淑女ならざる者の脳科学
「?」
―――援軍到着?
神経の昂りで研ぎ澄まされた聴覚が雑音を拾う。複数の足音。数台の車の停車。路地に侵入する足音。何事か喚く声。……声の内容は分からないが、ハンドシグナルや無線を使わない辺りから察するに、姿を隠すつもりの無い職種が到着して接近しつつあると視た。
この場合の援軍とは勿論、『護り屋』が独自に手配した仲間だろう。護る対象がどんなに小者でも守り通せなければ信用に瑕がつく。何としてでも殺害対象を守るために援軍を要請したのだろう。
これは偏に、『護り屋』が追跡してくる暗殺者が『一人しか居ない』と断定していない証左だ。『護り屋』は、敵は複数人いるに違いないと想定している。主力として女の暗殺者を前面に押し出して、別動隊が迂回して近づいている事も想定している。
その読みは外れているが、マニュアル通りでテンプレート通りだ。彼らに何の落ち度もない。誰だってそのように想定する。伏兵ほど恐ろしい存在は無い。
故に、美妙も援軍と思しき一団が到着しても何も慌てなかった。時間が経過するにつれてこうなるのは必定。
殺害対象の準幹部を仕留められる位置に到達して引き金を引く。……今はそれだけを考える。
颯爽と重傷を負った『護り屋』を飛び越える。その人物は自分の体を跨いで飛び越す女の脚を掴む余力すら無く、芋虫のように小さくのたうっていた。
「!」
―――え?!
―――なに?!
―――なんなの?!
銃声が……銃声の一団が遠くで、右へ左へと移動する。走り回るネズミを見かけた猫の大群が追いかける様子を連想させる。
気が散る。意識を不審な動きをする銃声の一団に持っていかれる。
自分を追っていない。では何なのだ? 陽動? 攪乱? 威嚇? そのどれでもない異質な発砲音。
ひょう、と冷たい風が吹いた。
混乱気味の美妙の頬を冷たい風が一撫でする。
突然の冷たい風に身震いしてはた、と目が真正面に振り向く。
今はそんな事より第一目標を追う時だ。
空が白い。
夜明けだ。
この季節のこの地方は、夜明け前直前の、数瞬だけ気圧が変動する時に発生する海風と陸の風の衝突で一薙ぎだけ極端に冷えた空気が発生し、陸側に押し広げられるので冷たい風が吹く時間帯がある。……その目が覚めるような冷風に助けられて美妙はノイズを一時的に払うことができた。
ノイズを忘れたのではない。今は保留として、最優先の任務を達成するための職人の心意気を思い出したのだ。
アストラリボルバーを握る右手に左手を添える。正しい拳銃の保持の仕方ではあるが、その仕草は恰も、冷える指先を温めあうような優しい握り方だった。……肩から余計な力が抜けた。彼女に吹き付けた冬の朝風はアドレナリンや様々な脳内麻薬で沸騰する彼女をクールダウンさせた。
鼓膜の奥に小さな耳鳴りを感じる。
四方八方へと散っていた神経が初めて調律されて元の場所で仕事をしているかのような感覚を抱く。
走り続ける。脳内投影したこの廃棄区画の地図の半分は役に立たない。更地が決定した廃棄区画ゆえに頻繁な更新が行われておらず、浮浪者が勝手に棲みついて違法な増改築を繰り返すので無い壁が有ったり、有る道が無かったりと、さながら迷路のようだった。
それでも彼女が迷わず駆ける事が出来た理由は、匂いと気配とトラップの精度だった。
精緻に拵えられたトラップが多い方向程、新しい足跡が多い。空が白んできて更に確認しやすくなった。
呼吸は乱れないが体がニコチンを欲しがる。そのうち、ニコチン欠乏で喉も渇くだろう。
やや遠くで銃声の一団は相変わらず右往左往。心なしか、銃声の数は減っているような気がする。全く以て騒がしい朝だ。
