淑女ならざる者の脳科学

 叫ぶ。
 腹の底から。
 今までの人生を思い返してもこれ程までに叫んだ事はないだろう、と言うほどに。
 叫ぶ。絶叫。ともすれば、阿鼻叫喚とも聞こえる。彼女は完全な混乱に飲み込まれていた。
 誰だ、人を初めて撃った時に感じるのは反動だと言ったのは?
 反動? 馬鹿馬鹿しい。
 彼女が感じているのは初めて人を撃った罪業だけだ。
 重い、拳銃。初めて握ってから未だ半時間も経過していない。
 38口径5連発3インチ銃身。
 黒々とした鉄塊。
 半時間程前に初めて手にした時はズシリと重いと感じた。そして、鉄が伝える冷たさ。グリップ部分は木製のパネルなので温度は感じない。だが、パネルの滑り止めであるチェッカリングの刺々しさは握れば握る程に掌の奥深くに突き刺さり、不快な感触を浸透させていた。
 グリップのパネルの隙間から漏れ伝うように鋼鉄の冷たさが這い上ってくる。掌をとうに凍てつかせて手首全体を冷凍させんばかりの冷たさだ。氷のオブジェを手にしたのかと錯覚すらした。
 それが、彼女と拳銃――S&W M36。3インチモデル――との出会いだった。
 或る日突然の出会いではない。
 前兆は前から有った。
 半グレ同然の生活を生業にする彼女、平木美妙(ひらぎ みたえ)は仮所属している反社会的組織の一員として特殊詐欺や窃盗恐喝で糊口を凌いでいた。
 彼女が自分のミスで詐欺の受け子に逃げられるミスをしでかさなければこんなことにはならなかった。
 美妙はトヨタの黒いセダンのハンドルを握りながら、数分前に車内から飛び出た17歳の未成年の構成員が戻るのを待っていた。
 特殊詐欺の末端である受け子が標的の家に現金とカードを受け取りに行き、その受け子をセダンに乗せて拠点のマンションに帰投するだけの簡単で『罪が割と軽い』部署の仕事をこなすだけだった。
 なのに、幾ら待てど受け子の少年はセダンに戻ってこない。
 少年は半グレ見習いのようなもので、この件で仕事が認められたら上位組織に顔を見せてやるという在り来りな甘い言葉で選ばれた『素人』だ。
 この業界に入って1ヶ月も経過していないだろう。まじめに組織のリーダーの言う事を聞いていれば立派な社会不適合者として名前を売れるはずだった。
 その名前も知らない――警察の手入れが入った時に少しでも捜査を遅らせるために誰も本名を名乗っていない。名乗らせていない――少年に万が一が発生した場合の携帯電話の番号をじっと見つめる。
 スマートフォンは何も語らず、美妙の顔を反射させるだけだ。
 やがて意を決したというよりは、待たされて呆れた顔でダイヤルパッドを操作するが呼び出し音ばかりで応答はない。
 ここに来て漸く美妙の脳裏に裏切りの文字が浮かんだ。
 闇バイトで集めた使い捨て連中の中には注意すべき思考をした連中が居ると聞かされていた。
 闇バイト自体が実際には割に合わない犯罪行為で懲役も長いので、犯罪の進行中に逃げ出すケースが警戒されていた。
 今回は恐らく……その典型だろう。
 受け子の少年は大金を手に取り、逃走のための迎えとして待つ美妙の元に戻らずに、大金を手にしたまま逃走を図ったのだ。
 勿論、組織としても絶対に逃げられないように免許証や本籍地、家族の顔写真や勤務地などの細かな個人情報も把握している。
 把握しているが、それでも、家族にどんな害が及ぼうとも手にした大金をせしめて逃走を図る例が確認されている。
 自分さえ良ければそれでいい。実に自分勝手な考えだが、それを以てして逃げる彼らを紛糾するのは困難だ。自分達の方こそ、社会に対して自分勝手に生きている人間の典型例なのだ。
 上位組織が任侠を重んじる極道なら話はもっと簡単だっただろう。
