淑女ならざる者の脳科学
歩いていないのに歩いている。……夢遊病を経験している意識が有ると多分こん感じなのだろうか?
そして……。
「うわーっ!!」
美妙は叫んだ。恐慌に駆られたように、腹の奥底から何もかもを絞り出すように叫んだ。
錯乱。
人を殺した。
人を殺してしまった。
人を殺さねばならないことをしてしまった。
辺りの検分役達はお互いの顔を見てニヤニヤと笑っている。苦笑いを浮かべる者も居る。彼らは幾度となく人が『童貞』を捨てる瞬間に立ち会ってきたのだろう。そして、『童貞』を捨てたばかりの人間は大体の場合、何パターンかに分類されるのかも知っていたに違いない。
美妙はその何パターンか有る、『童貞』を捨てた瞬間の何れかに該当したらしい。
―――いつ見ても初々しいな。
―――コイツはこのタイプか。
―――はい。お疲れさん。
そんなニュアンスが含まれた笑いだった。彼らにとっては人の命が理不尽に消え去る機会など日常の一コマなのだ。
美妙は只管、叫ぶ。
此の世の恨み辛みや怨念、悲哀を込めた魂の絶叫を万力で押し出しているかのように涙声が交じる音叫で、喚く。
人を殺した罪に対して。
人を殺した自分の悪逆に対して。
自分の心が壊れないように心理的な防御反応として。
人を殺したのなら兎に角叫べと指示されていたように。
複雑な感情がマーブル模様のように渦巻く脳内が咄嗟に下した判断は兎に角、『大声で叫べ』だった。
何かが解決するわけでもない。
後戻りできない世界に踏み込まされた悔しさ。
どこで何が間違えていた? と、問う。
社会通念的に人道的に最大の禁忌の一つである殺人を犯した。
それも……遠慮したり怖がったり手加減したりと言った、外れ弾無しで初弾で最も残忍な殺し方の一つであろう、頭部を砕いた。
何よりも、何よりも、何よりも恐ろしかったのは、発砲の瞬間は『軽かった』のだ。
撃鉄を起こしていない引き金は引き金が非常に重いと噂では聞いていた。なのに……なのに、だ。
なのに、『心の中で何かが弾けた……何かがふと消えた時』を感じた瞬間に引いた引き金は非常に軽かった。
それが美妙の人間としての最後の尊厳の壁を簡単に打ち破ってしまった。
殺人は絶対にダメ。
この守るべき最後の一線は羽毛よりも軽かった。
鼻腔を擽る硝煙。
鼓膜の奥に銃声が耳鳴りのように木霊する。
掌から伝わった発砲時の反動は心臓に集められたように鼓動が激しい。
何かの歯車が狂った音を聞いた。
頭の中の何か。心の中の何か。メタ認知の何か。
声が掠れる程に叫んだ美妙は喉の奥から鉄錆臭い呼吸を感じた。
声を張り上げ過ぎて、喉の粘膜が傷ついたようだ。
口を絶叫の形に開けたまま、目を血走らせ、焦点が定まらない眼で死体を見て、舌骨周辺を震わせる。肩甲骨を中心にした筋骨は緊張のあまり、激しい痛みを訴えている。
彼女の口からは何も出ない。『もう、何も出ない程に彼女は音声を以て内奥の全てを吐き出した』。
美妙はいつの間にか、自分の手から凶行を下した38口径5連発の3インチ輪胴式拳銃がもぎ取られていたのに気がついた。
恰も、自分の両手首が切り落とされたかのように唇を震わせながら両方の掌を見る。右手側に立つ検分役の中年ーーこの男が殺害用の拳銃をこの場に手配したーーが左懐に静かに拳銃を仕舞い込んだ。
中年の男の鋭い眼光が美妙を『視る』。
「このガキ、俺が借りてもいいか?」
検分役の中年の男は無造作に言い放つ。辺りを見回す。辺りにも検分役が4人程立っていた。その更に後ろの方では死体を処理する専門業者の日産バネットが見える。
検分役の男が唐突な事を言いだしたので、夜陰に顔がはっきり見えない検分役たち――恐らく男たち――は10秒程、互いの顔を見合わせていたが、誰かが、小さく「好きにしろ」と呟くと、夜陰の奥に検分役達は引き下がっていき、やがて足音も体臭も気配もなくなった。
「美妙……だったか? お前は俺と来い。天晴れな『反応だった』。今ならもう少しまともに稼げる方法を教えてやる」
名前も知らぬ、顔もはっきりと知らぬ、組織の上層からこの場に派遣されてきたその男は美妙にそう言い放った。
美妙はまるで背中を押されたから一歩足が前に出た、という反応で、その男の顔を見て、震える唇は相変わらずのまま、小さく頷いた。
※ ※ ※
それが、平木美妙がこの業界に踏み込む最初のエピソードだった。
当時20歳。
現在32歳。
干支が一回りした。
現在の職業は分類的には『掃除屋』。所属する組織の殺し屋同然の汚れ稼業だが、殺し屋と明確に違うのは、組織に反旗を翻す行為全般に走る者を専門に片付ける『粛清専門の始末人』だ。
