カレンダーに無い二月
少しばかり……自惚れたようだ。一年前とは違う自分を証明したいばかりに知らぬ間に気が急いていたらしい。左脇腹の負傷は良い授業料となった。全治2週間。
一年前の自分なら、負傷すれば羽が生えて飛んでいく金を悪夢に見て、無理を押してでも仕事を引き受けていただろう。
かなえの体には生傷が耐えない。だが、今は違うと確信できる。負傷での療養を自己研鑽の時間だと捉えられる。授業料だと解釈できる。慌てて解決する問題なら幾らでも慌てると自分に言い聞かせる余裕がある。
金の多寡で何もかもが決まるというのなら、自分たち裏の世界の人間は暗黙の了解として何処かの誰かの飼い犬に成り下がっている。実際にはそうでなくとも、フリーランスで十分生きていける。
少し前の時代では組織に尻尾を振らないと生きていけない風潮と論調があり、それは概ね正しかった。
しかし、現在では時代も時流も趨勢も変遷し、更に疫病禍が加速させた世界では組織だから、終身雇用だから、背景が資産家だからというのは何の保証も無い時代になっている。
大手組織が人材確保がままならないのでフリーランスを多用することでそれは裏付けられている。組織の威光を知らしめるために投入する腕利きや戦力が底を尽きかけている。噂では内々で人材育成することに漸く目覚めた組織もあるらしいが……。
かなえはふと窓の外を見た。午前9時を少し経過。曇天。降水確率20パーセント。雨というより雪が降りそうな寒さ。
裏側がフリースで加工されたスエットの上下に身を包み、胡坐をかいて寒い廊下でベレッタM93Rをメンテナンス。メンテナンスとクリーニングは似て非なるものだが、手順はほとんど同じで両者とも、ついでに行われることが多い。かなえもメンテナンスと言いつつクリーニングを行う。
メンテナンスは各部の作動チェックで、クリーニングは発射残渣などの清掃。大雑把にはそのような認識だ。いずれにしても通常分解から始まる。
かなえは例え一発でも発砲すれば必ずメンテナンスとクリーニングを行うと決めていた。排便したがその量が少ないからと尻を拭かない人間は居ない。それと同じだ。
クリーニングリキッドの揮発液の臭いが鼻を衝く。玄関のドアを5cmばかり開けて、ベランダへの出入り口を開け放って換気しているが、後で更に換気しなければ。早くしないと寒風で体が凍える。
まだ左脇が少し痛む。瘡蓋が引き攣るような不快感をもたらす。結局、肉を削っただけで骨に重大な損傷は無かった。鎮痛剤に抗生物質10日分。たったそれだけの診察と処置、治療でも普段から闇医者やその組合に『定期的な心付』を渡していないので、倍近い治療費を要求された。尤も、普段から生傷は耐えないが、それは自力で治療している事がほとんどなので、闇医者を頼るのは数年ぶりだ。その数年に一度しか頼らない闇医者。かなえの読みとしては正しかった。年より月単位で心付の金額を割ると、その倍近い医療費はまだ安い。『携帯電話を契約した時に、万が一に備えて修理サポートを毎月契約していたが、結局、今までに一度も修理サポートを利用した事が無い』のと似ている。
流石に、どんなに節約と緊縮財政を導入したと言っても、衣食住はそれなりに充実している。複数確保している1Kマンションのセーフハウスは隠れ家としても居住としても最適。近隣の住民に怪しまれないように外出する時は目立たないが地味でもないコーディネートで歩く。路上でジャージーやらスエットやらは意外と他人の記憶に残る。
そして睡眠と入浴も充実させている。寝具は恐らく、一番金を掛けているかもしれない。入浴に関しては……銭湯やスーパー銭湯を多用。1Kマンションに代表される極狭物件のバスルームなどでは完全な癒しは到底期待できない。一日の疲労を回復させる手段として……国民性として満足のいく入浴は必ず選択肢に入れるべきだ。物件の近くには必ず銭湯かスーパー銭湯があるのもその理由からだ。
ピークエンドの法則――終わりよければ全てよし――を最高に引き出すのは就寝時に今日一日を反芻して良いことだけを増幅させて満足感のまま、眠りに落ちる。……これを完遂させるには入浴と睡眠は欠かせない。
更に、食事。
人間らしい食事は『自分が生きている人間だと思い知る』良い機会だ。視覚、嗅覚、味覚から得た満足感は脳にダイレクトに届き、活力に変換してくれる。
自炊でも外食でも内食でも栄養バランスが取れていればありがたく食べる。
今日を生きていた、生きる事ができた、生きようとするのを実感する。
タイムマシーンが有るのなら、今まで先の短い人生だからと全てを捨てていた過去の自分を殴り飛ばしたい。