目前のベニヤ板の枚数が増える。ベニヤ板の設置個所や板の面積も不揃い。
この道の直線上は港湾部へと続く道とは反対だ。
アストラカデックス384を握りながら、彼女は心の中で微笑を浮かべる。標的は近い。
今頃になって手が込んだ遮蔽物ーーベニヤ板ーーを立てかけた場所へ『誘導させる』と言うことは決戦は近いと言うことだ。
迷路のような路地も手榴弾のトラップも功を奏さなかった場合の最後の障害は『足止めや時間稼ぎ』だと相場は決まっている。目の前に人が隠れられる大きさのベニヤ板が何枚もあれば、普通なら警戒して膠着するか迂回するかのどちらかだ。
遮蔽はイコール防弾ではない。そこに人が隠れているかもしれないと言う疑いを持たせるのが存在理由の一つだ。誰も死にたくないし怪我をしたくない。だから人が潜める大きさの板切れ一枚でも目の前に有れば警戒する。
普通なら警戒する。
それもブラフだと見切った美妙は道を塞ぐことなく、不自然に立てかけられたベニヤ板を左右にかわしながら路地を走り続ける。
この方向は……今美妙が走っている方向は港湾部の海側から見て反対側の陸側、国道に通じる方面だ。
いつでも国外逃亡ができるランチが接舷できるように海側で待機していると見せかけてその反対側で潜伏。悪くはない待ち方。
追跡者の裏を掻き易く、追跡者に何通りもの行動パターンを『勝手に読ませて勝手に自爆させられる』方法だ。
追跡者としては追跡不能と同じくらいに、追跡困難が恐ろしい。それも情報が多過ぎて多岐亡羊としているうちに逃げられるパターンが恐ろしい。
『名前のない部署』でも標的に逃げ果せられた場合は大体、追跡者が情報の渦に飲み込まれて熟慮しているうちに逃げられることが多い。
逃げ果せられた情報は一時の恥。しかし、『このようにして逃げられた』という経験を積んだ人間がその経験を部署内で共有したからこそ、『護り屋』たちが秘伝の巻物の如く金科玉条としている彼らの黄金パターンを見破る素材となる。
生きて帰ることはそれだけで尊い。失敗は次回に挽回すればいい。
今時、損じたから死刑と言う恐怖政治は時代遅れだ。
ただ、内通者や不穏分子に対しては酷くて厳しいのが組織だ。
脳内を整理。このまま進めばやがて標的と対峙する。その前に残存する『護り屋』1人と決着を付けねばならない。さらに、少し後方で轟く銃声の一団の正体を確認しておく必要がある。
『護り屋』の援軍には違いないだろうが、何を追って……誰に追われて右往左往しているのか判然としない。
そろそろ完全に夜が明ける。太陽が登り始める。
辺りが日光の下に晒される前にカタをつけたい。
怜悧に冴える美妙の頭脳。脳内の伝達物質が様々な化学変化を起こしているのだ。ノルアドレナリンとアドレナリンを活性させていた偏桃体がやや鎮静。
瞳の奥の縫尾核が太陽光の欠片を浴びて、セロトニンが分泌され始めたらしい。激しい運動をしながらなので倍速でセロトニンが分泌しているのか。
ネガティブ思考を叩き潰す幾つものメソッドを思い付く。
息が上がる。喉がカラカラだ。
左手を尻ポケットに突っ込んで8オンスのスキットルを取り出し、中身の常温の水を一口飲む。
呷るようにガブガブ飲まない。唇と喉を湿らせるだけでいい。それだけでしばしの休憩をしたのと同じ錯覚がする。万が一、負傷した場合に備えて鎮痛剤や抗生物質を持ち歩いている。スキットルの水はそれを嚥下しやすくする為の装備だ。
銃声。大きい。近い。
銃弾、ブルゾンを掠る。美妙、咄嗟に遮蔽のベニヤ板の一枚に飛び込む。
―――援軍到着?