組織内部で珍重され、組織内部で誰からも嫌われる仕事だ。
組織に於いて、真に必要とされる人間の選抜は急を要する命題だった。
年々、人材の流出と損失で組織直系の団体や企業を用いてシノギを得るのが難しくなっている。一因は優秀な人材そのものの枯渇にあった。
上層が優秀でも下層が馬鹿ならば命令系統は寸断も同然。
下層が優秀でも上層の采配が鈍らであれば下層から人材は外部へと流出する。
上層に居座る構成員は、親からの世襲制で成り立っている任侠や極道とは違う。嘗てはそうであったが、暴対法の締め付けが厳しくなり、表向きの解散と関係者向けの再編を講じて延命を図っただけだ。
世襲制時代からの大家族的思考よりも一般企業を手本にした核家族的運営の方が効率が良い。
少なくともこの方法に期待を賭けるしかなかった。
この方法で命を永らえているうちに新しい風を取り入れて『何かしらの刷新』を待つ他なかった。
無常にも時間だけが過ぎただけに留まらず、嘗てのシノギの半数以上を国外の組織や仁義を重んじない新興組織に奪われてしまい、組織全体の弱体は歯止めが効かなかった。
今はまだ、過去の栄光と『顔、メンツ、そこそこの仁義』で虚勢を張っても効果は有るが、空っ風が一吹きすれば飛んで消えそうな薄っぺらい威光でしかない。
その場凌ぎの応急処置として生まれたのが……。
美妙が所属する『名前のない』部署。
恐怖政治を敷くことで一時的な延命を図ることを選んだ結果だ。
10年以上前から、国の内外の組織や組織の体を為していない半グレ集団や反体制主義者の手引で入国した外国人の反社会思想的持ち主の集団が複雑に結託し、旧来の組織を脅かしていた。
新興勢力や国外の勢力には仁義や任侠や仕来りやメンツは一切通用しない。
通用するのは金だけだ。
それも最近では物理主義的な札束や金塊よりも先物取引や暗号資産で取引する仮想マネーの方が力が強くなっている。
米俵一俵よりも買い物をした時に得られるポイントカードの方が価値が有る時代とも言える。
国が滅んでも、国を追い出されても、クラウドに刻まれたデータは消えない。
新しい世代には国も人種も関係ない。
スマートフォンを維持する能力さえ有れば、アカウントを取得することが可能ならば、世界中どこでも人権と主権を主張できる。
これでは、旧い思想の旧い極道では思考の次元が違いすぎて勝負にならない。
そして……。
「うわーっ!!」
美妙は叫んだ。恐慌に駆られたように、腹の奥底から何もかもを絞り出すように叫んだ。
錯乱。
人を殺した。
人を殺してしまった。
人を殺さねばならないことをしてしまった。
辺りの検分役達はお互いの顔を見てニヤニヤと笑っている。苦笑いを浮かべる者も居る。彼らは幾度となく人が『童貞』を捨てる瞬間に立ち会ってきたのだろう。そして、『童貞』を捨てたばかりの人間は大体の場合、何パターンかに分類されるのかも知っていたに違いない。
美妙はその何パターンか有る、『童貞』を捨てた瞬間の何れかに該当したらしい。
―――いつ見ても初々しいな。
―――コイツはこのタイプか。
―――はい。お疲れさん。
そんなニュアンスが含まれた笑いだった。彼らにとっては人の命が理不尽に消え去る機会など日常の一コマなのだ。
美妙は只管、叫ぶ。
此の世の恨み辛みや怨念、悲哀を込めた魂の絶叫を万力で押し出しているかのように涙声が交じる音叫で、喚く。
人を殺した罪に対して。
人を殺した自分の悪逆に対して。
自分の心が壊れないように心理的な防御反応として。
人を殺したのなら兎に角叫べと指示されていたように。
複雑な感情がマーブル模様のように渦巻く脳内が咄嗟に下した判断は兎に角、『大声で叫べ』だった。
何かが解決するわけでもない。
後戻りできない世界に踏み込まされた悔しさ。
どこで何が間違えていた? と、問う。
社会通念的に人道的に最大の禁忌の一つである殺人を犯した。
それも……遠慮したり怖がったり手加減したりと言った、外れ弾無しで初弾で最も残忍な殺し方の一つであろう、頭部を砕いた。
何よりも、何よりも、何よりも恐ろしかったのは、発砲の瞬間は『軽かった』のだ。
撃鉄を起こしていない引き金は引き金が非常に重いと噂では聞いていた。なのに……なのに、だ。
なのに、『心の中で何かが弾けた……何かがふと消えた時』を感じた瞬間に引いた引き金は非常に軽かった。
それが美妙の人間としての最後の尊厳の壁を簡単に打ち破ってしまった。
殺人は絶対にダメ。
この守るべき最後の一線は羽毛よりも軽かった。
鼻腔を擽る硝煙。
鼓膜の奥に銃声が耳鳴りのように木霊する。
