カレンダーに無い二月

 自宅を解約したアドバンテージは大きかった。『身軽』の象徴にも思えた。特定の居住を持たず、セーフハウス同然の1Kマンションを複数契約。数週間隔で転々とした。結果的に住所を特定され難い利点を得た。最初は極小な部屋に息苦しさを覚えたが、後の事を考えると3LDKの物件を維持するより軽便だった。
 自宅を1Kマンションにしてから様々な業者とは毎月の心付や口利き料も払わなくなった。『もしも本当に、ありとあらゆる業者に毎回毎回世話になっていたのでは、とっくの昔に破産している』のに気がついた。裏の世界の専門業者は謂わば、保険だ。いざとなったら直ぐに面倒を見てくれる、その感覚。そのような業者に本当に世話になるのは今までに数えるほどしかなかった。
 必要な時に請求された金額を払えばいい。その時は高額だと思うだろうが、長い目で見れば割と安く思える。……このプランの方向も、自分はこの業界で長生きする事が前提の見通しだった。今日明日の命のために、金のために、命懸けで金を捨てる。それが今までの生き方だったのを逆から考えたのだ。
 同業者とは縁を切らなかったが、頻繁に交流を持つようなことはしなかった。
 同業者と関わると結果的に社外秘を漏洩しているのと同じだと思ったからだ。
 フリーランスの鉄砲玉稼業でも社外秘は有る。逃走経路の確保の仕方。吶喊の際のアプローチ。太く硬い客の見分け方……。同業者で特に仲が良かった人間は少ないが、必要以上な接触で社外秘を漏らしてしまうのを避けるためだ。何よりも、親密な関係に発展するのを何よりも『恐れた』。「あいつは自分の事を誰よりも理解している」……この思い込みほど危険なものはない。恋人や夫婦、親友、旧知の仲など、友愛友情親愛などの距離感が近い人間ほど互いを誤解する。人間は何処まで行っても、口に出して明言せねば理解しなくて、理解できない生き物で、相手の読解力は自分と同じではなく、小学4年生に説明しているつもりで噛み砕いて説明しなければ理解しない。悲しいが、どんなに知能が高いとされる人間同士のコミュニケーションも大概の場合はその程度だ。
 同業者とは付かず離れずの距離を保っていたのに対して、他業種の業者とは『商売以外』で頻繁に交流を持った。
 この件に関しては自分で自分を褒めたい。
 自分の縄張り意識が強い人間でひしめき合う世界。
 ここに一粒の真新しい情報、目新しい話題を垂らしてやるだけで、今まで金だけの関係だった他の業者がこちらに目を向け始めた。
 知っているつもりだった古い世界の実情を知りたがる人間。
 誰も知らない情報に鋭い人間。
 はたまた、先進的な考えをした人間。
 そんな人間が向こうから接触してきた。
 情報料は只。居酒屋の席で一言二言漏らせばいい。人間は自然と競う生き物だ。自ら売り物のはずの情報を自慢する。自分の方がもっとすごい情報を持っているんだぞ、と。情報屋経由なら有料の情報も手に入った。
 情報に関しては、思わぬ結果を後に招いた。
 時折、小金が溜まった時に海外へ行き拳銃修行をした成果を同業者だけでなく他業種の業者にも護身用テクニックとして情報提供した。その際に一言、こう付け足すだけでよかった。「『何か有ったら』、たのむよ」と。人間は返報性が働く生き物だ。好意には好意で返さないと気がすまない心理が働く。
 他人からの好意で有料に相当する情報が更に輪をかけて入手できた。
 情報を制する者は全てを制す。
 これにより彼女の活動は一層盛んになる。
 一方で、仕事は高い技術を持ちながら小口専門だとバカにされるほどだった。規模が小さすぎて誰も引き受けない仕事ばかりを選んでローリスクローリターンの報酬を得ていた。
 これも彼女なりの計算だ。
