淑女ならざる者の脳科学
この街、この界隈で、持ち切りの噂に対して彼が興味を持たぬはずがなかった。
間違いなく、彼は行動する。
名護優希という青年と平木美妙が出会うまで1週間前の出来事だ。
※ ※ ※
美妙のオフィスは外資系産業グループの傘下にある企業だ。
中堅に今一歩及ばない企業。
表向きの名前や事業形態は『書類の上での韜晦』でしかなく、世間や社会の眼を眩ませるだけの存在だ。
出勤というスタイルを採用しているが、事実上、勤務時間はない。時間が来れば偽のタイムカードが押される。
【加賀商事】。
どんな無粋な名前でもその末尾に商事と付属させればそれらしい企業が生まれるのだから不思議なものだ。
美妙の住居は3LDKのハイツ。徒歩15分の駅。25分の間、区間急行に揺られてから更に徒歩10分。そこに勤め先の【加賀商事】は有った。
書類の登記上は存在し、書類の記録上は輸入雑貨を取り扱う企業。
国外資本に買収された日本企業の2次商社。
平凡過ぎて特筆すべきことが何も見つからない。
……それが目的のカバー――隠蔽隠匿のための偽の情報――なのだから設立した目的を果たしていると言える。
本日も美妙は朝の9時に出勤していることになっている。
実際に1時間半以上前に自宅を出て通勤ルートを辿っている。
抜き打ちの司直の調査に対応するためにアリバイ工作を行いやすいように『タイムカードや社内や近隣の防犯カメラを操作している』。
今や自身の組織を守るためにここまで金額を投じる事ができる反社会勢力は非常に少ない。
美妙の組織の上層が『経営顧問』としてヨーロッパから招聘した本物の経営コンサルタントを雇っているからだ。
組織内部を最初から一枚板として見做さず、多数の個性と複数の派閥の集合体として考えているので、上層部の刷新が終わった頃に早い段階から外部からの助言を取り入れていた。
勿論、二重スパイや三重スパイの危険性もクリアしたクリーンな――この場合のクリーンとは買収で口が固くなるタイプの人間を指す――コンサルタントに高い年俸で助言をもらっている。
その結果生まれたものの一つが、美妙の職場である『名前のない部署』である。日本人が大好きな巷説や都市伝説を利用した実に巧妙な戦術である。
日本人は姿の見えないものに神か仏か悪鬼羅刹を投影する。
出社。
がらんとしたオフィス。テナントフロアの1フロアを借りているだけの実に寒い空間だ。
事務所然としたスチールデスクと事務椅子が並び、デスクの上には電話がそれぞれ一本ずつ引かれているだけの簡素な空間で駅前のコワーキングスペースのほうが余程、温かみがある。仕事をするためのスペースと言うより仕事をするのに必要なものが最低限揃っているだけのスペースだ。
この部屋は30平米ほどの広さで、社員は今日は5人しか確認できない。
昨今の疫病禍で在宅ワークやオンライン会議が徹底されている企業もあるので、不自然ではない。
実際に表の明るい世界にある企業や個人商店でもオンラインで済ませられる要件や案件は出社しなくとも成り立つことが『疫病禍に乗じた皮肉な社会実験』で証明された。
それは、裏の暗い世界を歩く人間からすれば苦笑が出てしまう展開だ。
必死に外出して市井に紛れて人畜無害をアピールしているのに、今度は外出しなくても仕事ができる風潮が持ち上げられると、出勤時間に外出すると「あのお宅は大変だ」とささやかな注目を浴びてしまう。
アンダーグラウンドの人間ほど社会の世情に対して賢しら加減が求められる職業もない。
美妙は自分が勤める部署のフロア――デスクだけで構築された島――の一角に来ると、トートバッグを置き、脱いだベージュのコートを無造作に隣の空席の上に放り投げた。
水色のセーターに黒のパンツに冬用の通勤靴――爪先が冷えるのを警戒して生地の厚い靴下を履いているためにサイズが大きい――。
特に『何もしない』。
人殺しの命令がなければ、本日のアリバイ工作のミッションはこれで完了だ。
トートバッグから取り出したタブレット端末でニュースサイトを徘徊して無為な時間を過ごす。他の社員は見える範囲で5人しか居ない。それぞれ別の島の、つまり、表向きは隣の部署の人間ばかりだが、全員が同じく退屈そうにスマートフォンやタブレットの端末を操作している。
快適な室温でも、希薄すぎる人間関係と遠すぎる対人関係の距離感に寒々とした微風が常に美妙の心に当たる。
社内でも特に友好を深める必要がないので、この部署やフロアでは誰もが『出動』がない限り他人同士だ。不必要な接触は不必要な情報の漏洩に繋がる。
