ブギーマンと弔えば

 10mの近い距離。
 地面に伏せた位置から背筋頼みで体をやや仰け反らせて角度を付けて357マグナムを撃発させたものだから、足の爪先にまで反動の衝撃が伝わる。
 人間の頭を破壊する凄まじいエネルギーを持つ銃弾……と云う事は、玲子の掌の中で、人間の頭部を粉々に砕くエネルギーが一瞬で炸裂しているということだ。だからこそ肩甲骨で全ての衝撃を受けて、それに負けないように足腰に重心を移動させる必要が有った。
 そのセオリーを無視した、伏せた状態からの発砲。
 物理学的に水の袋と変わらない全身に衝撃が水面の波紋のように駆け巡っているが、歯を噛み縛って立ち上がると、2発分の空薬莢を捨てて、左手で待機させていたスピードローダーの2発分だけを押し込んで捻る。2発の357マグナムの実包は簡単にシリンダーに収まり、シリンダーをフレームに押し込む。
 鳩尾に不快感。喉が渇く。その一方、脳内でアドレナリンが沸騰してくる感覚が駆け巡る。
 走る。脳内に投影される、この地区の図面。見える範囲で合計6人。そのうち2人を仕留めた。
 右手側と左手側に襲撃者は分かれて配置している。
 そこへ最短距離を示す地図を重ねる。
 マッピング。
 踵をアスファルトに削りつけて右手側に折れる。そのまま更に数m走った後に左手側へ折れる。呼吸を出来るだけ整える。咄嗟に停止してからの発砲となると鼓動が大きな震動になり照準が定め難い。だからこそ大きく酸素を吸う。
 路地を左手へ折れてから目の前に突如現れた違法駐車の軽四車に少し驚いた。急ブレーキをかけて、違法駐車された軽四車――黄色のスズキ・スペーシア――に身を潜ませて数秒、待機。
 数秒間で出来る限り酸素を貪る。
 脳内の地図と襲撃者の『人間の本能としての行動』が合致すれば、数秒後にこちらへと2人組は走ってくる。軽四車のバンパーよりも下……車体下部まで体を落として寝かせる。
 銃声が無秩序に閑静な住宅街の夜を汚す。罵声。怒声。即席で連携の練習を積んだ襲撃者。金で雇われた『鉄砲玉』ではない。この人材不足甚だしい時代に組織の直属の三下を繰り出すと考えられないから、三次団体が何処かで拾って訓練した半グレもどきだろう。
 玲子の心の中で絶賛大人気の2人組が走ってきた。
 玲子に2人の逃走経路が解っていたのではない。『読めていた』のだ。
 緊張した人間の行動パターンは大して多くなく、大して広くない。
 その中でも確率の高いものだけを選択し続けただけだ。
 2人は遮蔽になっている軽四車のバンパーより低い位置で腰を落としている玲子に気付かず真っ直ぐ走ってくる。
 距離、前方直線10m。外灯による光源で距離も対象物の大きさも測り易い。
 2人は時折、背後を向く。自分たちに追っ手が居ないか確認しているのだ。それも『読めている』。逃走者は基本的に背後を異様に気にするが、全力で走る事が出来る前方への注意は薄い。
 10mから距離が詰まる。連中の方から全力疾走でやってくる。左手首の内側に文字盤を回したタグ・ホイヤーのダイバーズウォッチを見る。計測開始から2分経過。
 1kgを超える相棒を構える。またも不自然な体勢。しゃがんで、軽四車を盾にして右手側半身をそっと晒す。右手を一杯に伸ばし、顔面も右半分だけ相手に見せる……相手には玲子の小さな体積など見えていないだろうが。
 片手で撃鉄を起こす。
 シリンダーが6分の1回転。
 引き金が一段、手前へ引き込む。
 これで僅かな力を加えるだけで引き金は落ちて撃鉄が作動して必殺の357マグナムの弾頭が弾き出される。
 すうっと息を呑み、喉を鳴らして息を止める。
