カレンダーに無い二月

 予備弾倉は必要ないと改める。寧ろ、弾倉交換の時間を与えてくれないだろう。
 弾倉分20発。
 もしかしたら、引き金を数回引いただけで勝負は決するかもしれない。
 根拠は無い。そう思った。根拠らしい根拠が有るのならば……自分がこのように思ったから相手も同じ事を思っているだろう、と。
 思考の流れを意識的にコントロールする。枯れ草を燃やすような臭いで混乱してた感覚を、能動的に思考することで脳内のタスクを思考に大きく割く。更に導き出された思考へとループさせない……思考を回路に閉じ込めずに『解放する思考』を多角的に行う。
 視野が広いとは即ち、多角的思考が常に行えるという事でもある。
 枯れ草を燃やす臭いそのものを逆算する。自分が枯れ草を燃やす戦法に出るとしたら……?
 セミオートで襲い掛かる『葬儀屋』ミカ。
 ミカの放った銃弾はかなえの目前に着弾。直撃を与えられる距離に居ながら、それを行わないのはやはり、『潜伏場所は分かっているが、決定打を与える自信が無い』からだろう。あいつも短期決戦を望んでいる。
 匍匐前進を再開した。人間に見つかったゴキブリのように素早く移動。地面と胸、顎先、衣服の端が軽く地面と擦れる。腰を上げず、膝肘、爪先、左掌で体を保持して前進。それまで自分の遮蔽としていた土塊の小さな山を乗り越える。
 撃つとしたら……かなえに致命傷を負わせられる絶好のルートはここしかない。
 枯れ草を燃やす臭いは行動範囲を制限させるための忌避剤代わり。
 自分が臭いで急きたてられているのなら、その臭いが濃い方向か、全くしない方向に移動して打って出る。ミカはそう考えた。……に、違いない。自分もそうする。様々な他方向へ逃げられるより、行動する方向をある程度コントロールできた方が楽で先手を図りやすく打ちやすい。
 枯れ草が燃える臭いが濃厚な方へと直進。やはり、枯れ草を燃やしていたらしく煙の一端が見える。匍匐前進から徐々に姿勢を整えて立ち上がり、『葬儀屋』の顔が見える距離――直線距離20m――まで肉薄する。
 驚愕の色を浮かべているミカ。恐らく彼女の目論見は後退できるルートから退いて再び前進する欺瞞工作に出ると踏んでいたのだろう。確かに、『自分ならそのほうが賢いと思って間違いなくその方策を選んでいた』。
 今は違う。というより、『今ではその方策を考える事ができても選択する事はできなかった』。
「『葬儀屋』ぁっ!!」
「鉄砲玉っ!」
 二人はほとんど同時に叫んだ。
 ほとんど同時に3バーストで発砲した。
 かなえのミスが有るとすれば、咄嗟に奇を衒った方角からのマウントを取ろうとしたこと。
 明野ミカの判断が正しかったとすれば、自分をその場に根の生えた銃座と化したこと。
 大きくジャンプしたかなえは滞空時間が最高潮に達した時点で引き金を引き、ミカは標的が大きくジャンプしたのなら必ず滞空時間のピークが訪れると目算した。
 両者の計算が衝突する。
 3バースト。同時。
 中空で体を右手側に大きく捻り、右手一本でベレッタを保持しているかなえ。
 地面で左片膝座りで上方45度の角度でH&K VP70をしっかりと肩にホルスター兼ストックを押し当てグリップフィストで保持し発砲したミカ。
 3発の銃弾が相対速度マッハ1以上で交差する。うち、1発同士が掠り、大きく弾道が殺がれる。
 2発、直進。人間の目ではマッハで飛来する小物体を、ましてや20mの距離同士で発砲した銃弾を目視することなど不可能だ。
 二人とも移動できない。
 中空では押しも蹴りもできる場所がないためにかなえは慣性に体の落下を任せるしかない。中空で銃弾より早く行動できる超人ではない。
 従って……。
「!」
「くっ」
 かなえ、ミカともに被弾。
 地面に大の字にうつ伏せに落下するかなえ。右肩と右腋付近から流血。流れ出る血液はどんどん広がり、乾いた地面にじわじわと吸い込まれていく。
「……あ」
 ミカは銃を構え、上方を向いたままだったが、スローモーションのようにゆっくりと仰向けに倒れて鈍い色の空を網膜に映していた。右上腕部の中部と右胸部に被弾。被弾の衝撃が全身を駆け巡り、軽い脳震盪を起こしている。被弾箇所から脈拍のたびに大量の血液が零れる。
 二人は同じゆっくりとした動作で動き、同時に左手で懐を漁り、スマートフォンを取り出した。
 一番素早くロックを解除して『ダイヤルできたのは』かなえだった。
「……もし……もし」
 一番早く『通話できたのは』、『葬儀屋』ミカ。
 かなえはダイヤルはしたが、端末を耳元に持っていく途中に脱力し、動かなくなった。
 凍てつく風が二人に無情に叩きつけられる。山風が小さな粒の雪を撒き散らす。
 いつまでもいつまでも、ミカの端末の向こうでは通話相手が彼女の名前を呼んでいた。かなえの端末の向こうでは呼び出し音が無機質に繰り返されていた。