神経の昂りで研ぎ澄まされた聴覚が雑音を拾う。複数の足音。数台の車の停車。路地に侵入する足音。何事か喚く声。……声の内容は分からないが、ハンドシグナルや無線を使わない辺りから察するに、姿を隠すつもりの無い職種が到着して接近しつつあると視た。
この場合の援軍とは勿論、『護り屋』が独自に手配した仲間だろう。護る対象がどんなに小者でも守り通せなければ信用に瑕がつく。何としてでも殺害対象を守るために援軍を要請したのだろう。
これは偏に、『護り屋』が追跡してくる暗殺者が『一人しか居ない』と断定していない証左だ。『護り屋』は、敵は複数人いるに違いないと想定している。主力として女の暗殺者を前面に押し出して、別動隊が迂回して近づいている事も想定している。
その読みは外れているが、マニュアル通りでテンプレート通りだ。彼らに何の落ち度もない。誰だってそのように想定する。伏兵ほど恐ろしい存在は無い。
故に、美妙も援軍と思しき一団が到着しても何も慌てなかった。時間が経過するにつれてこうなるのは必定。
殺害対象の準幹部を仕留められる位置に到達して引き金を引く。……今はそれだけを考える。
颯爽と重傷を負った『護り屋』を飛び越える。その人物は自分の体を跨いで飛び越す女の脚を掴む余力すら無く、芋虫のように小さくのたうっていた。
「!」
―――え?!
―――なに?!
―――なんなの?!
銃声が……銃声の一団が遠くで、右へ左へと移動する。走り回るネズミを見かけた猫の大群が追いかける様子を連想させる。
気が散る。意識を不審な動きをする銃声の一団に持っていかれる。
自分を追っていない。では何なのだ? 陽動? 攪乱? 威嚇? そのどれでもない異質な発砲音。
ひょう、と冷たい風が吹いた。
混乱気味の美妙の頬を冷たい風が一撫でする。
突然の冷たい風に身震いしてはた、と目が真正面に振り向く。
今はそんな事より第一目標を追う時だ。
空が白い。
夜明けだ。
この季節のこの地方は、夜明け前直前の、数瞬だけ気圧が変動する時に発生する海風と陸の風の衝突で一薙ぎだけ極端に冷えた空気が発生し、陸側に押し広げられるので冷たい風が吹く時間帯がある。……その目が覚めるような冷風に助けられて美妙はノイズを一時的に払うことができた。
ノイズを忘れたのではない。今は保留として、最優先の任務を達成するための職人の心意気を思い出したのだ。
アストラリボルバーを握る右手に左手を添える。正しい拳銃の保持の仕方ではあるが、その仕草は恰も、冷える指先を温めあうような優しい握り方だった。……肩から余計な力が抜けた。彼女に吹き付けた冬の朝風はアドレナリンや様々な脳内麻薬で沸騰する彼女をクールダウンさせた。
鼓膜の奥に小さな耳鳴りを感じる。
四方八方へと散っていた神経が初めて調律されて元の場所で仕事をしているかのような感覚を抱く。
走り続ける。脳内投影したこの廃棄区画の地図の半分は役に立たない。更地が決定した廃棄区画ゆえに頻繁な更新が行われておらず、浮浪者が勝手に棲みついて違法な増改築を繰り返すので無い壁が有ったり、有る道が無かったりと、さながら迷路のようだった。
それでも彼女が迷わず駆ける事が出来た理由は、匂いと気配とトラップの精度だった。
精緻に拵えられたトラップが多い方向程、新しい足跡が多い。空が白んできて更に確認しやすくなった。
呼吸は乱れないが体がニコチンを欲しがる。そのうち、ニコチン欠乏で喉も渇くだろう。
やや遠くで銃声の一団は相変わらず右往左往。心なしか、銃声の数は減っているような気がする。全く以て騒がしい朝だ。
