淑女ならざる者の脳科学

 社屋を後にして、暫く雑踏を歩く。腕時計を確認。午前11時を少し過ぎた。
 会社員の扮装をしているので腕時計はこじんまりとしたレディース用のQ&Qのアナログ。時刻さえ正確ならば特に拘りはないが、社会的身分の韜晦という意味では腕時計一つをとっても馬鹿にできない。
「……」
 ―――つけられている……?
 日中に正々堂々と背後から尾行されるのは久しぶりだ。
 観察の気配がする。
 即座にズドンと発砲してくることは無いだろう。これだけのビル群の中……衆人環視の中、教科書に書いてあるような見事な尾行だった。
 背後は振り向かない。背中や頭部のセンサーポッドの感度を最高にする。街中はノイズが多く、余計な情報に溢れているので、尾行されていたと勘違いする事も珍しくない。
 直感は裏切るが違和感は裏切らない。
 この言葉に異論や諸説が有るだろうが、美妙は素直におかしいものはおかしいと感じるタイプだった。
「拙い……」
 思わず声に出る。
 心の片隅で違和感が外れることを願っていたのに、尾行される気配が増えていることに気がついた。
 複数の気配。殺意や敵意はない。
 観察。
 交代。
 違う気配。
 観察。
 教科書に書かれている通りの尾行の手順。映画やドラマで見るように1人の尾行者が対象を最後まで尾行ないし追跡するのは稀だ。
 実際には複数人が途中で交代しながら対象に気づかれずに尾行する。従って、気配を感じて振り向く度にそこには違う顔が居て、全員を覚えるのが困難で、自分が本当に尾行されていたのかどうかという疑心暗鬼を抱きにくい。
 普通ならば……『普通の人間センスを持った裏社会の人間ならば』、疑心暗鬼を分析しているうちに自縄自縛に陥り、半分、自暴自棄に近い行動に出る。それがどんなに自身にとって最適解であったとしても、街中で組織の連中と円陣を組むわけにはいかないので時として突拍子もない行動に出るのが人間だ。
 先ず、顔色を変えずに深呼吸。
 頭に冷たくて新鮮な酸素を送り込む。イメージ的には、机の上の乱雑に積まれた書類やファイルや書籍を腕の一薙ぎで払い落として、書類作成に必要な資料だけを机の上に整理して並べるような感じだ。
 ―――足音と呼吸は参考にならない。歩幅と道の角に注意しなきゃ……。
 尾行をする際に尾行者の数や腕前を測る物差しとして幾つか有るが、この場合は歩幅と街角に着目する。
 懐に相棒の拳銃は飲み込んでいない。
 暫く寒風が緩く吹く街の通りを歩く。
 無意味な歩き方はしない。こちらが尾行者に気がついたと知られてしまうからだ。
 飽く迄何も知らない振りをしてビジネスマンやOL相手のキッチンカーのコーヒースタンドで適当にコーヒーを買い、社屋に戻る。
 見た目は気分転換のための休憩だと振る舞ったが、恐らくその工作は見破られている。
 社屋に戻り自分の書類上勤務するフロアに戻ると廊下を歩きながらコーヒーの紙コップを持っていない側の手……だらりと下げた左掌を握ったり、開いたりする。
 防犯カメラの姿をした監視カメラにハンドシグナルで信号を送る。【勢力不詳の要員に尾行された。各自警戒されたし】と。
 フロアに動きはないが、監視カメラを通じてバックヤードではそろそろ動きがあるのかもしれない。
 いつもの廊下。何故か長い廊下に感じる。今頃になって背中に脂汗が吹き出る。
 長い一日が始まりそうだ。



 本日は少々の残業をしたという体で社屋を後にする。
 今度は懐に相棒のアストラカデックス384を忍ばせている。元から銃撃戦を想定していないので予備の弾は心許ない。 
 昔の警察官が腰に提げていた38口径6連発4インチ銃身の拳銃と大して何も変わらない相棒だ。