※ ※ ※

 6月。今年も梅雨のない夏が来た。梅雨の姿をしていないゲリラ豪雨なら連日経験している。
 目深に被った濃紺のキャップ帽。……すっかり傷が癒えた彼女はエアコンが効いた店内に入る。4ヶ月前に20mの距離からまともに9mmパラベラムを2発も体に受けて長く険しい療養の期間と戦った。かつては毎月個別に支払っていた闇医者に対する口利きと袖の下がとうに効力を失った時期に負傷したものだから、医療費は酷く高くついた。
 療養期間は抜糸まで約1ヶ月。真っ当な医療機関で専門の外科医が居て適切な処置ができる状況なら、もう一週間は短縮できたのかもしれない。
 寒い山間部のど真ん中から運び屋を手配して一人で逃げた。自分をこの惨状から『運び出し』て適当な闇医者に放り込めと死にそうな声で搾り出したとき、運び屋は目を白黒させていた。そして怒鳴られた。うちはタクシーじゃないと。確かにその通りで、運び屋の言い分は尤もだ。運び屋に対する毎月の口利き料も支払うのをやめていたのだ。『闇の手配師』を仲介しないとこのように無碍に扱われる。『闇の手配師』は汎用性が広いが即応性に欠けるのが難点だ。
 昔のよしみが通用しない世知辛い世界だ。金の力はまだまだ健在だと思い知り、心の片隅に置く。
 尚も、闇医者と運び屋に嫌われながらも、何とか生きている。
 生きている方が不思議で、もしかするとあの寒い山の中で死んだ方がマシだったのかもしれない。
 今でも傷口が疼く。気候の変わり目や曇天の日には少し強く疼く。
 生きていて悪かったと思う事が多かった。死ぬべきだったと思う事が多かった。
 幸運は怪物を生み、不運は人格者を生む。
 ドフトエフスキーの言葉だ。
 ならば自分は怪物か人格者か?
 あるいは、まだ幸運でも不運でもない凡夫のままなのか?
 1年以上前の仕事場で自分の浅はかな考えと足りない覚悟で臨んだばかりに、取り返しのつかない失態を見せたと痛感し、それ以来、全てを変えた。無理矢理変えた。変革の時だと感じたのだ。
 長く生きていくつもりはないが、できるものなら死にたくない。
 そんな覚悟の度合いと意識所在が定まっていない心意気では何者にも成れない以前に自分すら見つめる事ができない、未成熟な人間もどきが存在しているだけだと考えるに至り、自分に喝を入れた。
 気合での喝は所詮勢いだ。『持続する喝』が絶対に必要だった。
 最初に、短命に終わるに違いないからと明日を考えない生き方そのものを改めた。
 自分は生きる。それも手段を選ばず生きるのではなく、生きる確率を上げて生きるべくして生き残る方法を考えた。
 身軽になる事から着手。自宅を解約。
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