社員は出勤してくると手元の端末以外の端末……即ち、デスク上の電話が鳴れば『仕事の始まり』だ。
単独なのかチームなのかはその時に知らされる。
ニード・トゥ・ノウの法則を徹底するために同じフロアの人間でもお互いに名前すら知らない場合がある。この場にいるのだから同じ会社の社員なのだろうという思い込みだ。
それほどまでに綱紀粛正にも似た鉄則が浸透している証左であった。
デスクの上の電話が鳴る。美妙の耳は途端に研ぎ澄まされる。自分のデスクの電話が鳴ったのではない。少し離れた位置に居る社員の電話が鳴った。
別段、悔しいとも思わない。適材適所で選ばれたのだろうという考えが強く、実際に社員の選抜に間違いが無い場合が殆どだ。
結局の処、本日は事務椅子を温めるだけの仕事で1時間程で退社する。体は退社するが、アリバイ工作が万全のために午後5時過ぎまで美妙はこの【加賀商事】で勤務している事になっている。
裏の世界とは表の人間が考える程華々しい世界ではない。
裏の世界でも「何もなければそれに越した事がない」という考え方は同じだ。
出費は抑えて最大の成果を出す。
これが鉄則だ。そのような思考の元に組織が運営されているので旧来の任侠極道のような世界でしか通用しない掟や面子は邪魔でしか無い。
組織の刷新。
これが昨今のアンダーグラウンドで生き残る組織の条件であった。
嘗ての看板を早々に手放したからこそのフットワークの軽さ。自らの看板を自らいつ捨てるか? ……これを見極められない組織の長はリーダーとして資質が問われるとまで囁かれている。
数年前から世界を騒がせている疫病がこの時代の流れを良くも悪くも大きく変えてしまった。
疫病が流行らなければ、この裏社会のムーブメントの到来はあと、10年は遅かっただろう。
疫病が流行ったこの数年は、科学も人口の流入も時代の趨勢も後押しするように変貌させてしまった。間接的に日本の殆ど反対側近くの国やはるか北東の国では干戈が交えられており、国際情勢は更に複雑に入り組み、現在進行形で流動的に姿を変えている。人の命や時間の価値、生み出される諸問題の優劣と優先順位。
世界規模の朝令暮改が発生している。
いつしか……美妙は時代について思索を深める事はしなくなった。
間違いなく、彼は行動する。
名護優希という青年と平木美妙が出会うまで1週間前の出来事だ。
※ ※ ※
美妙のオフィスは外資系産業グループの傘下にある企業だ。
中堅に今一歩及ばない企業。
表向きの名前や事業形態は『書類の上での韜晦』でしかなく、世間や社会の眼を眩ませるだけの存在だ。
出勤というスタイルを採用しているが、事実上、勤務時間はない。時間が来れば偽のタイムカードが押される。
【加賀商事】。
どんな無粋な名前でもその末尾に商事と付属させればそれらしい企業が生まれるのだから不思議なものだ。
美妙の住居は3LDKのハイツ。徒歩15分の駅。25分の間、区間急行に揺られてから更に徒歩10分。そこに勤め先の【加賀商事】は有った。
書類の登記上は存在し、書類の記録上は輸入雑貨を取り扱う企業。
国外資本に買収された日本企業の2次商社。
平凡過ぎて特筆すべきことが何も見つからない。
……それが目的のカバー――隠蔽隠匿のための偽の情報――なのだから設立した目的を果たしていると言える。
本日も美妙は朝の9時に出勤していることになっている。
実際に1時間半以上前に自宅を出て通勤ルートを辿っている。
抜き打ちの司直の調査に対応するためにアリバイ工作を行いやすいように『タイムカードや社内や近隣の防犯カメラを操作している』。
今や自身の組織を守るためにここまで金額を投じる事ができる反社会勢力は非常に少ない。
美妙の組織の上層が『経営顧問』としてヨーロッパから招聘した本物の経営コンサルタントを雇っているからだ。
組織内部を最初から一枚板として見做さず、多数の個性と複数の派閥の集合体として考えているので、上層部の刷新が終わった頃に早い段階から外部からの助言を取り入れていた。
勿論、二重スパイや三重スパイの危険性もクリアしたクリーンな――この場合のクリーンとは買収で口が固くなるタイプの人間を指す――コンサルタントに高い年俸で助言をもらっている。
その結果生まれたものの一つが、美妙の職場である『名前のない部署』である。日本人が大好きな巷説や都市伝説を利用した実に巧妙な戦術である。
日本人は姿の見えないものに神か仏か悪鬼羅刹を投影する。
