カレンダーに無い二月

 生きている瞬間に視界の全てがスローモーションのように見えたのなら、それは脳が健在で、過去最高に思考シナプスが駆け巡り、生存する為の手段を模索している状態である。その結果、目から入る膨大な情報は、情報として処理しきれずに一拍遅れて視床下部を経由して脳幹を通過して右脳と左脳が判断する。
 故に、生命の危機を感じたときには辺りは静かになり、何もかもがスローモーションの世界に感じてしまう。聴覚の情報ですら処理落ちしている世界なのだ。
 指弾ほど遅れて激しい銃声と叩き割られるガラスや什器や悲鳴が美冠の耳に目入る。
 美冠が美冠足る由縁……彼女が名の通った鉄砲玉専門の荒事師としてその図太い神経を発揮したのは――フライドポテトを口の中にザラザラと流し込んでいる最中で、右手にした紙容器を投げ捨てずに座ったまま、生死の境地の狭間で居据わっていたことだ。動いても動かなくても死ぬ時は死ぬ。諦観の顔だ。
 数回の指切り連射か? 短機関銃? 短い間隔の連射。3バーストか? 長く連なる。弾倉一本分より少し量が多い銃弾。襲撃者は1人分の戦力。表の国道――恐らく車窓――からファストフード店に向かっての乱射。殺意より悪意が強い。陽動ではない。脅迫だ。負傷でも致死でも構わないと云う迷いの無さを感じる。
「……」
 ――――口に……埃が入った……
 美冠の第一感想はそれだった。
 店内の全員は地面に伏せているか、死に至り、床で転がっている。
 まともにカウンター席で座っているのは美冠だけ。
 解離を起こしている。現実を現実と認識できていないが故に発生する認識の齟齬。口の中のフライドポテトを咀嚼するべきか吐き捨てるべきか悩んでいる。今し方、短機関銃で白昼堂々襲撃された事実を受け入れるべきなのに、唐突過ぎて処理能力が追いつかなくなった。
 世界が静かなスローモーションになる。視覚的聴覚的事実を認識できなかった。……認識できたかかもしれないが、海馬の器官や細胞が記憶から都合よく削除したのかもしれない。彼女が、現場で一々、死体を作ったり見ていたりする度に心に傷を負っていれば重度のPTSDで自我が崩壊していただろう。それを防ぐ為にメタ認知の美冠が、本体の美冠より早く手を打ったのかもしれない
 訓練した心の防御ではなく、生存本能としての心の防御。
「……」
 銃弾の嵐が去った後、手中にあったコーラのLサイズの紙コップを、親指でストローごと蓋を弾いて外し中身を嚥下する。
 味が分からなくなったフライドポテトを胃袋に流し込む。
 塵埃と血煙と喚き声が支配する店内でただ一人、着席。
 遠くからパトロールカーのサイレンが聞こえてくる。
 どれくらい、どれほどの時間が流れたのかも錯覚してしまい、美冠は解離状態のままだった。
「……」
 口中の味のしないフライドポテトを炭酸飲料で嚥下してから15秒経過。
 美冠の視線が……視点が、ミシンで縫うように段々と下へと移る。
 目前の椅子。血飛沫が飛び散った跡が生々しい椅子。血液と脳漿の破片が飛び散った鉄錆臭い香りがする椅子。すうっと視線は下へ。視点は下へ。
 横たわる、死体。横たわっている、上顎から上を失った死体。後に判明する、この襲撃での唯一の死者である死体。
 ほんの先ほどまで会話を交わしていた、『篭絡』寸前だった女の死体。頭部と顔面のほとんどを失い、身元照合が難しくなっていた。
 【『葬儀屋』こと明野ミカの上顎から上が無い死体だ】。近くに風穴が開いた、血まみれのキャップ帽が床の血を吸っている。
 朦朧気味から回復しつつある美冠は右手側の席に置いてあったトートバッグをゆらりと見る。このトートバッグには『表向きの仕事の資料やクリーンなノートパソコンが入っている』。今直ぐ逃げずに茫然自失を演じることにした。事情聴取されても、相席になった知らぬ人が犠牲になったと言えば通じるだろう。逃げ出すより、その場で警官隊の到着を待った。
