淑女ならざる者の脳科学

 このように一定以上の力のある勢力や組織はお互いの縄張りをシェアやレンタルや『限定的庇護外』にすることで親睦を深めていた。昔風に言うと借りや貸しを口頭ではなく書類でトレードしているのである。
 午前4時。
 睡眠不足による脳内ホルモンの不活性を感じながらも現場に赴く。倦怠感や眠気が付きまとう。連日の睡眠薬の使用で体に常習性が形成されたのか?
 そして……それと矛盾するように全身がはしゃぎ回るように喜んでいる。明らかなメンタル疾患の手前の状態。
 現場に赴いた時、感じていた不調はどんどんエンドルフィンとドーパミンで押し流されてしまい、倦怠感や睡魔が薄くなっていく。今の自分ならどんな環境でもどんな任務でも達成できそうな誇大性さえ抱き始める。
 疲労の蓄積が招く不良なハイテンション。
 自身の精神の健康とは関係無く、全身がバネのように跳ねる。大きくしなやかに。
 脚も羽のように軽い。駆けだせば何処までも走れるような錯覚がする。
 勘も冴えている。美妙が爪先に急ブレーキをかければ必ずその先には細いワイヤーが張られており、手榴弾を用いた簡易トラップに連動していた。
 港湾部の廃棄区画は300メートル平米程の広さだ。
 その中に、廃屋と小規模な廃工場が混ざって立ち並んでいる。嘗ては家内制手工業の紡績工業地帯として反映した一角だったが、今では紡績の時代は終わり、とっくの昔に廃棄され、都市計画の一部として近々更地になる予定の区画だ。
 ここなら好きなだけ発砲しても通報する人間は居ない。
 標的は1人。2人の『護り屋』――裏の世界でボディガードやガードマンを生業にする職業――を雇って、港湾部から埠頭へ逃げ出し、国外へ逃げる手筈が整ったランチとランデブーの予定だったが、連中からすれば予定外にも……想定よりも早く追手である『名前のない部署』の『社員』が放たれて追いつかれた。
 『護り屋』も流石に専門職なだけあって、細い路地程ランダムな間隔でトラップを貼り、広い空間や開けた場所ほど、ダミーの狙撃銃とそれを構える狙撃手の『案山子』を配置させて、追手が威勢良く前進するのを食い止めている。
 ボディガードは基本的に敵と戦ってはいけない。
 戦っていると依頼人を守れないからだ。
 従って、ボディガードが積極的に反撃に出る時は何かの罠が発動中だと思った方が賢明だ。
 午前4時の黴臭く仄かに潮の香りを帯びた空気を肺一杯に吸い込みながら走る。時折銃声。『護り屋』が追跡者を攪乱させるために移動しながら空に向かって発砲しているのだ。素人ならそれで十分に欺けるだろうが、『護り屋』のマニュアルやテンプレート的対応は全て記憶している。
 勿論、『護り屋』も相手の技量を測るために発砲しているのだろう。
 鳩尾辺りが急激に縮こまるような痛みを覚える。喉がカラカラに乾き、シガリロを欲する。
 久しい感じ。
 この感じは久しい。
 脳内麻薬に中てられて自身が高揚しているのが分かる。世界の全てが自分の味方になったような、それでいて世界の全てが敵になったかのような、倒錯した世界観。
 久しぶりに全力で鉄火場を走り回っているので完全に『その場の空気を吞んでしまった』状態だ。
 コンバースの運動靴が砂や埃を蹴りあげながら彼女を運ぶ。
 右手を小豆色の作業着の左脇に差し込んで、脇差でも抜くかのように静かに相棒を抜く。
 アストラカデックス384。
 夜明け前の薄白みの下でスチールの肌が出番を焦がれて鈍く輝いていた。
「!」
 右足首の神経が脳天に違和感を速達で送信。
 右足首が迂闊にもワイヤーを蹴ったらしい。トラップ発動か?!
