淑女ならざる者の脳科学

 過去を検索して、経験や知識からこの難局を切り抜けられないかを探る。
 無限とも思える時間の回廊を巡りながら思考と記憶を手繰る旅を続ける。
 有益無益。保留。懸案。
 脳内に様々なフォルダやインデックスが追加されていく。
 サンドウィッチを食べてそれを押し込む、止めのホットミルク。
 無意識にシガリロに手が伸びて一本抜き出し、トレンチライターで火を点ける。
 やや乱暴に吐き出される紫煙。
 何も考えが纏まらない。何も名案が浮かばない。そもそもを言えば、思考を纏める作業とアイデアを創造し抽出する作業は脳内の別の分野が働くのでそれを並行して行おうとするのは効率的ではない。
 更に睡眠薬の副作用の残りが脳のスペックを全体的にダウンさせる。
 伝えられた情報を電子メモパッドに纏めた程度以上の進展はないと判断した彼女は、キッチンを片付けて、日中用の部屋着に着替える。
 思考を纏める作業をした後に瞑想をするかのように黙々と、表情のない顔でアストラカデックス384をクリーニングする。テーブルの上に広げた新聞紙とウエスの上で入念に火薬滓を落し、オイルを塗す。
 昨夜はたった数発しか発砲していないが、それでもクリーニングは行う。小さな火薬滓は錆を呼び、増殖して浸透して金属を蝕む。人間とて大便をし少量しか出なかったから尻を拭かないなどと言うことはないだろう。それと同じだ。使ったのなら手入れをする。これも自分を鍛えてくれた師匠に教わった事柄の一つだ。師匠は自身でそれを証明していた。骨董品レベルのS&W M36を現役で使っていた。銃は手入れを……射手の愛情を裏切らない。
 またも静かに空気清浄機が作動する。今度はキッチンの換気扇も作動する。銃火器の手入れで使うクリーニングリキッドは特殊な溶剤で引火性の揮発液だ。最新型の空気清浄機やセンサーを備えた家庭用換気扇に反応する。
 この寒い季節に窓を開け放ってクリーニングしなかった美妙が不精者なだけだ。
 勿論、この後にアストラカデックス384をガンケースに収納して一仕事終えた後の一服を吸おう思っても室内に引火性の気体が充満している可能性があるので、震えながらベランダでシガリロを吸う羽目になる。 
   ※ ※ ※
 ……それはそれとして。
 職務は遂行する。
 正体不明の敵に襲撃されている最中ではあるが、それしきで処刑専門の『名前のない部署』が業務を停止していれば沽券にかかわる。
 組織内部の不穏分子を粛清するのが今回の任務だ。
 不穏分子……個人ではなく集団。組織。会社一個。
 美妙が所属する組織は幾つもの会社を経営している。その内訳は正直なところ、美妙自身は不明としか答えられない。何割が真っ当な会社で何割が書類上だけの会社で、会社の規模と実際に勤務する社員の数のおおまかな合致などは想像できない。それに想像できる情報は伝えられていない。精々、どんな指揮権や権力を持つ幹部が何人常駐しているかとか、主に請け負うのは荒事か諜報か人事か装備関係か金融財務か……その程度しか知らない。
 それもまたニード・トゥ・ノウの法則だ。組織上層部直轄の部隊ともいえる『名前のない部署』で在籍する美妙たちだからこそ、逮捕者が出た場合に備えて必要以上の情報は与えられていない。美妙が知る情報は他の組織や街の情報屋の無料情報でも入手できるレベルの情報で、精度や鮮度としての価値は低い。
 尤も、美妙とてプロだ。初めて知った『何か』も仕事が終われば途端に忘れる事にしている。殺されても口は割らない。自白剤を投与されても【プロテクション】と呼ばれる催眠でわざと意識を混濁させる自己催眠で虚実が紛れた不明瞭な事しか口走らないように『自分で脳を破壊する』方法の教育も受けている。……練習だけで実際に【プロテクション】を実行したことはない。実行すれば即廃人なので社会生活は不可能になる。
 【坂口土建】。その看板が郵便受けにステッカーで貼られた一戸建ての住宅。5LDK。1階2LDK。2階3室とトイレ。
 猥雑で範囲の広い住宅街の中にある一戸建て住宅。普通なら一人親方が経営している土建屋――実際には工務店や塗装業を経営――を想像させるだろう。実際にそう思わせる『表向きの仕事』も実務としてこなしている。
 【坂口土建】の社長とそこに勤務する3人の社員が内通者としての嫌疑がかけられ、この度クロ判定となったので『始末』の対象となった。
 美妙、シガリロを吐き捨てる。
 3分の2程が灰燼に帰したキューバのシガリロが地面に叩き付けられて後を追うように爪先で踏み潰される。
 午後11時半。最近の気象状況は異常気象が叫ばれているお陰で冬だと言うのに湿度を孕んだ空気で肺が満たされる。頬を撫でる風もやや生温く、不気味。不快ではなく不気味だ。
 自然破壊が進んだ結果なのだろうが、ここ数年の拍車が掛かったような異常気象だけは美妙とて我慢ならんと思うところもあった。地球が人類をどうも思っていないのは確かだろうが、人類は地球に対して思うところは幾らでもある……地球以外に居住する選択肢が有れば話は別だが。
 空を仰げば黒っぽい鈍色の分厚い雲が月も星も遮ってしまって地表に届く光源は大して期待できない。
 今から乗り込む【坂口土建】の家屋内部にしても、照明類は期待しない。
 黴臭く煙草のポイ捨てが多い路地を30mほど歩いて右手をレディース用作業着の左脇に挿し込む。最近の作業着は中々に高性能で、生地だけでなくポケットの配置やジッパーやボタンも改良されて肘や脇腹の可動を邪魔するものは殆ど無い。カラーバリエーションも豊富で、冬物の生地で設えられたブルゾン型作業着ならばジャンパーの代わりとして充分に代用できた。
 今夜は黒とダークグレイのツートーンで纏められたカラーリングの作業着を着ている。ズボンは薄利多売のパキスタン製ジーンズパンツ。足元はコンバースの青い運動靴のレプリカ。
 【坂口土建】の玄関前まで来ると躊躇せず、門扉を軍手をした左手で開いて、そのまま飛び石を模した短く小さなポーチの屋根を伝い、左手でドアを開ける。玄関灯は点きっぱなしだった。玄関正面に防犯カメラが設置されていたが、弱小の零細企業を表向きの商売としている【坂口土建】の防犯カメラは予算も弱小で零細並みなので、ダミーの防犯カメラだ。
 そもそも、【坂口土建】は組織に有事が発生した時に抱える5人が総出で出動して人員と言う戦闘力を提供するだけの、権力の無い、末端組織なのだ。
 所謂、二次団体三次団体に数えられないように隠蔽された秘匿組織だ。人員の動員以外に活用のしようが無い。
 はずだった。……割と人畜無害な立場では実入りが少ないので地元警察に鼻薬を嗅がせて入手した情報や資料を外部へ売り捌き、臨時収入としていた。『見つからなければ、実に賢い小金の稼ぎ方』だった。……自分たちが所属する組織の情報を敵対組織に売りさばかなければ、だ。
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