 美冠はいつもの素早い回復力をわざと発揮させずに被害者を装う。
 今はそれが最優先。そして、この現場を離れて帰宅した後が面倒だ。何しろ、手塩にかけた成果が一瞬で、実証実験を迎える前に無為に帰した。
 美冠自身は誰に襲われたのか、心当たりが多すぎて全く見当がつかない。
 やがて到着する複数台のパトロールカー。
 襲撃者はもう居ない。襲撃者を捕らえる真似は無意味だと知っていた。どうせその場限りの鉄砲玉だろう。
 これだけ大きな仕事を遂行する鉄砲玉なら、捕らえても自決するに違いない。裏の世界の人間同士の撃ち合いではなく、白昼堂々、カタギの店に銃弾を雨のように降らせたのだ。大金で雇われた腕利きだろう……。
 何よりも面倒なのは……敬愛すべき上司になんと言って報告するか、だ。
 ――――面倒臭い。
 ――――どうにでもなーれー。
 美冠は気を失った振りをして椅子から転げて寝転がる演技をする。
 彼女にしては珍しく、逃避行動。
 何もかもがご破算になる音が聞こえる。




 悪いな。
 かなえの手巻き煙草を横銜えにした唇がそう、動いた。
 盗難車の白いトヨタ・シエンタの運転席から――運転する車の車窓から――ファストフード店に9mm弾を乱射したのはかなえだ。
 助手席に放り出したベレッタM93Rにはサードパーティ製の40連発弾倉が叩き込まれている。スライドは後退したまま。銃本体に薄っすらと硝煙が纏わりついている。銃口やコンペンセイターからは薄紫の煙がいまだに立ち昇る。
 かなえとしては今回の仕事は不本意だった。
 止むに止まれぬ事情から今回のような非道な仕事を引き受けた。――――深刻な金欠が数ヶ月続いているのだ。
 2月の山中で2発も体に被弾して死の境を彷徨った。自分を撃ったH&K VP70の遣い手――『葬儀屋』ミカ――は、気が付くと居なかった。生きていたのだろう。かなえは死んだと思い込んだのだろう。はたまた、自分の命可愛さに強敵の生死を確認するのも忘れて死力を振り絞って逃走経路に就いたのかもしれない。
 体の数パーセントの血液を失い、『本当の葬儀屋』が手を拱いていた状態からの奇跡の生還。
 運び屋に気力だけで連絡して自分を闇医者の医療機関まで運搬させ、闇医者に生命維持装置完備に近い設備の部屋で治療を受けさせ――担保として全身の臓器と器官と筋骨と髪と血液を払うと約束――た。それだけで当時のかなえには逆立ちしても支払えない金額が発生した。
 それを支払うべくリハビリを込めて小口以上の依頼を、負傷を推して片付けていく。7割の力で中規模の仕事を3つ、効率よく片付けるという自分に課したルールを一時破棄。かなえがコミュニティじみたものを形成していたのは正解で、仲が良くなった他業者たちが見舞金代わりに、割りの良い仕事を回してくれた。
 金がなければ死ぬ。生きていても死ぬ。
 かつて、毎月納めていたサブスクリプションと縁を切った途端にこの有様だ。
 それでも後悔しなかった。今回は偶々出費が重なっただけだ。昔の人は言った。泣きっ面に蜂、と。悪い時には悪いことしか重ならない。
 毎月、運び屋や闇医者などに支払っていた金を節約した結果、土壇場で想像以上の出費となってかなえを襲っただけ。
 裏の世界専門の債権回収業者は簡単には殺さない。もしかすると債権回収業者ほど優しい荒事師は居ないのではないか? と、言うのも、殺してしまっては債権が回収できないからだ。借金が回収できないからだ。何が何でも取り立てるために対象の命を最優先に考える。しかし、恐ろしい。裏の世界専門の債権回収業者に睨まれて『まともに生活できる』はずがない。
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