淑女ならざる者の脳科学

 ふと、情報が出揃う。
 脳内でベートーベンの第九がどこからともなく響いたようなイメージ。
 個人。敵は個人。それも、功績だけに目が眩んだ若者。背後関係は不明なれど、この街の住人としては日が浅い。技術としては少なくとも美妙と比肩しうる。美妙に一泡吹かせた点を見てもそれは分かる。
 そして、誰かを探している……否、探していた。
 『名前のない部署』に所属する誰か。組織全体に対する恨み辛みや怨嗟ではない。殺意や敵意や憎悪を感じなかった。色で言えば薄い灰色か透明に近い水色。
 ただただ、純粋に人を探していただけ。
 偶々、その対象を洗い出すのには手荒な真似をするしかなかったと言うところだろう。
 『我が本社』の正体を知っているのなら営業マンよろしく名刺で以て受付でアポイントを取ろうとは思わないだろう。
 情報は次々と出揃う。
 謎が幾つか。
 その謎が……興味深い謎だった。
 明らかに美妙が『正体不明の敵』の探し人だった。殺される理由や狙われる理由は多過ぎて覚えてない。逆に理由もなく標的にされる意味も理解できない。
 殺すつもりなら、邂逅したあの時――美妙は声しか聞いていないが――に手榴弾のダミーではなく、銃弾を放つべきだった。アストラリボルバーがカーテンに向かって3発火を噴いた瞬間は隙だらけで幾らでも射殺の機会が有った。それとも銃を使わないのか? 使えないのか? 使いたくないのか? 使えなかったのか?
 兎も角、これは『名前のない部署』で共有すべき考察だ。
 狙われているのが自分ならば、自分だけが用心すればいい訳ではない。足元を切り崩すために『会社全体』を崩壊させるかもしれないと言う最悪の事態も考慮する。
 『正体不明の敵』やそれに雇われた荒事師の手によって命を奪われた社員に対しては何の感慨もない。自分たちは常に理不尽な暴力を振るっているゆえに、今度は自分たちが暴力を振るわれる番になってから泣き言を並べるのは不覚悟の極みだ。銃を抜くからには撃たれる覚悟も携帯しなければならない。
 背後関係的に力のある個人か否か。
 今の彼女の興味はそれに尽きた。
 電子メモパッドに最終的に纏めた内容は自分だけが読める暗号に変換。それをスマートフォンのカメラで撮影。この暗号は彼女の脳内の世界だけで通用する言語だ。『会社』にも『社員』にも解読方法は教えていない。
 自宅のノートパソコンから幾つかの海外サーバを経由して『会社』に考察を報告書と言う体で提出。文面は表向きの業務のテキストだが、『社内』で通用する隠語と暗号を多用したものだ。
 デジタル隆盛の昨今では何が原因で情報が漏洩するか分からない。なのでかなり高度な暗号化ーーこの場合はデジタル的ソフト的な意味ではなく、旧来のアナログ暗号を指すーーが導入されており、勿論それは社外秘とされている。中にはその社外秘の暗号の解読を任務としたスパイが『社員』として潜んでいる場合も往々にしてあるので美妙のような『名前のない部署』が必要とされるのだ。
 美妙の『名前のない部署』から裏切者やスパイが発覚するのは辛い。今までに何度か経験した。その度に……今朝まで隣で一緒に『会社』の愚痴文句を言っていた同僚を殺害する羽目になるのだ。
 美妙とて社会人には違いない。働いている世界が裏か表かの違いだけだ。
 働いているからには一定数以上存在する、労働中毒患者になる可能性が高い。どちらかと言えば、美妙は自覚のない労働中毒患者だろう。自分が必要とされている。自分が居なければこの部署は回らない。自分さえ我慢すれば万事OK。故に、労働する事そのものに価値を見出し奉仕する。
 給料は勿論、見合うだけもらっている。
 それでも、給料以上の働きを見せないといけないと言う、一種の認知の歪みに囚われている。
 社会人の努めというものに対して、全ての人間は森羅万象に対して『ありのまま、あるがまま』を捉えて、出力することは不可能だ。
 見たままのモノを伝えたとすると、それは、自分と言う個人のフィルターを濾過して出たものだ。故に詩人は詩人で、随筆家は随筆家として著述業者として生活できる。
 美妙の『会社』で行われている健康診断のストレスチェックでは彼女は常に問題ない。表の世界の、何も知らない医療従事者が表の世界で通用するチェック項目で検診しているのだ。当たり前の話である。
 チェック項目に【人殺しは飽きましたか?】【呵責の念を感じていますか?】【人命に重量を感じましたか?】などと言う、軍隊のストレスチェックでも当て嵌めない限り美妙を始め、裏社旗の人間の心の闇を洗い出して統計として纏めるのは難しいだろう。
 職人やプロとしては正しいだろうが『健やか』に労働に勤しむ姿とはやや遠い位置にいるのが彼女なのだが、彼女が自分でそれに気が付く日は来るのか?
 臨時で訪れた休日に軽いパニックを起こしただろう頭脳も、【坂口土建】の一件で出会った『正体不明の敵』に関する考察で埋没し、日が暮れた。


 どうしようもないさ。
 あの女を片付ければいいだけ。
 なあに、大したことじゃない。
 俺が劣っていれば俺が死ぬ。
 あの女が強けりゃ、それが証明される。
 それだけの事さ。
 それに顔を見た。
 動きも反応も判断も視た。
 あれは片付けたい。
 片付けられるかも。
 多分、初めて本気になってハジキが撃てる。
 それが楽しみ。
 どうしようもないさ。
 出会っちゃいけない奴と出会ったんだ。
 ……お互いにね。


 ハッと目が覚める。午前5時を少し経過。
 辺りを見回す。
 カーテンを閉め忘れたガラス戸から外気が浸透して室内を冷蔵庫のように冷やす。異常気象のお陰で急激に冷える日とそうでない日が交互にやってきては体温調整に嫌気が差す。
 寝汗をかいている。顎を拭う。頸部にもべっとりと脂汗。
 いい夢だった訳ではない。何か悪いことが起きそうな夢を見ていた。
 昨夜はやや寝入りが悪かったので睡眠薬を錠剤カッターで半分に割って嚥下した。お陰で副作用の倦怠感や思考の鈍麻も酷くはない。
 嫌な夢。
 他人の夢を見せられているような、他人の心の中を見せられているような何かが倒錯したような夢。夢は一日の情報の整理をする時間だと聞いたが、それに何か関係があるのだろうか? それとも仕事の疲れか。『正体不明の敵』をプロファイリングするあまり、自他の境界が曖昧になってしまったか。それに拍車をかけたのは半錠の睡眠薬か。
 のそりと美妙は体を起こし、頭を搔きながら洗面所に向かう。
    ※ ※ ※
 走る。
 療養休暇明け初っ端の仕事!
 体が、筋骨が、脳味噌が、自分以上に喜んでいる! 脳内麻薬に侵された自我が歌っている!
 港湾部の廃棄区画。今では資材置き場。
 この区域は別勢力が管理する縄張りだが、組織上層部の連携で時間限定で『解放区』と見做された。連携の規約上、ここは余所者が暴れても統治者は関知しない場所であるとされた。
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