手早く広げたウエスや新聞紙を畳む。クリーニングとメンテナンスに必要なリキッドやツールも仕舞う。
さて、食材の買出しに向かうとしよう。
※ ※ ※
怪我は順調に回復しているそうです。……と報告を受けたが、顔に表情は伺えない高科聡美。自分の部下が水面下で動くのは甘く見ているが、与り知らぬ場所で火種を作らないように美冠に報告はさせている。先日の廃船で思わぬ強敵と思しき人物と邂逅したらしい美冠のお気に入りが手痛い思いをしたそうだ。
美冠はいつぞやかのように手助けをするつもりは無く、廃船の内部に放っていた内通者から報告を受けて少しばかり苦い顔をした。自分の腕を過信する時期が来たのだと悟る。確かに『あの子』は手練だ。長らく小口の仕事しか引き受けていないとは言え、けして腕は鈍らでない。『あの子』を負傷させる腕利きが居たのは驚きだった。美冠の見立てだと鉄火場で自信過剰に傾きつつある人間は概ねして現実とのギャップを知って頭を抱えて塞ぎ込むか、勇気と蛮勇を取り違えて早々に死ぬかだ。その何れでもなく、『あの子』は『互いが探り合うようにしているうちに、相討ち同然の負傷を負った』という。
可愛いお気に入りに現実の厳しさを知らせてくれたその存在が少し気になった。
「報告は以上です。後の動向は本人の負傷の回復次第という事で……」
深夜のオフィス。高科聡美のガラスで仕切られただけの執務室。高科聡美はフロアは全面禁煙なのに遠慮なくコニャックフレーバーの図太いドライシガーの先端をガスライターで炙っている。やがてふわりと執務室内にコニャックの着香の煙が広がる。ここのフロアのボスは彼女だ。高科聡美に対して文句を言える人間は居ない。
誰も居ないフロア。居るのはこの場の二人だけ。美冠が影で光源氏じみた作戦で人材を育てているのは上層部には内緒だ。成果が出てから報告書をまとめて提出し、人材育成専門の部署を設立する魂胆だ。そのためには先ずはノウハウが必要。ゆえに、サンプルとして美冠と、彼女が気にかける『ポチ』を自由にさせている。使えるレベルの人材を組織的に育てるのに、縛るのが良いか、奔放が良いか……。
「『内部の盗聴』まで警戒しての計画よ。気をつけてももらわないとね」
高科聡美は横柄に言うと、美冠は唇の端を小さく噛みながら一礼をして執務室を去る。
※ ※ ※
一年前の自分なら、負傷すれば羽が生えて飛んでいく金を悪夢に見て、無理を押してでも仕事を引き受けていただろう。
かなえの体には生傷が耐えない。だが、今は違うと確信できる。負傷での療養を自己研鑽の時間だと捉えられる。授業料だと解釈できる。慌てて解決する問題なら幾らでも慌てると自分に言い聞かせる余裕がある。
金の多寡で何もかもが決まるというのなら、自分たち裏の世界の人間は暗黙の了解として何処かの誰かの飼い犬に成り下がっている。実際にはそうでなくとも、フリーランスで十分生きていける。
少し前の時代では組織に尻尾を振らないと生きていけない風潮と論調があり、それは概ね正しかった。
しかし、現在では時代も時流も趨勢も変遷し、更に疫病禍が加速させた世界では組織だから、終身雇用だから、背景が資産家だからというのは何の保証も無い時代になっている。
大手組織が人材確保がままならないのでフリーランスを多用することでそれは裏付けられている。組織の威光を知らしめるために投入する腕利きや戦力が底を尽きかけている。噂では内々で人材育成することに漸く目覚めた組織もあるらしいが……。
かなえはふと窓の外を見た。午前9時を少し経過。曇天。降水確率20パーセント。雨というより雪が降りそうな寒さ。
裏側がフリースで加工されたスエットの上下に身を包み、胡坐をかいて寒い廊下でベレッタM93Rをメンテナンス。メンテナンスとクリーニングは似て非なるものだが、手順はほとんど同じで両者とも、ついでに行われることが多い。かなえもメンテナンスと言いつつクリーニングを行う。
メンテナンスは各部の作動チェックで、クリーニングは発射残渣などの清掃。大雑把にはそのような認識だ。いずれにしても通常分解から始まる。
かなえは例え一発でも発砲すれば必ずメンテナンスとクリーニングを行うと決めていた。排便したがその量が少ないからと尻を拭かない人間は居ない。それと同じだ。
クリーニングリキッドの揮発液の臭いが鼻を衝く。玄関のドアを5cmばかり開けて、ベランダへの出入り口を開け放って換気しているが、後で更に換気しなければ。早くしないと寒風で体が凍える。