 半グレを組織して犯罪を実行する自分達には或る意味、極道やマフィアよりも身内の内外に厳しい集団はいない。
 それもそのはずで……集団や組織やチームと言った協調性や調和や連携から遠い存在が集まってプロジェクトチームのようにマニュアル化された枠組みの中で活動しているのだ。即ち、上意下達を徹底していれば大幅にリスクを抑えられる側面が有る。ニード・トゥ・ノウの法則で、知る必要がある人間だけが情報を知っていればどこかの部署の誰かが司直の手によって捜査を受けても、本当に知らぬ存ぜぬを通せる。
 文字通り【自分はただの部品】だ。隣の席の仲間が何をしているのかさえ教えてもらっていない。
 組織が情報漏洩を守り、官憲の捜査が及ばぬようにと考え抜いたマニュアルは言うなれば、自分に必要なマニュアルしか読めなくて覚えられない、頭の程度が低い人間やこの場でクビを宣告されたら社会のどこにも行く場所がない構造的底辺の人間を上手く扱うように構築されたものだ。
 そのマニュアルの根底を覆す行為を実行されれば途端に弱い部分を露呈させる。
 美妙も社会に適合できない人間であるだけに強弁を用いて非難する事はできないが、チームの連携を崩された一件については大いに文句が言えた。
 その金を回収せねば具体的に直接的に命が危ういのは美妙だ。
 美妙はセダンから降りて、放たれた猟犬の如く逃走したと思われる半グレの少年を今すぐ追いかけたかった。
 然し、状況はそれを許さない。
 午後3時過ぎ。人通りが多く、車の往来も激しい。それにこのセダンを停車している位置は数少ない町のエアポケットだ。この位置は防犯カメラに辛うじて映らない場所なのだ。貴重な安全地帯から無闇に体を晒す訳にはいかない。
 年末に差し掛かろうという時期。どこもかしこも繁忙で人や車の往来が激しい。年末年始に向けて多額の金が動きやすい時期を狙っての犯行だというのに受け子の少年の逃走で脆くも凌ぎの一角が崩れる。そして美妙の命も危うくなる。
 捕えれば、受け子の始末は殺害のみだが、その受け子の手綱を握れなかった美妙の責任の取り方はもっと残酷だった。
 監督責任を問われて、少年を期日までに探し出しその手で殺害することだ。
 美妙が特別、厳しいポジションに居るのではない。分かり易いペナルティが元から設定されているのだ。誰が見ても分かるマニュアル。勿論のこと、ペナルティも誰が見ても分かるような簡単なものだった。
 簡単なマニュアルとペナルティだから、残酷の程度も優しく易しいとは限らない。寧ろ、厳しいペナルティの方が誰でも覚えやすく、一種の抑止力として機能する。
 美妙はセダンのハンドルに右手の握り拳を感情の発露として叩きつけた。この世の憎念の全てを練り込んだような重い槌をハンドルに叩き込む。
 奥歯が罅割れんばかりにギリギリと噛み締めて眉間に深く険しい皺を刻む。眼光だけで生者の心臓を停止させられそうな刃物となる。
 震える手でスマートフォンを再び手に取り、拠点のマンションに連絡する。
 今ここで臍を噛んでも仕方がない。優しくなく易しくない善後策は有る。それを果たせば美妙の失敗は一応、帳消しになる。
「……平木……美妙ですが。非常事態が発生しました」
 彼女は声のトーンをできるだけ低くして感情が顕にならないように気をつけながら、発生している事態を通話相手に説明する。あたかも、自身を落ち着ける呪文であるかのようにゆっくりと説明した。
   ※ ※ ※
 美妙が受け子に出し抜かれて3日後のことだった。
 深夜2時の港湾埠頭。寂寞とした黒い海と錆びたコンテナとコイルしか並んでいない風景。
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