淑女ならざる者の脳科学
「よお」
声がした。やや間延びした、挨拶を投げかけるような口調。その声に聞き覚えはない。
美妙は脊髄反射的に声がした方に3発の牽制射撃をした。部屋の奥。洋間。室内灯は点いていない。そのさらに奥はガラス戸がありベランダに通じる。……ガラス戸を覆う遮光カーテンに向けて発砲していた。
カーテンが戸が開かれていた風に揺れる。
美妙の銃を握る掌に嫌な脂汗が浮き出る。確かに3発分の発砲をして3発分が命中する音を聞いた。個人的所見なら牽制射撃が直接打撃を与える例は極端に低い。その極端に低い射撃で3発分の手応えを感じたのだから安堵するべきなのだろうが……。美妙は……彼女は……暗殺者はけして意識を緩めなかった。
どさりと、床に中年の男が泥の詰まった革袋のように転がって床に伸びた。
視線をその男の顔に一瞥くれる。
抹殺すべき標的の男。その心臓と鳩尾と左脇腹に被弾して死の淵を彷徨っている。
本来なら、これで『暗殺』の任務完了なので今度は『無事に撤収する』任務に就くはず。なのに、この家屋の内部には自分ともう一人が居る。
即座に脳裏に『正体不明の敵』の存在が浮上する。『名前のない部署』の社員を襲撃した事件と直感で繋がる。
「こえー。短気だなぁ。『今度こそ』当たりかー」
声が暗い室内の奥から聞こえる。声が小さく反響。僅かに語尾がくぐもる。
「顔も腕も覚えたぞ……。今日はここで下がってやる。近いうちにまた会おうや」
声の感じからして20代前半の男。ふざけた口調だが、若く溌剌としていて如何にも才気煥発溢れる切れ者と言う印象だった。
青年が喋り終えるなり足元に暗がりの向こうから放物線を描くように放り投げられる物体がある。美妙の腕前ならアストラリボルバーで充分に迎撃可能な速度。
「!」
然し、咄嗟にバックステップで床を蹴って、後頭部を抱えながら階段の踊り場に向かって階段を自ら転がり落ちた。
手榴弾が放り投げられたのだ。銃弾で撃墜するのは自殺行為だ。この狭い空間でできる事はできるだけ距離を取って遮蔽になる物の陰に飛び込む事しかない。
現況は遮蔽を探す事よりも今しがた登ってきた階段を飛び降りた方が爆風から逃げ易い。故に咄嗟に全身強打を覚悟で階段を転がり落ちたのだ。
「いてて……」
歯を食い縛って階段から落下した痛みに耐えるが、いつまで経っても爆風も爆音も襲ってこない。
全身を分解されたような痛みを被ったと言うのに全くの損。
恐らく放り投げられた手榴弾はダミーかレプリカ。元から爆発はしない。
腹が立つ悔しさが全身の打撲が全てを打ち消す。1階と2階の中間にある階段の踊り場で痛む腰を左手で押さえつつよろめきながら立ち上がると、美妙は振り向きもせずに【坂口土建】の家屋裏手の勝手口から逃走を図る。
この方向にはドブ川へと降りる事ができる遊歩道に繋がっており、その道なりに北上すれば立ち退き物件が軒を連ねる小さな住宅街に出る。半分以上が無人の家屋で、さらにその東西南は外灯の乏しい団地へと向かう。
万が一の逃走経路がスラスラと脳内に浮かぶのは……計画通りでも半分、屈辱を感じていた。
撤収ではなく、逃走だ。
これではイメージ的に、敗北して尻尾を巻いているようなものだと自分で自分を卑下した。
脳内の地図に従って逃走する。
【坂口土建】で美妙に不発になるように細工した手榴弾を放り出した青年、名護優希は【坂口土建】の2階洋間のベランダに続くカーテンの左脇から幽霊のように現れて、『自分で開け放った箪笥のドアや抽斗』を静かに押し戻しながら口元に軽い笑顔を貼り付ける。
「へえ……居るもんだ。あんな奴……『かかって来なかったぞ』」
自分で2階の『あらゆる部屋のドアや一部の箪笥の一部のドアや抽斗を適度に開ける事によって自分の声を僅かに反響させて』不気味加減に一層磨きがかかる声に変貌させる小技を名護優希は用いた。
弾幕を張られるなり人海戦術を用いられるなりすればあっという間に看破される小技だが、たった1人の『探りに来ただけの、おっかなびっくりの人間一人』には充分な効果があった。
普通の荒事師なら有りっ丈の弾薬をばら撒いて部屋中を硝煙の煙幕と吹きあがる塵芥で咳込んで自爆しているだろう。
名護優希はプロの矜持とやらに固執して猪のように突進したり狐のように策を講じて攻略に出るのではなく、『標的を全員仕留めたのでこの場は引き下がることを選んだ』美妙を高く評価した。
これが『個人と集団あるいは組織の違い』だ。
個人経営ではスタンドプレーは誰も評価しない。その意味も無い。その反対にスタンドプレーを行っても責任は自分持ちなのだから好きに行えばいい。
それに対して集団や組織に所属する末端は、生きて帰ることが最大の功績である場合が殆どだ。