 固い客を得て、確実に資産運用に回せる元本としていた。
 大きな報酬が動けば大きな出費はつき物だ。それを自前でも処理できる小口の仕事ばかりを引き受けて賄う。
 鉄砲玉業界の薄利多売だ。それにより、仕事が軽く見られるとの苦情が殺到した。何人かの同業者は自らの自衛という意味を込めて彼女からは距離を置いた。致し方ない。しかし、その一方で他の業者からは依然として好評で確実に彼女の評判と信用と信頼は鉄砲玉業界以外に広がっていった。
 それはあたかも、『少年漫画の主人公が弱い敵から順々に強い敵と戦ってそれに適う実力を身につける過程』と同じだった。誰かの盤上で自分は踊らされているのではないかと疑いたくなるほどに実力は順当に上がっていった……。
 できるものなら……できるものなら、一年以上前の冬に廃船の中で出会った、否、『遮蔽の角ごしに近接していた』、気配だけでも只者ではないと悟らせる『得体の知れない何者か』と、もう一度出会いたかった。
 あの廃船で気配越しに出会った、『得体の知れない奴』。その時に浅く脇腹の肉を削られた。その銃弾は狙ったのか偶然なのか訊ねてみたい。
 今でも脇腹の銃創が疼く。あの拳銃の遣い手とはもう一度手合わせしたい。今に至るまであの時に潜んでいた影の正体は分からず。ブラインドファイアに近い射撃の初弾で脇腹に当ててきたのは相手の幸運かこちらの不運か?
 あの拳銃遣いと邂逅せねば今の自分は居ない。少なくとも自分に投資するという概念は生まれなかった。ともすれば自暴自棄になっていたかもしれない生き方に対して一つのアンサーを与えてくれた。今なら感謝の念を抱いて真っ向から勝負して負けても悔いは残らないだろう。きっと『今のために生きていた』という満足感を与えてくれるはずだ。
 彼女は自動ドアを抜けて店内に入り、見回す。
 6月。梅雨の不快感をいっときでも忘れられる空間。政府が疫病禍に対して緩和政策に出ても、まだかなりの人間は使い捨てマスクを外せずに居た。基本的に何もなくともマスクをつけたがる民族性なのだろう。気候の変わり目がある国土なので花粉や黄砂で一年中悩まされている比率が高い。
 昼の2時。世界展開しているファストフード店。店舗の規模は大して広くない。テナント型で表通りに面している。天気は梅雨空特有の薄い曇り。梅雨を体感できるだけ幸せなのかもしれない。近年では気候変動が甚だしく、四季の国の日本が夏と冬だけの国になっていると囁かれる。彼女は四季を実感できるほど余裕のない毎日を生きていたために今から思えばもう少し情緒豊かに日々を楽しんでも良かったのかもしれないと、幼い頃の自分を思い返した。
 この店へと、呼び出しを受けた。
 自分を雇いたいと遠回しに言っていた。
 漸くこの時が来たかと躍る心を抑えている。
 今までは自分など、箸にも棒にも掛からない人間で、自分など何処の組織にも属せないだろうし、属しても長く持たない――命も、座っている席も――と思っていたので大手組織からの勧誘という憧れは捨てていた。
 それもこれも自分に対する投資や生き方の改革が功を奏したのだろうと、笑みが零れそうになる。
 これを足場に安穏なプランを練るのも面白い。
 
   ※ ※ ※

 数日前。
「新堂美冠? ……ああ、事務所と……あの廃船の時の」
 かなえの記憶は一年半近く前に飛んでいた。襲撃した事務所や廃船の中での鉄火場で、鉄砲玉としてカチコミという時に護身用拳銃を手にしていた女のことを思い出した。
 かなえの手元ではスマートフォンが置かれてハンズフリーで通話。かなえ自身はそれよりも近くに視線を落としてハンドロールで手巻き煙草を巻いていた。
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