にして、コーヒーも3杯飲んだ。
 美妙だけでなく、『勤め先』の『同じ部署』で働く同僚で残存している者も自分なりのメソッドでこのように独自解釈を加えて考察に考察を重ねているだろう。
 朝の4時に叩き起こされ、現在午前7時過ぎ。
 睡眠薬の副作用は抜けている。……はたまた、抜けているのか、カフェインとニコチンで有耶無耶にされたのか分からない。今までに、平日に起床一番からシガリロとコーヒーを片手に睡眠薬の副作用と戦いつつ、頭脳労働をしたことが無い。
 腹が空き切って痛みすら覚える。空腹に大量のコーヒーが原因だ。
 使用した全ての電子メモパッドを元の位置に戻すと、億劫そうに立ち上がってキッチンへ向かう。
 出勤時より1時間半以上遅い朝食の準備にかかる。今更空腹にがっつりと食餌を詰め込む気がしないので、5枚切りの食パン2枚を取り出し、からしマヨネーズを塗ってから冷蔵庫から取り出したレタスやハムやトマトを適当に挟んで、大きな口を開けて齧る。
 齧りながらも脳内では延々と書き連ねてきたメモの内容を反芻して元情報との乖離が無いか、齟齬が無いか、誤解が無いかをなぞる。
 肉食獣が生肉を喰らうような大雑把な齧り方で雑なサンドウィッチをどんどん胃袋に押し込む。流石に胃が荒れるのを気にしたのか、コーヒーを作るのを躊躇って、ホットミルクの砂糖抜きで時々、口内を押し流す。
 シガリロの独特の残り香が口内にホットミルクが注がれる度に薄れていく。
 ―――さてさて……。
 ―――どうしたものか……。
 ―――『うちの社員のタマが盗られる』程の使い手が居るのは確かなんだよねー。
 ―――さてさて、どうしたものか。
 咀嚼しながら、脳のニューロンに負荷をかける。
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