カレンダーに無い二月
※ ※ ※
間違いは誰にでもある。間違いを犯さない人間は人間として間違えていると云う言説もあるくらいだ。
かなえはベレッタM93Rのトリガーガード前方に折り畳まれた細長いフォアグリップを跳ね起こし、両手で愛銃を振り回す。
右へ左へと視線を走らせる。今夜は廃船を根城にする半グレ集団に『精神的打撃』を与える為に6人の同業者と中型タンカーへと乗り込んで銃弾をばら撒いている。……はずなのだが、ばら撒くと云うお家芸が全く使えないのだ。
狭い船内なら短機関銃のように制圧力が高く、短機関銃より小型のベレッタが絶対に有利だと信じていた。靴も、重油で滑らないように特殊なラバーソールで拵えられた運動靴を履いている。衣服も埃や油で使い古しのウエスのようになっても気にならない、何処でも手に入る灰色の作業着を着ている。
万全。
たった一つの間違いを犯さなければ。
「!」
――――ああああ!
――――うるさい!
彼女は自身が発砲するたびに、相手に発砲されるたびに脳内で大絶叫していた。
狭い船内……壁も床も天井も扉も分厚く頑丈な金属でできた中型タンカーの内部では発砲音が大反響して鼓膜をダイレクトに攻撃する。耳栓を忘れた。
狭い船内では耳栓は必需品だという基本を失念していた。
豆鉄砲の発砲音でさえ頭の芯を突き刺されるように痛む。ましてや、セレクターを切り替えれば3バースト射撃ができる特殊部隊向けに開発された経緯が有るベレッタではその発砲音は3倍だ。先ほどからかなえは1度引き金を引くと1発、発砲するセミオートで発砲している。けれども鼓膜を襲う爆音は全く緩和されずに眉間に耐え忍ぶ皺を寄せて歯を食い縛り、耐えに耐えて半グレと思しき影を追っている。追いながら発砲している。
鼓膜から入る、脳髄をシェイクするような銃声に眩暈を起こしそうだ。
この中型タンカーの廃船に突入したのが深夜の1時半。他に6人の仲間。依頼人は何処にも属さない、ルールも仁義も持ち合わせない半グレ集団に縄張りを荒らされている地元の組織。半グレ集団は30人ほど。特殊詐欺の拠点や違法薬物の倉庫として使われている廃船。
午前1時半きっかりに海から桟橋から二手に分かれた鉄砲玉連中が乗船し、無闇矢鱈にタマをばら撒く。それだけだ。死傷者を出すのは二の次。この廃船を警察の組織犯罪対策課のリストに載せれば万々歳。
そうなれば半グレ集団は居場所を失い放浪する。基本的に組織力の概念が無い半グレの性質は野良猫の群集と同じで、居心地の良い空き家を中心に活動する。空き家が取り壊されればさながら、ジプシーのように彷徨い続ける。
従ってここを拠点にしている半グレ集団を脅かすだけでいいのだ。いつでもお前たちを襲撃して殲滅できるぞ、という主張をすればいい。人的被害……死傷者が出なくても、自分達を殺そうとする何者かが居るだけで恐れをなすのが組織力を持たない集団の弱点だ。
一緒に乗り込んだ辺りの連中は他の部屋や階層で存分に発砲している。この場で、この廃船の中で、鉄砲玉集団の中で唯一の弱点が有るとすればそれはかなえだった。自身のベレッタの発砲音が大き過ぎて発砲に戸惑いが生まれてしまった。今までに耳栓を所持しなかったことなど一度も無かった。どんな場所でも耳栓は持参していた。なのに、突入直前になってポケットに耳栓が入っていないことに気がついたが、もう遅い。
半グレ集団の中でもかなりの数が非合法に入手した雑多な火器で武装していた。心なしか――恐らく、気のせい。意識しすぎ。――自分に火力が集中しているような気がする。自分が弱点だと気が付いたか。この場は早く退散しようと、決断する。依頼を遂行できなかったペナルティは報酬なしプラス違約金で支払うのは大きな出費だが、この場で命を落とすことも無いと考えた。
命を切り売りする商売をしておきながら鉄火場から遁走を図るのは信頼や信用に関わる。それでも今は意地を張って落命するまでもないと判断した。かなえは自分で自分を褒めたかった。
「!」
――え?!
発砲。
かなえがきびすを返して比較的音響が静かだった船倉から上層へ続く階段を昇ったときに死角から発砲された。
間髪置かず、重い肉袋が床に倒れる鈍い音がした。
銃声と爆音と轟音に掻き消された五月蝿くて眩しい世界で耳に届いた『聞き取り易い銃声』を聞いた瞬間に自分は『被弾してその場に倒れた』のだと思った。
右顔面が冷たい金属の床に叩きつけられる。全身が脱力してその場に倒れ込んだのだ。
全身の神経を総動員して被弾箇所や負傷箇所、その程度を感覚で図ろうと、目を見開いたまま、冷たい床に顔をべったりとつけたまま研ぎ澄ませる。
「……え?」
目の前に現れた運動靴の爪先。その爪先を眼球の動く範囲で追う。敵か味方か。
「大丈夫?」
彼女は……声を聞く限り……彼女は、そう声を掛けた。寝転がったままのかなえに対して。
「あ、あんた!」
ハッと気が付いたように体を両手で支えて腹筋を駆使して勢いよく上半身を起こすかなえ。
――え……怪我、してない……?