掌から伝わった発砲時の反動は心臓に集められたように鼓動が激しい。
何かの歯車が狂った音を聞いた。
頭の中の何か。心の中の何か。メタ認知の何か。
声が掠れる程に叫んだ美妙は喉の奥から鉄錆臭い呼吸を感じた。
声を張り上げ過ぎて、喉の粘膜が傷ついたようだ。
口を絶叫の形に開けたまま、目を血走らせ、焦点が定まらない眼で死体を見て、舌骨周辺を震わせる。肩甲骨を中心にした筋骨は緊張のあまり、激しい痛みを訴えている。
彼女の口からは何も出ない。『もう、何も出ない程に彼女は音声を以て内奥の全てを吐き出した』。
美妙はいつの間にか、自分の手から凶行を下した38口径5連発の3インチ輪胴式拳銃がもぎ取られていたのに気がついた。
恰も、自分の両手首が切り落とされたかのように唇を震わせながら両方の掌を見る。右手側に立つ検分役の中年ーーこの男が殺害用の拳銃をこの場に手配したーーが左懐に静かに拳銃を仕舞い込んだ。
中年の男の鋭い眼光が美妙を『視る』。
「このガキ、俺が借りてもいいか?」
検分役の中年の男は無造作に言い放つ。辺りを見回す。辺りにも検分役が4人程立っていた。その更に後ろの方では死体を処理する専門業者の日産バネットが見える。
検分役の男が唐突な事を言いだしたので、夜陰に顔がはっきり見えない検分役たち――恐らく男たち――は10秒程、互いの顔を見合わせていたが、誰かが、小さく「好きにしろ」と呟くと、夜陰の奥に検分役達は引き下がっていき、やがて足音も体臭も気配もなくなった。
「美妙……だったか? お前は俺と来い。天晴れな『反応だった』。今ならもう少しまともに稼げる方法を教えてやる」
名前も知らぬ、顔もはっきりと知らぬ、組織の上層からこの場に派遣されてきたその男は美妙にそう言い放った。
美妙はまるで背中を押されたから一歩足が前に出た、という反応で、その男の顔を見て、震える唇は相変わらずのまま、小さく頷いた。
※ ※ ※
それが、平木美妙がこの業界に踏み込む最初のエピソードだった。
当時20歳。
現在32歳。
干支が一回りした。
現在の職業は分類的には『掃除屋』。所属する組織の殺し屋同然の汚れ稼業だが、殺し屋と明確に違うのは、組織に反旗を翻す行為全般に走る者を専門に片付ける『粛清専門の始末人』だ。
組織内部で珍重され、組織内部で誰からも嫌われる仕事だ。
組織に於いて、真に必要とされる人間の選抜は急を要する命題だった。
年々、人材の流出と損失で組織直系の団体や企業を用いてシノギを得るのが難しくなっている。一因は優秀な人材そのものの枯渇にあった。
上層が優秀でも下層が馬鹿ならば命令系統は寸断も同然。
下層が優秀でも上層の采配が鈍らであれば下層から人材は外部へと流出する。
上層に居座る構成員は、親からの世襲制で成り立っている任侠や極道とは違う。嘗てはそうであったが、暴対法の締め付けが厳しくなり、表向きの解散と関係者向けの再編を講じて延命を図っただけだ。
世襲制時代からの大家族的思考よりも一般企業を手本にした核家族的運営の方が効率が良い。
少なくともこの方法に期待を賭けるしかなかった。
この方法で命を永らえているうちに新しい風を取り入れて『何かしらの刷新』を待つ他なかった。
無常にも時間だけが過ぎただけに留まらず、嘗てのシノギの半数以上を国外の組織や仁義を重んじない新興組織に奪われてしまい、組織全体の弱体は歯止めが効かなかった。
今はまだ、過去の栄光と『顔、メンツ、そこそこの仁義』で虚勢を張っても効果は有るが、空っ風が一吹きすれば飛んで消えそうな薄っぺらい威光でしかない。
その場凌ぎの応急処置として生まれたのが……。
美妙が所属する『名前のない』部署。
恐怖政治を敷くことで一時的な延命を図ることを選んだ結果だ。
10年以上前から、国の内外の組織や組織の体を為していない半グレ集団や反体制主義者の手引で入国した外国人の反社会思想的持ち主の集団が複雑に結託し、旧来の組織を脅かしていた。
新興勢力や国外の勢力には仁義や任侠や仕来りやメンツは一切通用しない。
通用するのは金だけだ。
それも最近では物理主義的な札束や金塊よりも先物取引や暗号資産で取引する仮想マネーの方が力が強くなっている。
米俵一俵よりも買い物をした時に得られるポイントカードの方が価値が有る時代とも言える。
国が滅んでも、国を追い出されても、クラウドに刻まれたデータは消えない。
新しい世代には国も人種も関係ない。
スマートフォンを維持する能力さえ有れば、アカウントを取得することが可能ならば、世界中どこでも人権と主権を主張できる。
これでは、旧い思想の旧い極道では思考の次元が違いすぎて勝負にならない。
