淑女ならざる者の脳科学
左肩甲骨付近に38口径のジャケッテッドホローポイント弾を叩き込まれた『護り屋』の男はその衝撃で頭部が一瞬だけ左側へ叩き寄せられ、脳震盪を起こしながら、自らの敗因を理解し、意識が遠のく。その場に泥が詰まったズタ袋のように転がって動かなくなる。
地面に着地した美妙。左肩を浅く削られたが、焼け火箸を軽く充てられた程度の痛みしかない。浅く皮膚を削られただけだろう。その場で左肩や腕の屈伸を行うが可動範囲内では以上は無い。
―――さて、と……。
『護り屋』の動かない体を跨いで、更に奥へと進む。足元に視線を落とす。足跡が複数。前進するにつれて段々と足跡は少なくなり、最後には一人分。辻を左に曲がったところで突然の銃声。
発砲音からして32口径。発射の間隔からして自動拳銃。8発ほどの乱射の後に銃声は止む。
すっ、とその場で両足を肩幅に広げて腰を落とす。顎を引き、両脇を締めてアストラカデックス384を両手で握り、右目の直線に照門と照星を直列させる……その遥か向こう、40m程の位置で中型自動拳銃の弾倉を交換しようと慌てふためいている人物をしかと認めると、その人物――今回の任務の標的である準幹部――の胸部へと狙いを定めて、静かに撃鉄を起こし……呼吸を止めて1秒後に能面のような顔で引き金を引いた。
ただの38スペシャル弾だというのに、その殺害対象である準幹部の中年の胸部ではアザミのような派手な血飛沫が噴き出し、見えないハンマーで上半身を殴られたように大の字になって仰向けに倒れた。
準幹部の手から滑り落ちた、再装填を終えた自動拳銃が地面に激突して暴発し、断末魔のように銃弾を空に向かって放つ。
歩み寄り、口から鮮血を吹いて倒れている瀕死の中年男性の頭部に、更にもう一発、銃弾を叩き込む。
これで任務完了。後は撤収ポイントまで退けば完了だ。
普通ならば、だ。
「…………」
美妙、動かず。
動けず。
動いてはいけない。
先ほどまでの遠くで右往左往していた銃声の一団は沈黙している。
緩い朝風が潮の匂いを運んでくる。路地を通り抜けた風は埃臭く黴臭く……血生臭かった。
冬の早朝らしからぬ不快な空気。
振り向かなくとも分かる。
頭部と背中のセンサーが気配を感知する。人間を感知したと言うよりも、危険を感知したニュアンスが強い。
鼓膜が冬の空気で冷やされて針で突かれるように痛くなる。
鳩尾が急激に冷たくなる。背筋を中心に冷たい脂汗が湧き出る。心拍亢進。口喝。視野狭窄。……自律神経の全てが異常事態を警告している。
緊張、高まる。
神経、昂る。
足元の影が少し伸びる。空は明けた朝日。
冬独特の乾燥した風が潮の香りを含んで路地を泣きながら抜ける。
数秒。
いや、数十秒か。
立ち尽くしたままの美妙。
足元の標的の死体に視線は固定されているが、脳内に投影されているのは死体ではない。この路地一帯の見取り図だ。その地図の脇や隅や端に若者が埋没するオンラインゲームのように様々なデータが表示されている。
今朝の気温。今日の気圧の変動時間。風の向きとその変化と強さ。湿度の移り変わり。自分が打倒した人数。シリンダーの残弾。予備の弾薬。体感的評価の心身の負担。セルフメディカルチェック。
様々な表示が忙しなく変化する。何も変化しないのはシリンダーの残弾だけ。残弾3発。
長すぎる数十秒が経過した。
「よお。あんたが、平木美妙……だよな」
青年……少年と思える若々しい張りのある声。男。声の方向から自分の背後に居ると判断できた。それも10m程離れている。倒し損ねたベニヤ板で声の広がりが少し阻害されているが、両耳から拾った情報は殆ど間違いないだろう。
問題は、いつの間に、そこに立っていたかだ。
『護り屋』の掃討に夢中になっていたとはいえ、聴覚の端では常にずっと背後の区域で行われていた騒がしい、まとまりがない銃撃戦の銃声をモニタリングしていた。
その銃声がいつの間にか止み、興奮しきっていた彼女の感覚の範疇外へと忘却されていたのは取り返しようのない失念だった。
何もかも理解していた。理解したのかもしれない。理解させられたのかもしれない。
右往左往していた、まとまりのない銃撃戦の一方向は間違いなく……その青年だ。その青年ーー声からして青年と思しき人物ーーが『護り屋』の援軍を片付けたのだ。……たった一人で。
そして、何より、大きなヒントとなったのは、美妙が『平木美妙』であると特定して、尚且つ、何処の誰かも分かっていながら、背後から奇襲を掛けられる貴重なイニシアティブを話しかけることで消費しても、何も恐れを感じていないことだ。美妙が彼を殺害するつもりなら迷わず38口径を叩き込んでいる。
「……」
―――後ろを取られた!
