カレンダーに無い二月

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 高科聡美はエレベーターの中で自分が勤めるフロアへと到達するのを待ちながら腕を組んでドアを静かに網膜に映す。特に考えることも思うところも無いといった表情だ。
「……先日より小口の仕事から小規模なカチコミ(鉄砲玉)を『与えています』。単独での仕事なら少し危ないながらでも……そこそこに使えるまでに成長しました」
 高科聡美の左手側後方の隅で、美冠が背を壁にもたれさせたまま報告する。
「鉄火場を経験させていれば勝手に成長するタイプではなかったようで。それに、自分からの意識改革で生活や金の使い方も学んでいるようです」
 少しばかり口をへの字に曲げる高科聡美。
「いささか時間が掛かりすぎるわ。あなたの『小遣い』の範囲内で育てられるポチならばと様子を見ていたけどね……早い成長を期待している」
「……はい。近々、少し規模の大きな仕事を『偶発的にぶつけてみる』つもりです。今までは小口の仕事を『偶然を装って』与えてきましたが、そろそろステップアップに貪欲になってもらいます」
 高科がお気に入りをポチ呼ばわりしたのに少し反感を覚えた美冠は語気を抑えながらも、売り言葉に買い言葉の調子で強い言葉を放つ。
「へえ。あなたのお気に入りがプラトーを感じるレベルまで育っている事を願うまでね」
 高科が言うや否や、エレベーターは目標のフロアで停止し、扉が開く。高科は美冠の言葉を待たずにエレベーターを先に出る。
 エレベーター内部に残された美冠は、姿勢も視線も変えずにエレベーターが動き出すのを待った。エレベーター内部の防犯カメラの性能では、エレベーター内部での会話を解析するのは不可能だ。
 ――――プラトーか……。
 ――――あの子にその見識はあるかしら?
 心の隅に押しやっていた不安要素が急に鎌首を擡げる。どうも情緒不安定な部分があの子の弱点だ。思ったのなら機を待たず行動。行動力の有るバカ。しかも自分を押さえつけるためにオーバーワークを強いるマゾ気質。
 美冠はスーツの内ポケットから煙草を取り出そうとしたが、館内禁煙であるのを思い出して直ぐに手を引っ込める。

   ※ ※ ※

 今日は何もしないと決めたら何もしない。それと同じく、今日、片付けるべき仕事は全力で片付ける。
 今日も鉄火場に居る。否、久し振りに鉄火場と呼べる鉄火場に居る。
 立雪かなえ。27歳。一つ歳をとって数ヶ月。勿論、書類上の誕生日。公的援助が受けられる身分を正式な書類で獲得するには地味な活動が多かった。これで裏の世界でしくじってアシを洗うことになっても慌てる度合いは低くなる。
 裏の世界の人間にこれからの行く末の選択肢が増える件に関しては、カジュアルな問題だ。表の世界の人間が、携帯電話を一人でおおやけに契約するにはどうすればいいか? というのと同じくらいのレベルで転がっている問題なのだ。携帯電話を契約するのに方法は一つしかないと、その一つを確保する為に様々な苦労や時間を費やす。しかし、契約できる手段が多いと別段直ぐには急がない。それと同じくらいのレベルで転がっている問題なのだ。
 長生きできないと思っていた、常に心にネガティブを抱いて生きていたかなえは常に不満も不平も不幸も普遍だと思っていた。今生きているかなえは生きている実感を噛み締めて楽しんでいる人間だ。
 仕事が楽。……それもある。
 貯蓄と投資と運用が徐々に効果を発揮している。……それもある。
 日々の記録を記し読み返し、出来事を反芻して達成感に包まれている。……それもある。
 一番大きな要因……自分を実感する要因は、自力で自立した生活を営める実力を持っていて、それを行動に移せば実際に効果が出て願ったとおりの生き様に近付いている『自分自身』に驚いているのだ。
 今まで行動に移さなかったのが、移せなかったのが、移そうとしなかったのが不思議でバカだった。怖がる事を捨てたのではない。怖いからこそ打って出ることを選んだ。自分の命をベットした博打だったのかもしれない。浅い計算を恃んだだけの自棄だったのかもしれない。今では瑣末な問題だ。今は素直に自分を褒めたい。
 かなえは小口専門の鉄砲玉事業者に転向したのかと同業者から冷ややかに見られていた。ゆえに、久し振りに鉄火場に立つと……その変貌振りに同じ現場に投入された2人の同業者は当初、「あいつは誰だ?」という顔でかなえを見ていた。あたかも期待の大型新人という自信と希望に溢れた顔でベレッタを右手に提げてやってきたのだ。
 髪は短く切った。軽く流したショートボブ。当初は寝癖を直すのに梃子摺っていたが、今はもう慣れた。髪を切ると今までの衣服が似合わなくなるのには困ったが……。
 体躯は何も変わらず。人間の成長とは見た目と学力だけで推し量るものではない。
 深夜2時経過。南西からの風5m。海面はやや時化。鉄錆と腐臭が混じる潮風。遠くに湾の向こうにある沿岸の灯かりが薄っすらと見える。空気は冷たく澄んでいる。空気は乾燥し、喉が渇きやすくなる。雲がやや厚く垂れて薄く半月がその存在を主張。耳を澄まさなくとも霧笛が聞こえる。海に視線を向ければ航行中の船が数隻、確認できるが、暗くて船の規模や距離は判然としない。
「参った」
 思わず独りごちる。苦労して巻いた手巻き煙草を銜えたのはいいが、普通のフリント式使い捨てライターでは風で吹き消されて、先端を火で炙る事ができない。これだけ生臭い風に囲まれている港湾部なら煙草の煙くらい大したことは無いだろうと高をくくっていたが、予想外の邪魔な風にいらつきが募る。
 かなえはターキッシュシャグの手巻き煙草を髪を掻き分けて左耳朶に挟むと、後で味わうことにした。
 この場所は彼女にとって因縁深くも天啓を与えてくれた場所なので感慨深い。
 ちょうど一年。廃船の中で不覚にも気を失ってから自らをきつく戒めて律した。勉強や修行といったものは何も滝に打たれたり死線をくぐり続けるだけではない。日々是修行。日常の中に修行の要素が凝縮されていることに気が付いた彼女は『自分磨きだけに全力投球で、楽しんで注いで生きてきた』。苦しまなくては修行ではないというのなら、『彼女に言わせれば世界を見る目が狭いだけだ』。
 アウトドアショップで買った黄土色の多機能ハーフコート。内側にフリース加工が施された黒いカーゴパンツ。職人の店で調達した安全靴。ほかの2人も似たり寄ったりの姿だ。
 目標は一年前とは違う廃船。今度の廃船の排水量も前年と大差ない。
 今度の標的……達成目標は陽動。今夜、この時間にこの場所で銃撃戦が『発生する予定』なのでその通りに銃撃戦を展開して警察を撹乱させる。即ち、かなえの与り知らぬ場所で、本来の目的を果たす『きな臭い』事件が静かに発生しているというわけだ。つまるところ、警察の初動体制を撹乱させる為にクライアントは『前から目をつけていた、敵勢力の潰しやすい標的』をかなえたち3人にあてがい、襲撃させているだけだ。
 久し振りに……使い捨ての鉄砲玉らしい現場で高揚する。それを抑えるために鎮静剤として苦労して煙草を巻いたのに吸えないのは少し不満。
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