カレンダーに無い二月
彼女は吸いたい直前に手巻きするタイプの愛好家だ。
空気が乾燥しているのですぐにハーフコートのハンドウォームに手を突っ込んでペットボトルを取り出して水を一口呷る。ここ一年の経験で、鉄火場での喉の渇きほど大きな障害はないと実感した。人間は緊張すると生理的に喉が渇く。普段は無視できるレベルの不快感でもストレス反応が出ている状態だと不快感は倍増する。気になって集中できない。かなえは仕事場には仕事の難易度は問わずに水やのど飴を持参することにしている。普段も使い捨てマスク派だ。使い捨てマスクはある程度の保湿が期待できるので常用している。昨今の疫病禍では使い捨てマスクは珍しくないので素顔の韜晦にも使える。
「じゃあ、行こうか」
かなえは独り言のように口走ると勝手に桟橋へと爪先を向けて歩きだす。現場の廃船は中型の作業船。船内ではクライアントの敵勢力がたむろしている。陸地に組事務所が確保できなくなったので港湾部やその海上や波止場を武器庫や事務所にしているのが最近のトレンドだ。
歩きながら、かなえは右手をハーフコートの左脇へ滑らせて刀を抜くように大型軍用自動拳銃の派生型であるベレッタM93Rを引き抜く。西部劇のガンマンのような早撃ちには向かないスタイル。兵士のサイドアームのように非常時に抜く拳銃ではない。最初から抜いて構えているからこその脅威だ。レバーを切り替えればセミオートでも3バーストやフルオートで撃てる拳銃を通称としてマシンピストルと呼称される。アクション映画では無敵の働きをすることで有名な拳銃。
早歩きに切り替わる。数歩歩く。少しピッチアップ。数歩小走り。更に速度が上がる。駆け足。……そして桟橋にかかったタラップをあたかも、崖を登るカモシカのように駆け上がる。
駆け上がりながらベレッタのスライドを力強く引く。右掌に安心感と信頼の作動音が伝わる。隙間無く、左手は更にトリガーガード前方のフォアグリップを展開して両手で構える。小脇を締め、顎を引き、やや左半身。今風の射撃戦闘術がデザインされていない時代に考案されたベレッタのマシンピストルなので室内での使用は現在の若者では見慣れない構えをする。別パーツの折り畳みストックを用いれば命中精度が多少上がるが、かなえはそれを重い、嵩張る、脆いなどの理由で使う事を拒否している。
小口の仕事ばかりで腕が鈍っていないか? とも内心、心配していた。然し、『自分への投資』が直ぐにそんな弱音を掻き消す。
この一年間で3度ばかり南方へ遠出し、タクティカルコースの有るシューティングスクールで講習を受けて、国内では決して学べない技術を身につけた。その技術の本当の披露が今夜なのだ。
自信と期待と……掻き消されたばかりの不安のかけらが少々。
タラップを走りきり、甲板を移動し、出入り口付近に誰よりも早く到達する。後の2人の動きが遅かったのではない。かなえの動きが早かったのだ。
「『あの子』は今頃、船の中でドンパチの最中です。警察と相手の注意を惹きつけるように依頼を出しておきました……まだ自分の実力だと思っているようです……はい……まあ、確かに暇な時期を与えて、『自発的に訓練をしたがる、荒事師として飢えた時間』をボーナスで出しました。ははっ、まさか海外へ修行にいくとは思っていませんでした。はは……はい。こちらは滞りなく……それでは『可愛いポチ』が仕上がる姿を必ずご覧にいれます……」
美冠はセダンの後部座席で幾つかの会話を交わした後、スマートフォンの通話を終了させた。
――――まあ、予定通りね……。
――――『あの子』が自信を持てば後は軽く背中を押してやるだけ……ね。
瞑目して今後のプランを脳内に描く。使い勝手のいい駒が育ち難い現在、原石を拾って時間をかけて長く使える駒に育てた方が都合がいいのでは? という、美冠の予想を裏づけする為に選ばれた素材。
大事に大事に育てよう。
深刻な人材不足に悩まされる組織は実のところ、国内だけではない。海外組織が国内に流入しているのは海外でも取り締まりや販路が厳しくなり、開拓できる可能性がある国として日本が選ばれただけだ。一山幾らで鉄砲玉を買える時期は過ぎた。腕利きの……一騎当千に値する猛者を、需要を満たす条件に合致する人材に『デザイン』したほうが、コスト的に安上がりではなかろうかと考えている。
自前での育成ノウハウが完成すれば手配業者に足元を見られた金額で人材を派遣してもらう必要も無い。それに粗製濫造の人材よりも選りすぐりだけで編成された集団の方が結束力も自ずと強くなる。
そのコストパフォーマンスの証明を美冠は行おうとしている。