―――残弾3発。
―――リロードの時間……はくれないだろうなぁ。
しばしの沈黙。二人共。
死体から溢れる鉄錆の匂い。気が付けば射入孔から迸った血液の一端が美妙の右足の運動靴に触れている。
「なあ、平木。こっち向けよぉ。『お前ら』の中から探すのは本当に大変だったんだからなー」
気の抜けるような飄々とした口調。【坂口土建】で聞いた声と同じ。同一人物。
殺意はない。敵意もない。悪意もない。それが不気味だった。何の感情も感じない……否、感じ取ることができる感情のようなものがあるとすれば、あの青年は美妙と対峙したがっている。
もっと平たく言うと、美妙と何かしらの理由で勝負を所望している。
それも背後からの奇襲による我々の業界では当たり前の真っ当な勝利ではなく、任侠極道でさえ忘れ去ったような真正面からの一騎打ちを望んでいる。
美妙はアストラリボルバーをだらりと右手に提げて、肩の力を抜いてその声の方向に顔を向けた。
彼女の視線と銃口が一致していない。
『相手がプロならば、視線と銃口の向きが一致していない』のを見れば彼女の心の中をある程度推し計ることは可能なはずだ。
そこに居たのは、青年と言うには若い風貌の人物。少年、高校生だと言い張っても十分に通用する程の幼い顔だった。
精悍な顔立ちとは対極の、見る者を無警戒にさせるような笑顔が似合うタイプの……ちょっとやんちゃな子供がそこに居たのだから美妙は表情こそ変えなかったが、内心で驚いていた。
ダークブラウンの革のジャンパー。白いトレーナー。わざと施したであろう、ケミカルウォッシュのジーンズパンツ。ナイキの青い運動靴。
髪は前髪の一房だけ、真っ白に脱色している。
生きている場所や環境や境遇が許すのなら、女性に貢がせるよりも女性が貢ぎたくなる容貌。
彼の名は美妙は知らない。これだけの、あれだけの、あのような手腕を持っている遣い手がこの街に居るとは思えなかった。
どこかの組織の犬ではない。
脳内の電子メモパッドに書き連ねた情報が更新されていく。
この人物が『正体不明の敵』だ。
その顔を、眼を、口元を視れば分かる。
純粋に……ただただ、純粋に平木美妙を求めている。
ちら、と彼のジーンズパンツの腹の辺りを見る。前開きの革のジャンパーの左手側からリボルバー拳銃と思しき物のグリップエンドが覗いている。次に彼の右掌に視線を移す。親指の腹が右側へ大きく競り出ている。人差し指にも似たような部分的肥大が見られる。
地面に着地した美妙。左肩を浅く削られたが、焼け火箸を軽く充てられた程度の痛みしかない。浅く皮膚を削られただけだろう。その場で左肩や腕の屈伸を行うが可動範囲内では以上は無い。
―――さて、と……。
『護り屋』の動かない体を跨いで、更に奥へと進む。足元に視線を落とす。足跡が複数。前進するにつれて段々と足跡は少なくなり、最後には一人分。辻を左に曲がったところで突然の銃声。
発砲音からして32口径。発射の間隔からして自動拳銃。8発ほどの乱射の後に銃声は止む。
すっ、とその場で両足を肩幅に広げて腰を落とす。顎を引き、両脇を締めてアストラカデックス384を両手で握り、右目の直線に照門と照星を直列させる……その遥か向こう、40m程の位置で中型自動拳銃の弾倉を交換しようと慌てふためいている人物をしかと認めると、その人物――今回の任務の標的である準幹部――の胸部へと狙いを定めて、静かに撃鉄を起こし……呼吸を止めて1秒後に能面のような顔で引き金を引いた。
ただの38スペシャル弾だというのに、その殺害対象である準幹部の中年の胸部ではアザミのような派手な血飛沫が噴き出し、見えないハンマーで上半身を殴られたように大の字になって仰向けに倒れた。
準幹部の手から滑り落ちた、再装填を終えた自動拳銃が地面に激突して暴発し、断末魔のように銃弾を空に向かって放つ。
歩み寄り、口から鮮血を吹いて倒れている瀕死の中年男性の頭部に、更にもう一発、銃弾を叩き込む。
これで任務完了。後は撤収ポイントまで退けば完了だ。
普通ならば、だ。
「…………」
美妙、動かず。
動けず。
動いてはいけない。
先ほどまでの遠くで右往左往していた銃声の一団は沈黙している。
緩い朝風が潮の匂いを運んでくる。路地を通り抜けた風は埃臭く黴臭く……血生臭かった。
冬の早朝らしからぬ不快な空気。
振り向かなくとも分かる。
頭部と背中のセンサーが気配を感知する。人間を感知したと言うよりも、危険を感知したニュアンスが強い。
鼓膜が冬の空気で冷やされて針で突かれるように痛くなる。
鳩尾が急激に冷たくなる。背筋を中心に冷たい脂汗が湧き出る。心拍亢進。口喝。視野狭窄。……自律神経の全てが異常事態を警告している。