自分の体に異変が無い事を実感するや否や、右手の傍に転がっていたベレッタM93Rを掴み取り、再び、視線を声の主に向ける。
新堂美冠だ。
愛用の護身用拳銃にサプレッサー――消音効果を高める為のパーツ。音量を下げるだけで銃声を、映画のように皆無にすることは不可能――を銃身に捻じ込み、感情が伺えない視線をかなえに向けていた。
「多分、軽いヴァーティゴを起こしたのだと思う。静かに死んだ振りしていなさい」
冷徹な声。冷酷な宣告。何れも反論できない。
ヴァーティゴとは空間識失調のことで上下左右の認識と把握を失い、立っている事が困難になる状態だ。主に曲芸飛行をする航空機を操縦するパイロットに多い一過性の失調症だ。激しい銃声と過度に瞬く銃火で脳内で情報が処理できていない状態で、『聞き取り易い銃声』を『異質で脅威で恐怖なもの』と錯覚してしまい、脳が処理を放棄してヴァーティゴを招いたらしい。
勿論、ここで寝転がったままでは依頼の履行は不可能。立ち上がろうと下半身に力を入れるが、一向に力が入らない。
「腰を抜かしたの? 丁度いいわ。本当にそのまま静かにしていなさいな」
まだ完全に全ての感覚が回復していない上に腰を抜かしたままのかなえが役に立つとは思えない。美冠の言うとおりに回復を図る意味も込めてここで死んだフリをしている方がグッと生存率は上がる。当初の目論見どおりに遁走を計ろうとしても、この精神状態とコンディションでは無事に鉄火場から逃げ出すことは困難だろう。
恥の上塗りの現場を同業者に見せてしまった恥ずかしさと悔しさ。
船内を席捲する轟音を聞きながらかなえは屈辱を噛み締めながら再び、床に体を沈めた。床にぴたりと押し付ける形になった右耳からは船内のあらゆる情報が音ではなく、震動で伝わってくる。誰もが命懸けで仕事を遂行している中、腰を抜かしてプロの仕事ができないのは筆舌しがたい。
緩やかに意識が落ちる。強力な睡眠薬を飲んだように世界が暗くなる。
かなえの脳が急激な負荷でカロリーを短時間で大量に消費して極度の疲労に見舞われたのだ。
間違いは誰にでもある。間違いを犯さない人間は人間として間違えていると云う言説もあるくらいだ。
かなえはベレッタM93Rのトリガーガード前方に折り畳まれた細長いフォアグリップを跳ね起こし、両手で愛銃を振り回す。
右へ左へと視線を走らせる。今夜は廃船を根城にする半グレ集団に『精神的打撃』を与える為に6人の同業者と中型タンカーへと乗り込んで銃弾をばら撒いている。……はずなのだが、ばら撒くと云うお家芸が全く使えないのだ。
狭い船内なら短機関銃のように制圧力が高く、短機関銃より小型のベレッタが絶対に有利だと信じていた。靴も、重油で滑らないように特殊なラバーソールで拵えられた運動靴を履いている。衣服も埃や油で使い古しのウエスのようになっても気にならない、何処でも手に入る灰色の作業着を着ている。
万全。
たった一つの間違いを犯さなければ。
「!」
――――ああああ!
――――うるさい!
彼女は自身が発砲するたびに、相手に発砲されるたびに脳内で大絶叫していた。
狭い船内……壁も床も天井も扉も分厚く頑丈な金属でできた中型タンカーの内部では発砲音が大反響して鼓膜をダイレクトに攻撃する。耳栓を忘れた。
狭い船内では耳栓は必需品だという基本を失念していた。
豆鉄砲の発砲音でさえ頭の芯を突き刺されるように痛む。ましてや、セレクターを切り替えれば3バースト射撃ができる特殊部隊向けに開発された経緯が有るベレッタではその発砲音は3倍だ。先ほどからかなえは1度引き金を引くと1発、発砲するセミオートで発砲している。けれども鼓膜を襲う爆音は全く緩和されずに眉間に耐え忍ぶ皺を寄せて歯を食い縛り、耐えに耐えて半グレと思しき影を追っている。追いながら発砲している。
鼓膜から入る、脳髄をシェイクするような銃声に眩暈を起こしそうだ。
この中型タンカーの廃船に突入したのが深夜の1時半。他に6人の仲間。依頼人は何処にも属さない、ルールも仁義も持ち合わせない半グレ集団に縄張りを荒らされている地元の組織。半グレ集団は30人ほど。特殊詐欺の拠点や違法薬物の倉庫として使われている廃船。
午前1時半きっかりに海から桟橋から二手に分かれた鉄砲玉連中が乗船し、無闇矢鱈にタマをばら撒く。それだけだ。死傷者を出すのは二の次。この廃船を警察の組織犯罪対策課のリストに載せれば万々歳。
そうなれば半グレ集団は居場所を失い放浪する。基本的に組織力の概念が無い半グレの性質は野良猫の群集と同じで、居心地の良い空き家を中心に活動する。空き家が取り壊されればさながら、ジプシーのように彷徨い続ける。