死んでしまっては、どのようにして敗れたのかを伝える事ができない。
生きていれば勝ちも負けも正確に伝える事ができる上に、その情報は研鑽されて新しい技術やメソッドとして取り込まれて現在育っている次代が長生きできる。
経験と技術、その応用を財産として共有し、余すことなく有効利用するのが集団で組織だ。この点を疎かにするのでは早々に業界から淘汰されて消えている。残存している勢力の殆どは適応力に対して柔軟に取り入れる能力を具えた集団や組織だけだ。
これが、嘗ての、任侠極道の看板恃みで生きてきた旧い勢力が駆逐される理由の一つとなった。
美妙は階段から自ら転げ落ちた時に負った打撲箇所の複数の痛みを堪えながら夜陰の中を走った。走るたびに震動で全身に砕けそうな激痛が襲う。
それでも生きなければならない。
今夜のことを報告すると言う『組織人としての当たり前』と『プロの処刑人が自らの死体を晒さない』という専門家の矜持が最優先だ。殺し屋の面が割れる時は大概が、敗北だけでは済まない。クライアントや上司や組織全体に迷惑をかけてしまう。
場合によっては、たった一人の殺し屋の死体の本名が判明しただけで、国内でも上から数えて何番目の組織が瓦解する事さえある。
走りながら、痛みから逃げるように、痛みで麻痺しているかのような指でシガリロを抜き出し、唇に挟む。火を点けずにシガリロから唾液で染み出る成分を舐めながら喉の渇きや沸騰しているアドレナリンを抑え込む。
彼女が無事に帰宅できたのは午前2時――迂闊な事に、『会社』への報告を怠り、大きく迂回をして帰宅し、冷たい廊下で倒れた――だった。
※ ※ ※
確かに……数日前の夜に、【坂口土建】で邂逅した『正体不明の敵』は美妙を探していた。
『会社』には療養休暇届を出したという体で負傷を癒している美妙。『名前のない部署』からの押しつけの休暇だ。『まっとうな会社』としては『全社員が何の傷病申請も無く、何の休暇消費もしないのは不自然』なので、負傷の程度が知れている美妙がいわばスケープゴートのように休暇を取らされている。これで書類上は『急病で休む人間が少々居る会社』という世間に対する韜晦になる。
電子メモパッドを2枚、テーブルの上に並べて書き込みと削除を繰り返していた。傍らにはコーヒーカップと紫煙が上がるシガリロが置かれた瀬戸物の小さな白い灰皿。
部屋着にドテラ姿で脳内で整理。
声がした。やや間延びした、挨拶を投げかけるような口調。その声に聞き覚えはない。
美妙は脊髄反射的に声がした方に3発の牽制射撃をした。部屋の奥。洋間。室内灯は点いていない。そのさらに奥はガラス戸がありベランダに通じる。……ガラス戸を覆う遮光カーテンに向けて発砲していた。
カーテンが戸が開かれていた風に揺れる。
美妙の銃を握る掌に嫌な脂汗が浮き出る。確かに3発分の発砲をして3発分が命中する音を聞いた。個人的所見なら牽制射撃が直接打撃を与える例は極端に低い。その極端に低い射撃で3発分の手応えを感じたのだから安堵するべきなのだろうが……。美妙は……彼女は……暗殺者はけして意識を緩めなかった。
どさりと、床に中年の男が泥の詰まった革袋のように転がって床に伸びた。
視線をその男の顔に一瞥くれる。
抹殺すべき標的の男。その心臓と鳩尾と左脇腹に被弾して死の淵を彷徨っている。
本来なら、これで『暗殺』の任務完了なので今度は『無事に撤収する』任務に就くはず。なのに、この家屋の内部には自分ともう一人が居る。
即座に脳裏に『正体不明の敵』の存在が浮上する。『名前のない部署』の社員を襲撃した事件と直感で繋がる。
「こえー。短気だなぁ。『今度こそ』当たりかー」
声が暗い室内の奥から聞こえる。声が小さく反響。僅かに語尾がくぐもる。
「顔も腕も覚えたぞ……。今日はここで下がってやる。近いうちにまた会おうや」
声の感じからして20代前半の男。ふざけた口調だが、若く溌剌としていて如何にも才気煥発溢れる切れ者と言う印象だった。
青年が喋り終えるなり足元に暗がりの向こうから放物線を描くように放り投げられる物体がある。美妙の腕前ならアストラリボルバーで充分に迎撃可能な速度。
「!」
然し、咄嗟にバックステップで床を蹴って、後頭部を抱えながら階段の踊り場に向かって階段を自ら転がり落ちた。
手榴弾が放り投げられたのだ。銃弾で撃墜するのは自殺行為だ。この狭い空間でできる事はできるだけ距離を取って遮蔽になる物の陰に飛び込む事しかない。
現況は遮蔽を探す事よりも今しがた登ってきた階段を飛び降りた方が爆風から逃げ易い。故に咄嗟に全身強打を覚悟で階段を転がり落ちたのだ。
「いてて……」
歯を食い縛って階段から落下した痛みに耐えるが、いつまで経っても爆風も爆音も襲ってこない。