出社。
がらんとしたオフィス。テナントフロアの1フロアを借りているだけの実に寒い空間だ。
事務所然としたスチールデスクと事務椅子が並び、デスクの上には電話がそれぞれ一本ずつ引かれているだけの簡素な空間で駅前のコワーキングスペースのほうが余程、温かみがある。仕事をするためのスペースと言うより仕事をするのに必要なものが最低限揃っているだけのスペースだ。
この部屋は30平米ほどの広さで、社員は今日は5人しか確認できない。
昨今の疫病禍で在宅ワークやオンライン会議が徹底されている企業もあるので、不自然ではない。
実際に表の明るい世界にある企業や個人商店でもオンラインで済ませられる要件や案件は出社しなくとも成り立つことが『疫病禍に乗じた皮肉な社会実験』で証明された。
それは、裏の暗い世界を歩く人間からすれば苦笑が出てしまう展開だ。
必死に外出して市井に紛れて人畜無害をアピールしているのに、今度は外出しなくても仕事ができる風潮が持ち上げられると、出勤時間に外出すると「あのお宅は大変だ」とささやかな注目を浴びてしまう。
アンダーグラウンドの人間ほど社会の世情に対して賢しら加減が求められる職業もない。
美妙は自分が勤める部署のフロア――デスクだけで構築された島――の一角に来ると、トートバッグを置き、脱いだベージュのコートを無造作に隣の空席の上に放り投げた。
水色のセーターに黒のパンツに冬用の通勤靴――爪先が冷えるのを警戒して生地の厚い靴下を履いているためにサイズが大きい――。
特に『何もしない』。
人殺しの命令がなければ、本日のアリバイ工作のミッションはこれで完了だ。
トートバッグから取り出したタブレット端末でニュースサイトを徘徊して無為な時間を過ごす。他の社員は見える範囲で5人しか居ない。それぞれ別の島の、つまり、表向きは隣の部署の人間ばかりだが、全員が同じく退屈そうにスマートフォンやタブレットの端末を操作している。
快適な室温でも、希薄すぎる人間関係と遠すぎる対人関係の距離感に寒々とした微風が常に美妙の心に当たる。
社内でも特に友好を深める必要がないので、この部署やフロアでは誰もが『出動』がない限り他人同士だ。不必要な接触は不必要な情報の漏洩に繋がる。
社員は出勤してくると手元の端末以外の端末……即ち、デスク上の電話が鳴れば『仕事の始まり』だ。
単独なのかチームなのかはその時に知らされる。
ニード・トゥ・ノウの法則を徹底するために同じフロアの人間でもお互いに名前すら知らない場合がある。この場にいるのだから同じ会社の社員なのだろうという思い込みだ。
それほどまでに綱紀粛正にも似た鉄則が浸透している証左であった。
デスクの上の電話が鳴る。美妙の耳は途端に研ぎ澄まされる。自分のデスクの電話が鳴ったのではない。少し離れた位置に居る社員の電話が鳴った。
別段、悔しいとも思わない。適材適所で選ばれたのだろうという考えが強く、実際に社員の選抜に間違いが無い場合が殆どだ。
結局の処、本日は事務椅子を温めるだけの仕事で1時間程で退社する。体は退社するが、アリバイ工作が万全のために午後5時過ぎまで美妙はこの【加賀商事】で勤務している事になっている。
裏の世界とは表の人間が考える程華々しい世界ではない。
裏の世界でも「何もなければそれに越した事がない」という考え方は同じだ。
出費は抑えて最大の成果を出す。
これが鉄則だ。そのような思考の元に組織が運営されているので旧来の任侠極道のような世界でしか通用しない掟や面子は邪魔でしか無い。
組織の刷新。
これが昨今のアンダーグラウンドで生き残る組織の条件であった。
嘗ての看板を早々に手放したからこそのフットワークの軽さ。自らの看板を自らいつ捨てるか? ……これを見極められない組織の長はリーダーとして資質が問われるとまで囁かれている。
数年前から世界を騒がせている疫病がこの時代の流れを良くも悪くも大きく変えてしまった。
疫病が流行らなければ、この裏社会のムーブメントの到来はあと、10年は遅かっただろう。
疫病が流行ったこの数年は、科学も人口の流入も時代の趨勢も後押しするように変貌させてしまった。間接的に日本の殆ど反対側近くの国やはるか北東の国では干戈が交えられており、国際情勢は更に複雑に入り組み、現在進行形で流動的に姿を変えている。人の命や時間の価値、生み出される諸問題の優劣と優先順位。
世界規模の朝令暮改が発生している。
いつしか……美妙は時代について思索を深める事はしなくなった。