緊張、高まる。
神経、昂る。
足元の影が少し伸びる。空は明けた朝日。
冬独特の乾燥した風が潮の香りを含んで路地を泣きながら抜ける。
数秒。
いや、数十秒か。
立ち尽くしたままの美妙。
足元の標的の死体に視線は固定されているが、脳内に投影されているのは死体ではない。この路地一帯の見取り図だ。その地図の脇や隅や端に若者が埋没するオンラインゲームのように様々なデータが表示されている。
今朝の気温。今日の気圧の変動時間。風の向きとその変化と強さ。湿度の移り変わり。自分が打倒した人数。シリンダーの残弾。予備の弾薬。体感的評価の心身の負担。セルフメディカルチェック。
様々な表示が忙しなく変化する。何も変化しないのはシリンダーの残弾だけ。残弾3発。
長すぎる数十秒が経過した。
「よお。あんたが、平木美妙……だよな」
青年……少年と思える若々しい張りのある声。男。声の方向から自分の背後に居ると判断できた。それも10m程離れている。倒し損ねたベニヤ板で声の広がりが少し阻害されているが、両耳から拾った情報は殆ど間違いないだろう。
問題は、いつの間に、そこに立っていたかだ。
『護り屋』の掃討に夢中になっていたとはいえ、聴覚の端では常にずっと背後の区域で行われていた騒がしい、まとまりがない銃撃戦の銃声をモニタリングしていた。
その銃声がいつの間にか止み、興奮しきっていた彼女の感覚の範疇外へと忘却されていたのは取り返しようのない失念だった。
何もかも理解していた。理解したのかもしれない。理解させられたのかもしれない。
右往左往していた、まとまりのない銃撃戦の一方向は間違いなく……その青年だ。その青年ーー声からして青年と思しき人物ーーが『護り屋』の援軍を片付けたのだ。……たった一人で。
そして、何より、大きなヒントとなったのは、美妙が『平木美妙』であると特定して、尚且つ、何処の誰かも分かっていながら、背後から奇襲を掛けられる貴重なイニシアティブを話しかけることで消費しても、何も恐れを感じていないことだ。美妙が彼を殺害するつもりなら迷わず38口径を叩き込んでいる。
「……」
―――後ろを取られた!
―――残弾3発。
―――リロードの時間……はくれないだろうなぁ。
しばしの沈黙。二人共。
死体から溢れる鉄錆の匂い。気が付けば射入孔から迸った血液の一端が美妙の右足の運動靴に触れている。
「なあ、平木。こっち向けよぉ。『お前ら』の中から探すのは本当に大変だったんだからなー」
気の抜けるような飄々とした口調。【坂口土建】で聞いた声と同じ。同一人物。
殺意はない。敵意もない。悪意もない。それが不気味だった。何の感情も感じない……否、感じ取ることができる感情のようなものがあるとすれば、あの青年は美妙と対峙したがっている。
もっと平たく言うと、美妙と何かしらの理由で勝負を所望している。
それも背後からの奇襲による我々の業界では当たり前の真っ当な勝利ではなく、任侠極道でさえ忘れ去ったような真正面からの一騎打ちを望んでいる。
美妙はアストラリボルバーをだらりと右手に提げて、肩の力を抜いてその声の方向に顔を向けた。
彼女の視線と銃口が一致していない。
『相手がプロならば、視線と銃口の向きが一致していない』のを見れば彼女の心の中をある程度推し計ることは可能なはずだ。
そこに居たのは、青年と言うには若い風貌の人物。少年、高校生だと言い張っても十分に通用する程の幼い顔だった。
精悍な顔立ちとは対極の、見る者を無警戒にさせるような笑顔が似合うタイプの……ちょっとやんちゃな子供がそこに居たのだから美妙は表情こそ変えなかったが、内心で驚いていた。
ダークブラウンの革のジャンパー。白いトレーナー。わざと施したであろう、ケミカルウォッシュのジーンズパンツ。ナイキの青い運動靴。
髪は前髪の一房だけ、真っ白に脱色している。
生きている場所や環境や境遇が許すのなら、女性に貢がせるよりも女性が貢ぎたくなる容貌。
彼の名は美妙は知らない。これだけの、あれだけの、あのような手腕を持っている遣い手がこの街に居るとは思えなかった。
どこかの組織の犬ではない。
脳内の電子メモパッドに書き連ねた情報が更新されていく。
この人物が『正体不明の敵』だ。
その顔を、眼を、口元を視れば分かる。
純粋に……ただただ、純粋に平木美妙を求めている。
ちら、と彼のジーンズパンツの腹の辺りを見る。前開きの革のジャンパーの左手側からリボルバー拳銃と思しき物のグリップエンドが覗いている。次に彼の右掌に視線を移す。親指の腹が右側へ大きく競り出ている。人差し指にも似たような部分的肥大が見られる。