第一弾のテストが今夜だ。
美冠を乗せた黒い高級セダンは高速に乗り、速度を上げる。彼女にも彼女の仕事がある。彼女は指導者ではないが、少なくとも現場で実働している自負がある。
彼女の眼鏡に適う原石を探す為に書類上、所属する組織を離れてフリーランスで様々な現場を放浪していた。ネット上のクチコミと評価ほど眉唾はないのと同じで、この業界……裏の世界全体を見渡しても情報交換や共有の売買が、デジタルへとほとんど移行してしまって、相手の『顔』が見えない時代になった。
顔写真の画像や『労働中』の動画は作為的に操作できるので参考にならない場合が頻発しているのだ。裏の世界では胴元や手配師を名乗る人間が金だけせしめて逃げ出す『人材詐欺』が多発している。
表の世界の人間から金を巻き上げる事ができないから、金は持っているが人材に乏しい大手組織から金をせしめて姿を消す事案が発生している。今は、掲げる看板や信用信頼が偉大だから、誰もが畏れる時代ではない。明日には自分が何かしらの詐欺の標的になり被害者になっている可能性も有るのだ。
黒いセダンはハイブリッド車特有の人工的な作動音を吐き出して走る……。
発砲。
撃つ。撃たれる。撃ち返される。
狭い船内。もはや同じ轍を踏むかなえではない。耳栓とその予備は万全。海外で購入した、国内では未承認の遮光フィルター機能を持った偏光コンタクトレンズを目に嵌めている。銃火の瞬きの光量をある程度まで下げる。狭い場所では目と耳を守る。嘗て、この鉄則を守らなかったからこそ今の自分が居る。良い教訓を得た。
ベレッタの3バーストが唸る。
空薬莢が3個まとめて弾き出される。摺り足気味で移動。空薬莢を踏みつけないように小走り。船内の角という角から潜望鏡のように腕がだけが飛び出し、手にしていた拳銃が盲撃ちされる。
2人の仲間は違う階層で好き勝手に銃弾をばら撒いている。2人とも大型軍用自動拳銃だった。腕前は知らない。前評判は聞いているが、クライアントが別口でそれぞれ雇った使い捨てだ。それはかなえも含めてそうだ。3人とも互いを信じていない。2人からすればいきなり船内に吶喊したかなえに脊髄反射で刺激されて行動を起こしたが、現在は後塵を拝している。船内をくまなくサーチし死者ではなく、負傷者を出すべく、この船内に潜む敵性存在を追いかけている。
撃てば撃たれる。
空気が乾燥しているのですぐにハーフコートのハンドウォームに手を突っ込んでペットボトルを取り出して水を一口呷る。ここ一年の経験で、鉄火場での喉の渇きほど大きな障害はないと実感した。人間は緊張すると生理的に喉が渇く。普段は無視できるレベルの不快感でもストレス反応が出ている状態だと不快感は倍増する。気になって集中できない。かなえは仕事場には仕事の難易度は問わずに水やのど飴を持参することにしている。普段も使い捨てマスク派だ。使い捨てマスクはある程度の保湿が期待できるので常用している。昨今の疫病禍では使い捨てマスクは珍しくないので素顔の韜晦にも使える。
「じゃあ、行こうか」
かなえは独り言のように口走ると勝手に桟橋へと爪先を向けて歩きだす。現場の廃船は中型の作業船。船内ではクライアントの敵勢力がたむろしている。陸地に組事務所が確保できなくなったので港湾部やその海上や波止場を武器庫や事務所にしているのが最近のトレンドだ。
歩きながら、かなえは右手をハーフコートの左脇へ滑らせて刀を抜くように大型軍用自動拳銃の派生型であるベレッタM93Rを引き抜く。西部劇のガンマンのような早撃ちには向かないスタイル。兵士のサイドアームのように非常時に抜く拳銃ではない。最初から抜いて構えているからこその脅威だ。レバーを切り替えればセミオートでも3バーストやフルオートで撃てる拳銃を通称としてマシンピストルと呼称される。アクション映画では無敵の働きをすることで有名な拳銃。
早歩きに切り替わる。数歩歩く。少しピッチアップ。数歩小走り。更に速度が上がる。駆け足。……そして桟橋にかかったタラップをあたかも、崖を登るカモシカのように駆け上がる。
駆け上がりながらベレッタのスライドを力強く引く。右掌に安心感と信頼の作動音が伝わる。隙間無く、左手は更にトリガーガード前方のフォアグリップを展開して両手で構える。小脇を締め、顎を引き、やや左半身。今風の射撃戦闘術がデザインされていない時代に考案されたベレッタのマシンピストルなので室内での使用は現在の若者では見慣れない構えをする。別パーツの折り畳みストックを用いれば命中精度が多少上がるが、かなえはそれを重い、嵩張る、脆いなどの理由で使う事を拒否している。