目前のベニヤ板の枚数が増える。ベニヤ板の設置個所や板の面積も不揃い。
この道の直線上は港湾部へと続く道とは反対だ。
アストラカデックス384を握りながら、彼女は心の中で微笑を浮かべる。標的は近い。
今頃になって手が込んだ遮蔽物ーーベニヤ板ーーを立てかけた場所へ『誘導させる』と言うことは決戦は近いと言うことだ。
迷路のような路地も手榴弾のトラップも功を奏さなかった場合の最後の障害は『足止めや時間稼ぎ』だと相場は決まっている。目の前に人が隠れられる大きさのベニヤ板が何枚もあれば、普通なら警戒して膠着するか迂回するかのどちらかだ。
遮蔽はイコール防弾ではない。そこに人が隠れているかもしれないと言う疑いを持たせるのが存在理由の一つだ。誰も死にたくないし怪我をしたくない。だから人が潜める大きさの板切れ一枚でも目の前に有れば警戒する。
普通なら警戒する。
それもブラフだと見切った美妙は道を塞ぐことなく、不自然に立てかけられたベニヤ板を左右にかわしながら路地を走り続ける。
この方向は……今美妙が走っている方向は港湾部の海側から見て反対側の陸側、国道に通じる方面だ。
いつでも国外逃亡ができるランチが接舷できるように海側で待機していると見せかけてその反対側で潜伏。悪くはない待ち方。
追跡者の裏を掻き易く、追跡者に何通りもの行動パターンを『勝手に読ませて勝手に自爆させられる』方法だ。
追跡者としては追跡不能と同じくらいに、追跡困難が恐ろしい。それも情報が多過ぎて多岐亡羊としているうちに逃げられるパターンが恐ろしい。
『名前のない部署』でも標的に逃げ果せられた場合は大体、追跡者が情報の渦に飲み込まれて熟慮しているうちに逃げられることが多い。
逃げ果せられた情報は一時の恥。しかし、『このようにして逃げられた』という経験を積んだ人間がその経験を部署内で共有したからこそ、『護り屋』たちが秘伝の巻物の如く金科玉条としている彼らの黄金パターンを見破る素材となる。
生きて帰ることはそれだけで尊い。失敗は次回に挽回すればいい。
今時、損じたから死刑と言う恐怖政治は時代遅れだ。
ただ、内通者や不穏分子に対しては酷くて厳しいのが組織だ。
脳内を整理。このまま進めばやがて標的と対峙する。その前に残存する『護り屋』1人と決着を付けねばならない。さらに、少し後方で轟く銃声の一団の正体を確認しておく必要がある。
『護り屋』の援軍には違いないだろうが、何を追って……誰に追われて右往左往しているのか判然としない。
そろそろ完全に夜が明ける。太陽が登り始める。
辺りが日光の下に晒される前にカタをつけたい。
怜悧に冴える美妙の頭脳。脳内の伝達物質が様々な化学変化を起こしているのだ。ノルアドレナリンとアドレナリンを活性させていた偏桃体がやや鎮静。
瞳の奥の縫尾核が太陽光の欠片を浴びて、セロトニンが分泌され始めたらしい。激しい運動をしながらなので倍速でセロトニンが分泌しているのか。
ネガティブ思考を叩き潰す幾つものメソッドを思い付く。
息が上がる。喉がカラカラだ。
左手を尻ポケットに突っ込んで8オンスのスキットルを取り出し、中身の常温の水を一口飲む。
呷るようにガブガブ飲まない。唇と喉を湿らせるだけでいい。それだけでしばしの休憩をしたのと同じ錯覚がする。万が一、負傷した場合に備えて鎮痛剤や抗生物質を持ち歩いている。スキットルの水はそれを嚥下しやすくする為の装備だ。
銃声。大きい。近い。
銃弾、ブルゾンを掠る。美妙、咄嗟に遮蔽のベニヤ板の一枚に飛び込む。