 師匠の……組織の処刑検分役が同じ口径を使っていたから自分も使いたくなった。それだけの理由で選んだ。もう少し付け加えれば、師匠の拳銃は時代遅れも甚だしい拳銃で、自分もその古めかしさにレトロフューチャーな想いを抱き、今では地下の武器屋でも中古屋でしか手に入らない骨董品を愛用している。
 足りない火力は腕前と経験と勘でカバーだ。
 午後7時半。
 世間は繁忙期で、多少の残業をしても怪しまれない時期。
 夜の乾いた冷たい風が肺を満たす。帰路を急ぐ会社員たちの流れに乗って歩く。
「尾行されてる……ね」
 背中と頭部のセンサーが強すぎる違和感を覚える。
 美妙は自分から打って出た。
 細い路地やビルの隙間から入る路地裏へと進む。
 尾行の数は複数。
 今度は連中も姿を隠そうともしない。尾行をしている素振りも捨てた。美妙も尾行者を伺う姿勢は捨てて、すぐに左肩に掛けたトートバッグを投げ捨てられるように体を少し左側へ傾けて、右手を軽く脱力させる。
 指先に少しでも血の巡りを促すために何度も空気を掴んで離す。
 風が一層強くなる。ビル風が複雑に発生して表通りの冷たいだけの微風を加速させて、強く顔を叩くほどの風に成長させている。ビル群の路地裏のカビ臭い匂いが鼻腔の奥を不快に乾かす。
 羽織っていたジャケットの左懐に右手を差し込んだ刹那……。 
 複数の銃声が美妙を包む。
 耳を聾する銃声。 
 美妙の予想通りだ。
 防犯カメラの陰に滑り込んだ途端に遠慮無しに銃弾が襲ってきた。
 自動拳銃が3丁。9ミリ口径。一般的な大型軍用自動拳銃。
 美妙は相棒を抜き放ちながらトートバッグを物陰に投げ捨てて、路肩で違法な駐車をしているマツダの商用バンの陰に滑り込む。
 撃鉄を起こす。シリンダーが6分の1回転して、軽い力で簡単に撃発できることを音で報せた。
 カタギに銃声を聞かれることを恐れていない。
 遠慮がないのか、そこまで考えが及ばない素人なのか。それともそのリスクを犯してでも美妙を仕留める価値が有るのか? 狙われる理由や心当たりが多過ぎる。
 こんな商売をしていれば身内の内外に敵を作ってしまうのは当たり前だ。それに見合う給料を貰っていても矢張り、命の値段を本気で考えてしまう。
 商用バンのボディに銃火が集中し始める。
 拳銃弾程度なら貫通はしない。流石にウィンドゥは銃弾で簡単に叩き割られてしまう。
 同じ9ミリ口径でも――38口径はメートル法で換算すると約9ミリ口径――火力の違いは明らかだが、悔しさの唾は吐かない。 
 今までこの銃で鉄火場を生き抜いてきた。生き抜くだけの技術を叩き込まれてきた。それでも文句があるのなら、それは自身の修行不足だ。
 火力が足りない、人が足りない、場所が悪いなどと不平不満だけを並べていたのでは、最終的に「核兵器が欲しい」に到達してしまう。
 無い物強請りはただの負け犬根性だ。……これは師匠の言葉だ。
 美妙は風通しが良くなった商用バンの窓枠から顔を覗かせて直視で状況を測りつつ左手に持った、商用バンの壊れて弾き飛ばされたサイドミラーを拾い死角も伺う。
 眼とミラーに写った世界を即座に計算して記憶して、ミラーを捨てて右手のアストラカデックス384を横倒しにして発砲。
 軽い発砲音が軍用自動拳銃の咆哮の隙間に遠慮がちに囁く。
 パシャッと水風船が爆ぜたような音が聞こえた。
 右手側斜め前方25m程の位置に居る男と思しきシルエットの頭部の右側から血しぶきが噴出する。それ以来男は頸をへし折ったように不自然な方向に曲げて、右回転で独楽のように回りながらその場に座り込んで仰向けになって倒れる。 
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