 5m。
 彼我の距離5m。
 躊躇わない。
 引き金を引く。指弾、反動。轟音。長い銃火が尾を引いて夜道をオレンジ色に彩る。
 弾き出された直径9mmの弾頭は先頭を走っていた男の心臓付近に命中し、男は大の字に四肢を広げて仰向けに派手に倒れる。357マグナムの半被甲弾が致命傷でなくとも、倒れた際に後頭部を盛大に打ちつけたことによる頭蓋骨骨折で重傷だろう。
 片手で357マグナムをブッ放したのだ。反動は制御できず、銃口は跳ね上がり、後続の男に照準を定めるまでに大きなロスが生じてしまった。
 それくらいで一々舌打ちはしない。
 それを覚悟して強力な実包を用いるコルトピースキーパーを相棒としているのだ。
 後続の男はつんのめるように急ブレーキをかけて、軽四車に向かって大型軍用自動拳銃と思しき銃火器を乱射。姿の見えないアンブッシュ――待ち伏せ攻撃――を払い除けようとする。
「…………」
 ――――悪いわねぇ……。
 右手から伝わっているはずの強力な反動に、慌てずに、静かに、一拍の呼吸の後、再び、撃鉄を起こして冷たく照準を定める。この暗がりでは、外灯の直下でなくとも、自動拳銃を乱射しているお陰で位置と距離が掴み易く、標的として捉え易い。
 直線距離7m。
 絶対に外さない距離。
 目前の男は弾倉の実包が尽きた自動拳銃を立ち止まって弾倉交換する。
 玲子にとっては『それも読めていた』。この土壇場でも弾倉が尽きた拳銃の弾倉交換を必ず行うと『読んでいた』。
 その男と思しき人影は典型的なトリガーハッピーだ。発砲しているうちは、弾薬が尽きないうちは自分の命が保障されていると根拠無く信じ込み、無闇矢鱈に銃弾をばら撒く。命中精度や継戦能力や残弾数は考慮できない状態に陥っている。
 頼みの拳銃が沈黙すれば敵の目前でも必ず弾倉交換する。
 脊髄反射的な、咄嗟に行う行動とはわけが違う。助かるため行う生存本能だ。弾倉を交換すればまだまだ生き残る事が出来る。……そう思い込んでいる恐慌状態がトリガーハッピーだ。
 玲子の357マグナムによる示威行動はそれだけの効果が有った。人間をパニックに陥らせるのに十分だ。
 不覚にも目前7mで立ち止まった男を見過ごす玲子ではない。
 能面の顔で引き金を引く。
 この男が、拳銃を捨てて刃物でも抜いていたのなら『玲子の生存率』はどうなっていたか分からない。
 玲子は鳩尾に被弾してその場に尻餅を搗く様に崩れた男を見る。
 7mと云う距離は拳銃を使う人間にとっては明暗が分かれ易い距離だ。
 撃つべきか殴るべきか。
 7mの距離を、勢いを殺さずに突進してきたのなら、背後も振り向かず逃げる脚でなかったのなら、玲子の照準を定めた後の発砲よりもこの男の方が早く、玲子の横を過ぎ去って逃げ去っていただろう。或いは近接戦で挑んできたか。
 男の鳩尾から侵入した357マグナムの半被甲弾は直進して男の背骨を砕いたらしく、男の体の中心線が不自然に傾いていた。地面に転がり、黒い血を吐いているこの男は恐らく助からない。救急救命を今直ぐに施しても助からない。
 玲子の顔は相変わらずの能面でついと、前方を見た。
 次の標的の位置を脳内に投影。
 もう既に移動しているだろう。手首のタグ・ホイヤーの回転ベゼルは残り1分を報せている。
 右耳に掛けたインカムからも逐次情報が入る。
 警護要員は逃走用のルートに就いた。追撃する敵は追い払ったらしい。追跡者を警戒しながら別ルートに待機させていたミニバンで脱出。逃げることに成功しつつある……『護り屋』としては予定通り。
 襲撃されなければ本領を発揮できないとは因果な商売だ。
5/19ページ
スキ