小口の仕事ばかりで腕が鈍っていないか? とも内心、心配していた。然し、『自分への投資』が直ぐにそんな弱音を掻き消す。
この一年間で3度ばかり南方へ遠出し、タクティカルコースの有るシューティングスクールで講習を受けて、国内では決して学べない技術を身につけた。その技術の本当の披露が今夜なのだ。
自信と期待と……掻き消されたばかりの不安のかけらが少々。
タラップを走りきり、甲板を移動し、出入り口付近に誰よりも早く到達する。後の2人の動きが遅かったのではない。かなえの動きが早かったのだ。
「『あの子』は今頃、船の中でドンパチの最中です。警察と相手の注意を惹きつけるように依頼を出しておきました……まだ自分の実力だと思っているようです……はい……まあ、確かに暇な時期を与えて、『自発的に訓練をしたがる、荒事師として飢えた時間』をボーナスで出しました。ははっ、まさか海外へ修行にいくとは思っていませんでした。はは……はい。こちらは滞りなく……それでは『可愛いポチ』が仕上がる姿を必ずご覧にいれます……」
美冠はセダンの後部座席で幾つかの会話を交わした後、スマートフォンの通話を終了させた。
――――まあ、予定通りね……。
――――『あの子』が自信を持てば後は軽く背中を押してやるだけ……ね。
瞑目して今後のプランを脳内に描く。使い勝手のいい駒が育ち難い現在、原石を拾って時間をかけて長く使える駒に育てた方が都合がいいのでは? という、美冠の予想を裏づけする為に選ばれた素材。
大事に大事に育てよう。
深刻な人材不足に悩まされる組織は実のところ、国内だけではない。海外組織が国内に流入しているのは海外でも取り締まりや販路が厳しくなり、開拓できる可能性がある国として日本が選ばれただけだ。一山幾らで鉄砲玉を買える時期は過ぎた。腕利きの……一騎当千に値する猛者を、需要を満たす条件に合致する人材に『デザイン』したほうが、コスト的に安上がりではなかろうかと考えている。
自前での育成ノウハウが完成すれば手配業者に足元を見られた金額で人材を派遣してもらう必要も無い。それに粗製濫造の人材よりも選りすぐりだけで編成された集団の方が結束力も自ずと強くなる。
そのコストパフォーマンスの証明を美冠は行おうとしている。
第一弾のテストが今夜だ。
美冠を乗せた黒い高級セダンは高速に乗り、速度を上げる。彼女にも彼女の仕事がある。彼女は指導者ではないが、少なくとも現場で実働している自負がある。
彼女の眼鏡に適う原石を探す為に書類上、所属する組織を離れてフリーランスで様々な現場を放浪していた。ネット上のクチコミと評価ほど眉唾はないのと同じで、この業界……裏の世界全体を見渡しても情報交換や共有の売買が、デジタルへとほとんど移行してしまって、相手の『顔』が見えない時代になった。
顔写真の画像や『労働中』の動画は作為的に操作できるので参考にならない場合が頻発しているのだ。裏の世界では胴元や手配師を名乗る人間が金だけせしめて逃げ出す『人材詐欺』が多発している。
表の世界の人間から金を巻き上げる事ができないから、金は持っているが人材に乏しい大手組織から金をせしめて姿を消す事案が発生している。今は、掲げる看板や信用信頼が偉大だから、誰もが畏れる時代ではない。明日には自分が何かしらの詐欺の標的になり被害者になっている可能性も有るのだ。
黒いセダンはハイブリッド車特有の人工的な作動音を吐き出して走る……。
発砲。
撃つ。撃たれる。撃ち返される。
狭い船内。もはや同じ轍を踏むかなえではない。耳栓とその予備は万全。海外で購入した、国内では未承認の遮光フィルター機能を持った偏光コンタクトレンズを目に嵌めている。銃火の瞬きの光量をある程度まで下げる。狭い場所では目と耳を守る。嘗て、この鉄則を守らなかったからこそ今の自分が居る。良い教訓を得た。
ベレッタの3バーストが唸る。
空薬莢が3個まとめて弾き出される。摺り足気味で移動。空薬莢を踏みつけないように小走り。船内の角という角から潜望鏡のように腕がだけが飛び出し、手にしていた拳銃が盲撃ちされる。
2人の仲間は違う階層で好き勝手に銃弾をばら撒いている。2人とも大型軍用自動拳銃だった。腕前は知らない。前評判は聞いているが、クライアントが別口でそれぞれ雇った使い捨てだ。それはかなえも含めてそうだ。3人とも互いを信じていない。2人からすればいきなり船内に吶喊したかなえに脊髄反射で刺激されて行動を起こしたが、現在は後塵を拝している。船内をくまなくサーチし死者ではなく、負傷者を出すべく、この船内に潜む敵性存在を追いかけている。
撃てば撃たれる。