まだ左脇が少し痛む。瘡蓋が引き攣るような不快感をもたらす。結局、肉を削っただけで骨に重大な損傷は無かった。鎮痛剤に抗生物質10日分。たったそれだけの診察と処置、治療でも普段から闇医者やその組合に『定期的な心付』を渡していないので、倍近い治療費を要求された。尤も、普段から生傷は耐えないが、それは自力で治療している事がほとんどなので、闇医者を頼るのは数年ぶりだ。その数年に一度しか頼らない闇医者。かなえの読みとしては正しかった。年より月単位で心付の金額を割ると、その倍近い医療費はまだ安い。『携帯電話を契約した時に、万が一に備えて修理サポートを毎月契約していたが、結局、今までに一度も修理サポートを利用した事が無い』のと似ている。
流石に、どんなに節約と緊縮財政を導入したと言っても、衣食住はそれなりに充実している。複数確保している1Kマンションのセーフハウスは隠れ家としても居住としても最適。近隣の住民に怪しまれないように外出する時は目立たないが地味でもないコーディネートで歩く。路上でジャージーやらスエットやらは意外と他人の記憶に残る。
そして睡眠と入浴も充実させている。寝具は恐らく、一番金を掛けているかもしれない。入浴に関しては……銭湯やスーパー銭湯を多用。1Kマンションに代表される極狭物件のバスルームなどでは完全な癒しは到底期待できない。一日の疲労を回復させる手段として……国民性として満足のいく入浴は必ず選択肢に入れるべきだ。物件の近くには必ず銭湯かスーパー銭湯があるのもその理由からだ。
ピークエンドの法則――終わりよければ全てよし――を最高に引き出すのは就寝時に今日一日を反芻して良いことだけを増幅させて満足感のまま、眠りに落ちる。……これを完遂させるには入浴と睡眠は欠かせない。
更に、食事。
人間らしい食事は『自分が生きている人間だと思い知る』良い機会だ。視覚、嗅覚、味覚から得た満足感は脳にダイレクトに届き、活力に変換してくれる。
自炊でも外食でも内食でも栄養バランスが取れていればありがたく食べる。
今日を生きていた、生きる事ができた、生きようとするのを実感する。
タイムマシーンが有るのなら、今まで先の短い人生だからと全てを捨てていた過去の自分を殴り飛ばしたい。
手早く広げたウエスや新聞紙を畳む。クリーニングとメンテナンスに必要なリキッドやツールも仕舞う。
さて、食材の買出しに向かうとしよう。
※ ※ ※
怪我は順調に回復しているそうです。……と報告を受けたが、顔に表情は伺えない高科聡美。自分の部下が水面下で動くのは甘く見ているが、与り知らぬ場所で火種を作らないように美冠に報告はさせている。先日の廃船で思わぬ強敵と思しき人物と邂逅したらしい美冠のお気に入りが手痛い思いをしたそうだ。
美冠はいつぞやかのように手助けをするつもりは無く、廃船の内部に放っていた内通者から報告を受けて少しばかり苦い顔をした。自分の腕を過信する時期が来たのだと悟る。確かに『あの子』は手練だ。長らく小口の仕事しか引き受けていないとは言え、けして腕は鈍らでない。『あの子』を負傷させる腕利きが居たのは驚きだった。美冠の見立てだと鉄火場で自信過剰に傾きつつある人間は概ねして現実とのギャップを知って頭を抱えて塞ぎ込むか、勇気と蛮勇を取り違えて早々に死ぬかだ。その何れでもなく、『あの子』は『互いが探り合うようにしているうちに、相討ち同然の負傷を負った』という。
可愛いお気に入りに現実の厳しさを知らせてくれたその存在が少し気になった。
「報告は以上です。後の動向は本人の負傷の回復次第という事で……」
深夜のオフィス。高科聡美のガラスで仕切られただけの執務室。高科聡美はフロアは全面禁煙なのに遠慮なくコニャックフレーバーの図太いドライシガーの先端をガスライターで炙っている。やがてふわりと執務室内にコニャックの着香の煙が広がる。ここのフロアのボスは彼女だ。高科聡美に対して文句を言える人間は居ない。
誰も居ないフロア。居るのはこの場の二人だけ。美冠が影で光源氏じみた作戦で人材を育てているのは上層部には内緒だ。成果が出てから報告書をまとめて提出し、人材育成専門の部署を設立する魂胆だ。そのためには先ずはノウハウが必要。ゆえに、サンプルとして美冠と、彼女が気にかける『ポチ』を自由にさせている。使えるレベルの人材を組織的に育てるのに、縛るのが良いか、奔放が良いか……。
「『内部の盗聴』まで警戒しての計画よ。気をつけてももらわないとね」
高科聡美は横柄に言うと、美冠は唇の端を小さく噛みながら一礼をして執務室を去る。
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