淑女ならざる者の脳科学

 現代では、今日の世界では縄張りを守るという概念すら死語になりつつある。
 任侠極道とは一線を画したと声高に宣言した、在来の暴力団でも国外の勢力と結託しなければ組織の予算は収入として扱えないし、ほんの10年前までは唯の使い捨て程度の野良犬だった、一山幾らの半グレの方がネットやSNSに精通している分、実入りは潤沢だった。
 その半グレ集団も当初は使い捨ての定番だったが、その中でも頭角を現した者を組織の幹部として登用した結果、組織の在り方や組織の目指す方向は『国境の無い暴力団』化していく。
 残念なことに、絵に描いたような任侠極道は本当にフィクションの中でしか拝めない絶滅危惧種となっている。
 平木美妙32歳。
 初めての殺人――『童貞』を捨てた一件――で【まともな、人間らしい表情で泣き叫んで喚き散らした】という理由で、正式に上位組織に登用されて訓練と研修と実地を経て現在に至る。
 平木美妙の所属する部署は『名前の無い部署』。
 裏切り者を殺害するためだけに作られた部署。
 美妙の組織も嘗ては任侠極道の看板を背負ったヤクザだった。
 時代の流れに逆らえず、余所者にシマを荒らされ奪われ買わされて、雀の涙のようなシノギで組織を運営していた。
 追い打ちをかけるように人材の流出と能力の低下。
 そうなれば、綱紀粛正として都市伝説が必要とされた。都市伝説が生まれる土壌が揃っていた。
 末期の組織は民間企業でも軍隊でも、必ず督戦隊のごとく脱走者や内通者を始末する死神が命を奪いに来る……。
 美妙の部署は何処に有るのか、何人居るのか、司令系統や直属の上司などは全くの不明。組織内部では本当に都市伝説として囁かれ、尾鰭背鰭が付いた噂となって流布されていく。
 本当に殺し屋として実働する美妙たちよりも、実のところ、美妙たちの働きが針小棒大に肥大した噂として組織内部の影でコソコソと噂されるのが目的なのだから、美妙たちに出動の命令が下るのは割と少ない。
 日常茶飯事的に内通者や脱走者が続出していれば組織運営どころではない。もしもそんな事態ならば、組織のトップが他の組織に吸収や合併を申し出ている。
 そうであっても。
 そのような状況であっても。
 一定の成果を挙げている噂の発信源であったとしても、実際に獅子身中の虫は防げない。
 その虫を駆除するからこその美妙だ。
「……寒い」
 小さく独りごちる。
 夜10時。月明かりも星の明かりも分厚い叢雲が重なり合って何もかもを見せないでいようとする。そんな敵対的な表情すら見えてしまいそうな寒い季節。
 もうすぐ年末だ。
 ロメオyジュリエッタのシガリロを地面に吐き捨てて爪先で蹂躙する。
 ベージュのハーフコートに黒のデニム。
 昨今の疫病騒ぎの煽りで使い捨てマスクを付ける。
 個人的には防疫としてマスクは付けたくないが、マスクは顔を覆い隠すのに最適なので重宝している。……実のところ、マスクをしていると気軽にシガリロが吸えないし、吸った直後にマスクをすると自らの呼気で鼻が曲がりそうになる。
 面倒だ。
 ―――何もかもが面倒だねぇ……。
 美妙は爪先を向けて進める。真っ直ぐに廃工場へと向けて真正面から入る。
 港湾部埠頭付近に建築された鉄筋コンクリ造りの2階建て。
 元は小規模な紡績工場だった。今は放棄されて久しい。
 割れた窓ガラス。鉄錆の臭いが漂い、一歩歩くたびに足元で埃が舞うのが分かる。粉塵爆発を警戒するほどの埃ではないが、呼吸器や目に入ると厄介だ。
 暗い。視界が悪い。
 光源を提供しているのは廃工場の辺りに植え付けられた外灯だけ。
 人の気配が無い、大きな区画の片隅。住居としての区画ではないために元から『誰も住んでいない』事になっている。
 実際には浮浪者や社会から落伍して表の世界で住めなくなった人間が偶に塒にしている。
 美妙がここに来るまでに何人かの浮浪者の影を見たが、特に注意は払わなかった。連中は自分に危害が及ばなければ我関せずの生き方をしている。
 廃工場の開きっぱなしの正面の勝手口を通過して内部に踏み込んだが……。
「ああ……」
 思わず嘆息。
 気配が一つではない。
 頭上のキャットウォーク、廃材を積んだ陰、樹脂製パレットの山の裏……様々な場所でネズミが餌を伺うかのような気配を感じる。
 彼女は迷わず、右手を左懐へ滑り込ませて財布を取り出すよりは少し早い速度で『それ』を抜き出した。
 抜くなり、ろくに『その方向』も見ずに発砲。
 大音響。
 停止力が低いと言われる実包だったが、天井が住居内部より高い廃工場では耳を聾するほどに銃声が響き渡る。音の衝撃で罅の入った窓ガラスが乾いた音を立てて割れて落ちた。
 呻き声が尾を引く銃声の合間に聞こえる。
 38口径。一般的な38スペシャル弾。名前の割には停止力は大したことがない。
 その38口径の弾頭を美妙は弾いた。
 アストラカデックス384。
 6連発のリボルバー拳銃。
 彼女の右手の中で反動が暴れる。
 美妙の手より弾き出された弾頭は20m程離れた位置でキャットウォークから覗き込んでいた男の顔面を捕らえた。
 男は脛骨を直角に後部へ折り、大の字になってその場に倒れる。手から放り出された中型自動拳銃が虚しく乾いた床に擦れ、耳障りな金属音を立てる。
 それを先途に3方向から銃撃の洗礼を受ける。激しい銃声。
 銃声が連なる。口径も種類も違うのか、銃声に慣れた美妙には些か、不協和音としてしか耳に届かない。
 これだけの空間で複数の拳銃が一斉に火を吹いて遮蔽に移動しようともしない、たった1人の標的に命中させることができないのは、連中の練度が低いからではない。
 無情だが、それが現実だった。
 屋外の外灯からの光源しか期待できない明かり。
 その少ない明かりを背負って登場した人物……。これこそが、『無情な現実だった』。
 距離が測り難いのだ。
 背中に光源。足元に長く伸びる影。
 人間の認知能力は人物を捕らえていても、論理的に計算する左脳的目視の情報は一瞬、誤作動や間違い命令に似た反応を下し、銃を撃った連中は『尽く、人の影の足元』付近を狙って撃っていた。
 鉄火場で慣れていても、目から入る情報の誤差を瞬間的に修正するのは難しい。
 ましてや、登場したのが本当に風の噂でしか聞いたことがない『名前のない部署』からの殺し屋『かもしれない』のだ。
 この廃工場に逃げ込んだ標的に用が有るのはたったの2人。
 他は金で雇われた三下だろう。都合よく転がっていた半グレでもスカウトしたのかもしれない。
 銃声の隙間にびちゃびちゃと粘液質な液体の音が聞こえる。
 ゆらりと美妙は体を幽鬼のように左右に小さく振るとその小さな運動エネルギーを爆発させたかのように素早く走り出した。
 後光を背負ってのマジックが功を奏す時間が終わったのだ。
 素早く蛇行での前方への移動。
 唇を真一文字に引き締める。
 眼光は猛禽のごとくシャープな輝きを放ち、次の獲物を捉える。
 移動してからの距離、たった12m。遮蔽は伝っていない。
 移動してからの無造作とも思える発砲。
 空気が再び震える。
 連中の牽制射撃とは格が違う尊さすら纏った発砲音。
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