全身を分解されたような痛みを被ったと言うのに全くの損。
恐らく放り投げられた手榴弾はダミーかレプリカ。元から爆発はしない。
腹が立つ悔しさが全身の打撲が全てを打ち消す。1階と2階の中間にある階段の踊り場で痛む腰を左手で押さえつつよろめきながら立ち上がると、美妙は振り向きもせずに【坂口土建】の家屋裏手の勝手口から逃走を図る。
この方向にはドブ川へと降りる事ができる遊歩道に繋がっており、その道なりに北上すれば立ち退き物件が軒を連ねる小さな住宅街に出る。半分以上が無人の家屋で、さらにその東西南は外灯の乏しい団地へと向かう。
万が一の逃走経路がスラスラと脳内に浮かぶのは……計画通りでも半分、屈辱を感じていた。
撤収ではなく、逃走だ。
これではイメージ的に、敗北して尻尾を巻いているようなものだと自分で自分を卑下した。
脳内の地図に従って逃走する。
【坂口土建】で美妙に不発になるように細工した手榴弾を放り出した青年、名護優希は【坂口土建】の2階洋間のベランダに続くカーテンの左脇から幽霊のように現れて、『自分で開け放った箪笥のドアや抽斗』を静かに押し戻しながら口元に軽い笑顔を貼り付ける。
「へえ……居るもんだ。あんな奴……『かかって来なかったぞ』」
自分で2階の『あらゆる部屋のドアや一部の箪笥の一部のドアや抽斗を適度に開ける事によって自分の声を僅かに反響させて』不気味加減に一層磨きがかかる声に変貌させる小技を名護優希は用いた。
弾幕を張られるなり人海戦術を用いられるなりすればあっという間に看破される小技だが、たった1人の『探りに来ただけの、おっかなびっくりの人間一人』には充分な効果があった。
普通の荒事師なら有りっ丈の弾薬をばら撒いて部屋中を硝煙の煙幕と吹きあがる塵芥で咳込んで自爆しているだろう。
名護優希はプロの矜持とやらに固執して猪のように突進したり狐のように策を講じて攻略に出るのではなく、『標的を全員仕留めたのでこの場は引き下がることを選んだ』美妙を高く評価した。
これが『個人と集団あるいは組織の違い』だ。
個人経営ではスタンドプレーは誰も評価しない。その意味も無い。その反対にスタンドプレーを行っても責任は自分持ちなのだから好きに行えばいい。
それに対して集団や組織に所属する末端は、生きて帰ることが最大の功績である場合が殆どだ。
死んでしまっては、どのようにして敗れたのかを伝える事ができない。
生きていれば勝ちも負けも正確に伝える事ができる上に、その情報は研鑽されて新しい技術やメソッドとして取り込まれて現在育っている次代が長生きできる。
経験と技術、その応用を財産として共有し、余すことなく有効利用するのが集団で組織だ。この点を疎かにするのでは早々に業界から淘汰されて消えている。残存している勢力の殆どは適応力に対して柔軟に取り入れる能力を具えた集団や組織だけだ。
これが、嘗ての、任侠極道の看板恃みで生きてきた旧い勢力が駆逐される理由の一つとなった。
美妙は階段から自ら転げ落ちた時に負った打撲箇所の複数の痛みを堪えながら夜陰の中を走った。走るたびに震動で全身に砕けそうな激痛が襲う。
それでも生きなければならない。
今夜のことを報告すると言う『組織人としての当たり前』と『プロの処刑人が自らの死体を晒さない』という専門家の矜持が最優先だ。殺し屋の面が割れる時は大概が、敗北だけでは済まない。クライアントや上司や組織全体に迷惑をかけてしまう。
場合によっては、たった一人の殺し屋の死体の本名が判明しただけで、国内でも上から数えて何番目の組織が瓦解する事さえある。
走りながら、痛みから逃げるように、痛みで麻痺しているかのような指でシガリロを抜き出し、唇に挟む。火を点けずにシガリロから唾液で染み出る成分を舐めながら喉の渇きや沸騰しているアドレナリンを抑え込む。
彼女が無事に帰宅できたのは午前2時――迂闊な事に、『会社』への報告を怠り、大きく迂回をして帰宅し、冷たい廊下で倒れた――だった。
※ ※ ※
確かに……数日前の夜に、【坂口土建】で邂逅した『正体不明の敵』は美妙を探していた。
『会社』には療養休暇届を出したという体で負傷を癒している美妙。『名前のない部署』からの押しつけの休暇だ。『まっとうな会社』としては『全社員が何の傷病申請も無く、何の休暇消費もしないのは不自然』なので、負傷の程度が知れている美妙がいわばスケープゴートのように休暇を取らされている。これで書類上は『急病で休む人間が少々居る会社』という世間に対する韜晦になる。
電子メモパッドを2枚、テーブルの上に並べて書き込みと削除を繰り返していた。傍らにはコーヒーカップと紫煙が上がるシガリロが置かれた瀬戸物の小さな白い灰皿。
部屋着にドテラ姿で脳内で整理。