 肺も、心の中でも衝撃に備えて両手を交差させて顔面を守りながら、体勢を棒高跳びの選手のように、全速力の惰性を利用して前方に頭から飛び出し体を水平に保ちながら仰向けになる。
 そうして襲い来るであろう爆風に備える。体は路面に背中から落下して1m程前方へ滑る。
「……」
 2秒。3秒。4秒。5秒……10秒。
 即応性のトラップだと思って警戒していたが爆風は発生せず。
 遅延性のトラップだと疑ってそのままの姿勢――手榴弾に表面積の少ない爪先を向け、頭部をできるだけ遠ざける。手榴弾の制圧半径内でも寝転がった状態であれば生存率は高い――で待つ。
 待つが、爆発はせず。10秒も待ったが、あのタイプの手榴弾は10秒もしないうちに爆発する。
 どうやらダミーの手榴弾に弄ばれていたようだ。否、本当に本物の手榴弾も何割か含まれているのだろう。『目の前のそれが本物か否かを判定する』という大きなロスこそが連中の時間稼ぎの方法だ。
 マニュアルやテンプレートを知っていても、マニュアルやテンプレートが漏洩していても、その技法で忠実に任務を全うする。実に職人気質な『護り屋』だ。
 直ぐ様立ち上がると、アストラリボルバーを両手で構え直し、頭を低くして、歩幅を広げ過ぎずに走る。
 今度はあんな間抜けなダミーに引っかからない。今度は恐らく本物の手榴弾で仕留められるだろう。
 自分の脳や心を支配し始めていた誇大性や万能感が空気が抜けた風船のように萎んでいく。
 気を引き締めたのだ。気分の高揚は心がけで何とかなるものではないと、最近の研究のテーマではあるが、心理学者でも探求者でもない美妙には理屈やエビデンスは関係無い。自分を律する心だけで生きてきた。不器用なりに生きてきた。その結果、運よく『手榴弾のダミーに対してでも咄嗟に適切な対処が出来た』。
 再び駆けだす。
 ダミーの手榴弾で被ったロスを埋めるように自分で自分を追い立てる。
 幾つもの角を曲がる。幾つもの辻を折れる。放置された室外機を飛び越え、転がる一斗缶を飛び越え、犬の死骸も飛び越える。
 何か所かのトラップを速やかにやりすごす。
「!」
 ―――追い付いた!
 美妙の顔に凄惨な笑顔が張り付く。『護り屋』の背中の影らしきものを視界に捉える。
 呼吸を、止める。吸い込んでコンマ数秒、止める。
 銃声。渇いた発砲音。狭い路地の隅々に音響が吸い込まれる。
 38口径。1発。
 直径9mmの弾頭は違えず、その背中の影――左脇腹側――に命中し、『護り屋』の一人を無力化した。死にはしない。応急処置が適切で救急救命が間に合えば十分に助かる。こんな場所まで、トラップだらけの路地の中に飛び込んでくれる救急救命士が居ればの話だが。
 『護り屋』だと一目で判別できた。大柄過ぎる。手に持っているのはHKの大型軍用自動拳銃。所謂、プロが使うオートマチックピストルだ。今回の標的は、『素人の準幹部』で、鉄火場の経験はない。
 組織の資金の一部を横領し、着服した準幹部が国外へ逃亡する前に仕留めるのが仕事だ。
 その道すがら、準幹部は嘗て交流のあった『護り屋』とコンタクトを取って『友人価格』でボディガードを雇ったのも確認が取れている。
 雇われたボディガードの数は2人。そのうち1人を無力化。無力化とは致死足らしめることではない。行動不能の状況に陥った状態を示す。少なくともその場から動けず、戦闘継続の意思を失くした状態を「無力させた」という。
 更に奥へと進む。
 外灯が乏しい。空がそろそろ明け方を迎えるので目が慣れてきた。
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