従ってここを拠点にしている半グレ集団を脅かすだけでいいのだ。いつでもお前たちを襲撃して殲滅できるぞ、という主張をすればいい。人的被害……死傷者が出なくても、自分達を殺そうとする何者かが居るだけで恐れをなすのが組織力を持たない集団の弱点だ。
一緒に乗り込んだ辺りの連中は他の部屋や階層で存分に発砲している。この場で、この廃船の中で、鉄砲玉集団の中で唯一の弱点が有るとすればそれはかなえだった。自身のベレッタの発砲音が大き過ぎて発砲に戸惑いが生まれてしまった。今までに耳栓を所持しなかったことなど一度も無かった。どんな場所でも耳栓は持参していた。なのに、突入直前になってポケットに耳栓が入っていないことに気がついたが、もう遅い。
半グレ集団の中でもかなりの数が非合法に入手した雑多な火器で武装していた。心なしか――恐らく、気のせい。意識しすぎ。――自分に火力が集中しているような気がする。自分が弱点だと気が付いたか。この場は早く退散しようと、決断する。依頼を遂行できなかったペナルティは報酬なしプラス違約金で支払うのは大きな出費だが、この場で命を落とすことも無いと考えた。
命を切り売りする商売をしておきながら鉄火場から遁走を図るのは信頼や信用に関わる。それでも今は意地を張って落命するまでもないと判断した。かなえは自分で自分を褒めたかった。
「!」
――え?!
発砲。
かなえがきびすを返して比較的音響が静かだった船倉から上層へ続く階段を昇ったときに死角から発砲された。
間髪置かず、重い肉袋が床に倒れる鈍い音がした。
銃声と爆音と轟音に掻き消された五月蝿くて眩しい世界で耳に届いた『聞き取り易い銃声』を聞いた瞬間に自分は『被弾してその場に倒れた』のだと思った。
右顔面が冷たい金属の床に叩きつけられる。全身が脱力してその場に倒れ込んだのだ。
全身の神経を総動員して被弾箇所や負傷箇所、その程度を感覚で図ろうと、目を見開いたまま、冷たい床に顔をべったりとつけたまま研ぎ澄ませる。
「……え?」
目の前に現れた運動靴の爪先。その爪先を眼球の動く範囲で追う。敵か味方か。
「大丈夫?」
彼女は……声を聞く限り……彼女は、そう声を掛けた。寝転がったままのかなえに対して。
「あ、あんた!」
ハッと気が付いたように体を両手で支えて腹筋を駆使して勢いよく上半身を起こすかなえ。
――え……怪我、してない……?
自分の体に異変が無い事を実感するや否や、右手の傍に転がっていたベレッタM93Rを掴み取り、再び、視線を声の主に向ける。
新堂美冠だ。
愛用の護身用拳銃にサプレッサー――消音効果を高める為のパーツ。音量を下げるだけで銃声を、映画のように皆無にすることは不可能――を銃身に捻じ込み、感情が伺えない視線をかなえに向けていた。
「多分、軽いヴァーティゴを起こしたのだと思う。静かに死んだ振りしていなさい」
冷徹な声。冷酷な宣告。何れも反論できない。
ヴァーティゴとは空間識失調のことで上下左右の認識と把握を失い、立っている事が困難になる状態だ。主に曲芸飛行をする航空機を操縦するパイロットに多い一過性の失調症だ。激しい銃声と過度に瞬く銃火で脳内で情報が処理できていない状態で、『聞き取り易い銃声』を『異質で脅威で恐怖なもの』と錯覚してしまい、脳が処理を放棄してヴァーティゴを招いたらしい。
勿論、ここで寝転がったままでは依頼の履行は不可能。立ち上がろうと下半身に力を入れるが、一向に力が入らない。
「腰を抜かしたの? 丁度いいわ。本当にそのまま静かにしていなさいな」
まだ完全に全ての感覚が回復していない上に腰を抜かしたままのかなえが役に立つとは思えない。美冠の言うとおりに回復を図る意味も込めてここで死んだフリをしている方がグッと生存率は上がる。当初の目論見どおりに遁走を計ろうとしても、この精神状態とコンディションでは無事に鉄火場から逃げ出すことは困難だろう。
恥の上塗りの現場を同業者に見せてしまった恥ずかしさと悔しさ。
船内を席捲する轟音を聞きながらかなえは屈辱を噛み締めながら再び、床に体を沈めた。床にぴたりと押し付ける形になった右耳からは船内のあらゆる情報が音ではなく、震動で伝わってくる。誰もが命懸けで仕事を遂行している中、腰を抜かしてプロの仕事ができないのは筆舌しがたい。
緩やかに意識が落ちる。強力な睡眠薬を飲んだように世界が暗くなる。
かなえの脳が急激な負荷でカロリーを短時間で大量に消費して極度の疲労に見舞われたのだ。