淑女ならざる者の脳科学

 鉄錆臭い潮風が頬を叩く。
 目の前に……目の下に、逃げた受け子が居る。口をガムテープで塞がれて両手は後ろで結束バンドで縛られている。両足も足首と膝の位置で同じく結束バンドで縛られている。この縛り方では尺取り虫の方が早く逃げることができる。実際に彼も尺取り虫のような動きで腰を上下させてこの場からの遁走を目論んでいた。
 美妙の右手側に立つ、ゴリラの方がまだ愛想がいい顔をしていると思わせるような厳つい顔の中年の男が、彼女が乾いた喉に無理矢理唾液を流し込んだのを見てから無言のまま、無骨な鉄の塊を差し出す。
 拳銃。
 輪胴式。
 知識では知っている。リボルバー拳銃とも呼ばれるこの拳銃には安全装置はない。不発であっても続けて引き金を引けば薬室が弾数分の一だけ回転して次弾が撃発する。コンマ数秒を争う荒事の世界では今でも現役の『旧い拳銃』だ。
 それが目の前に差し出される。
 美妙は自身の不始末を自分で始末せねばならない。
 問題の受け子が組織の連中に捕らえられた時には既に数百万の現金は散財された後で、脅しとして担保していた両親や親類の個人情報をチラつかせても案の定、『冷えた家庭』だったのでなんの脅しにもならないばかりか、その家庭でも、そんな家族は既に死んだかのような扱いであった。
 脅しの材料として何も機能しない個人情報は紙切れに等しい。最初から所持していた携帯端末ですら『とばし』のSIMを差し込んだスマートフォンとタブレットだったので完全にクリーンな端末とは言い辛い。
 何もかもを捨てた人間が最後の思い出作りと言わんばかりに闇バイトに応募して、わざと受け子を担当し、目の前の厚さ数センチの札束を持って逃げたのだ。
 此の世を儚んで死ぬのにも多様化が反映されているとも言える。
 全ての世捨て人が慎ましやかに生きて人目を憚って誰にも看られずに消えていく風情は今の時代では希少種なのだろう。
 美妙は震える手で……寒さなのか緊張なのか分からない震えを感じる手でゆっくりとその銃を両手で受け取る。
 彼女は反社会的存在の記号として国内で有名な『実物の拳銃』を初めて見て初めて手に取り……そして恐らく、初めて発砲するのだろう。
 ズシリと重い。氷とは違う冷たさ。グリップの滑り止めの溝が掌に吸い付く。
 外灯の明るさを反射する銃身とフレーム。
 SとWが重なった刻印が見える。
 特殊詐欺――自分達は事務所と読んでいる――の拠点で時折やって来る上位組織の幹部が懐に差していた自動拳銃とは到底同一の使い方をする物体だとは思えない。
 美妙は自分がこれから何をさせられるのかを理解していた。
 秩序を守るために、マニュアルが完璧である証左を維持するためにその手本を見せるのだ。
 裏切り者の受け子の少年を殺害する。
 この組織で所属して役割を与えられているのなら、万が一の失敗が発生した場合の『処理を実行した』事実が必要だ。
 この事実はデータとして書類と同じく人の心に深く刻まれて、同じ轍を踏むまいと決意を新たに指せる効果がある。
 人間の心理を応用した効果的な講義だ。言葉の少ない講義。
 今、ここで、美妙が自分の不始末で逃がした裏切り者の受け子を殺害してこの件は片付いた。……と、オチが付けばこの案件はこの場に居る組織関係者が見届けて表面上はおしまいだ。
 だが、本当に人間の心理が働くのはこの先からである。
 【どこそこの誰かが、何かの件でしくじって、その挙げ句にけじめをつけさせられた。】
 その事実が噂話や飲み会のネタで流布されてまことしやかな伝説や巷説として組織内部で浸透して静かな抑止力として機能を発揮する。
 口で大きな声で伝えられる流布よりも陰でコソコソと囁かれる半信半疑の域を出ない与太話の方が人の心に強く残る。
 美妙も今まで散々聞いてきた半信半疑の噂話。その現実と成り立ちを知る当事者になると思うと緊張が沸騰して今にも嘔吐しそうだった。
 悪どい事には抵抗のない彼女だったが、殺人となるとそのハードルは無限の高さになる。今まで自分は『何も知らされていない側』の使い捨ての駒だったと思い知らされる。
 震える手。
 フレームのSWの刻印が印象的なリボルバー拳銃がダンベルのように重い。重力に抵抗するかのように重い。
 奥歯がカタカタと震える。
 ここで尺取り虫のような無様な逃げ方をしている受け子の少年を殺さなければ自分が殺される。
 組織の秩序を乱す使えない駒として殺される。
 様々な、色々な、多種多様な恐怖と困惑と緊張が去来する。今直ぐに気が触れてしまったほうが楽だ。
 尺取り虫のように逃げている割には1mも移動していない少年の元へ爪先を向けて地面にへばりついたような足で向かう。
 拳銃の使い方は知らない。
 だが……それを……輪胴式の38口径を手にした瞬間、理解した。
 安全装置がないことも。
 不発が起きにくいことも。
 警察官が使っているのと同じ拳銃だということも。
 目眩がする。目眩の最中に、目眩の隙に、目眩の間断に、手にしたS&Wが早く自らを用いて人の命を吹き消せよと囁く。人を象る何かが、誰かが、美妙の背後に立ち、美妙の耳朶を甘噛しながら囁く。
 殺したくない。
 こんなことはしたくない。
 これは自分がすることではない。
 様々な否定を脳裏に泡立てるが、水泡のように脆くも消える。
 確かに囁く。囁いた。囁いたのかもしれないが、そうとしか解釈できなかった。
 手にした……700g程の鉄の塊は人の命を吹き消せるという社会通念の薄い存在なのに、相反して、人の命でさえも吹き消してしまうという錘のような重量感を手首に伝える。
 羽のように軽い。
 岩のように重い。
 それが同居する存在。
 状況が、立場が、場所が違えばもっと違う感想を抱いていたに違いない。
 人を処刑するために自分は不本意なブツを握らされている。
 その一点に限る。
 たったその一点が全ての感覚をミキサーにかけてシェイクし、水分が飛ぶまで鍋で煮ている。
 ―――ああ。神様。
 血走った目で『ほんの数分間、拳銃を凝視していた』美妙の肩を、熱と質量を持つ大きな掌が叩く。
 この場の検分人であり、美妙の上司である中年の男の手だと分かった。
「…………」 
 すうっと、頭の天辺から、頸、肩、肩甲骨、胸鎖乳突筋、喉、上腕部……と脱力し、それに反するように両手が……S&W M36の3インチモデルを握った両手首がしっかりとそれを握り、銃口が見えない台に委託したかのように固定されて動かなくなった。
 一拍の後。
 銃声。
 非常に乾いた銃声が一発。
 たったそれだけ。
 目の前で尺取り虫の擬態をしていたような少年の頭部は弾け飛んだ。
 正確には、右側頭部から弾頭が射入し、頭頂部付近の頭蓋骨が破壊され、吹き飛ばされてその衝撃と頭蓋内部の圧力の急激な変化で粉砕された脳漿が床に落とした生卵のように飛び散った。
 少年は撃たれた瞬間に体を大きく痙攣させた。頭蓋を開放された後も2、3秒は爪先を痙攣させていた。
 眼窩から目玉が1cm程飛び出ている。
 銃口から2m先の出来事。
 美妙は歩いていないが、雲の上を歩いているかのような不思議な感覚に襲われていた。
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