ブギーマンと弔えば
アンダーグラウンドの世界でも禁煙分煙の波は押し寄せている。
近年では臭いによる潜伏範囲や潜伏人数の割り出しの解析も広く一般的になってきており、完全密閉の携帯灰皿の携行を社内でも徹底されるほどである。かつてのハードボイルド映画のように好きなだけ煙草を吸って吸殻を吐き捨てられる時代ではなくなっていた。
火を点けていないシガリロから唇に移ったバニラフレーバーを舐めながら喫煙欲を抑える。
一般家屋。4LDK。その応接間……の拵えをした民家。
この家で本来住んでいる4人家族は現在、旅行中。この家を都合のいい拠点として使わせてもらうために懐柔して普段から非課税のゲンナマを渡している。
日常を装った非日常。
非日常は特別なものではない。
日常と表裏であり延長線であり明暗の関係である。
どこにでもあるのが非日常への入り口だ。
この家屋の持ち主にしても、破産寸前のところを玲子の『会社』の上層組織が金銭的に援助して資金を挽回させて都合の良い飼い犬とした。
取り引き現場には警護対象とその商談相手が合計4人。そこへ依頼人で有る警護対象のみを守る警護要員が4人。その4人以外に相手側も警護要員――プロの『護り屋』かどうかは不明――を4人連れて家屋内部に入る。
狭い家にそんなに沢山入っても……と、思わない。警護要員は家屋内部から勝手口を経由して外へ出て付近を警戒する。直掩は2人。付近の警戒は2人。セオリーどおりだ。
玲子は耳にインカムを嵌めたまま付近を歩く。襲撃者が登場しない限り、玲子に出番はない。
……得てして、嫌な予感ほどよく当たるものだ。
玲子はふと、空を見上げた。
「……」
――――あ。ダメ……。
光源である大きな月が群雲に厚く絡まれてその威光を遮断させられそうだ。
「……『来る』」
経験上……違和感や直感ではなく、人生から得た経験として、『必ず襲撃者は来る』。
誰の気配も察知していないのに、掌にじんわりと脂汗が浮かぶ。背中が総毛立つ。自分なら、この機会を逃さない。襲撃するのなら『この時まで静かにしている』。
逆の視点。こちらの方向だけで物事を観測しない。
逆の視点。自分がこの方法をとられたら嫌だと思うメソッドを組み立てる。
足元から冷気が這い登ってくる感覚。鳩尾が痛い。喉が渇く。呼吸の乱れを自覚。
路地に立ち尽くしていた玲子だったが、即座に電柱の陰に滑り込みながら取り引き現場の家屋に近付く。今までは夜中の道を散歩しているだけの30歳女性を演じていたが、一気に全身のバネが働く。
一般人の偽装のために左手の指先に引っ掛けてぶら提げていたコンビニの中身が入ったレジ袋をその場に落とす。
――――来る!
―――――いや、『来ている!』
右手が左懐に滑り込む。
第何波だかの疫病禍の低減期のお陰でマスクをしなくとも大して怪しまれない時期で助かった。少し前なら仕事中でも使い捨てマスクを装備していた。使い捨てマスクに限らず、口と鼻を覆うモノは呼吸を狂わせるだけでなく二酸化炭素の大量吸気を招き判断力を鈍らせる。
コルトピースキーパーを、財布を素早く抜き出すようなモーションで引っ張り出す。身長168cmの女性の手には少し大きく写る。
左手を後ろ腰に廻し、素早く予備のスピードローダーを抜き、小指と薬指の間に挟む。
銃声、連なる。家屋内部での、引き篭もってからの銃撃戦ではなく、依頼人と警護要員が屋外に出てからの襲撃。
受動的に行動する警護要員。
能動的に行動する警護要員――玲子。
路地。住宅街。通報されているはず。5分以内に型を付ける。人口密集地帯。銃声の数は合計で10挺以上。流動する現場で銃声の位置からは敵味方の判断は難しい。
だが、銃声のパターンから誰が敵で味方かは解る。
無駄な弾を撒いているのが警護要員だ。弾幕を張り、牽制に徹してその隙に警護対象の依頼人を逃がす。
夜の空気が席捲していた静かな町中で突如として発生した銃撃戦。罵声や罵詈雑言も時折聞こえる。汚い言葉を発しているのは『護り屋』ではない。この場合に備えて連携を執る訓練をしているので、無用な発言発音をして戦力差を悟らせない。
――――いち、に、さん、し、ご、ろく……。
――――6人。『どちら』を狙っている?
これが玲子の仕事の難しいところだ。
銃撃を加える人間の影を確認。
何れも背中を見せている。排撃できるポイントは全て確保確認した。だが、その襲撃者が『こちらの依頼人を狙ったのなら玲子の出番だが、違うのなら契約プランに該当しないので襲撃者を殲滅する必要が皆無なのだ』。
口を小さく開いて呼吸を整えながら遮蔽を転々とする。
今は誰にも気が付かれていない。早く『どちら』を狙っているかはっきりさせてほしい。
義侠心で襲撃者を殲滅しているのではない。職掌として排撃しているだけだ。無駄な経費は使いたくない。使わせてくれない。
「……お」
玲子は小さく口角を上げる。
玲子の位置からは襲撃者の背後しか見えない。
目前に2人。他は2人一組で行動し三組存在するのも把握済み。その襲撃者が漸く、警護対象に銃火を集中させてきたのだ。
――――さて、お仕事お仕事!
――――先ずは……。
左手首のタグ・ホイヤーのベゼルを回転させて5分から計測を開始する。5分以内にカタを付ける。それ以上はこの鉄火場で留まるのは危険だ。
インカムからは最前線から逐一報告が流れてくるが、襲撃者が明確に依頼人を狙っている。頭の中で付近の地図が浮かぶ。目前の2人は10秒有れば十分片付けられる。その後の二組の展開を脳裏に描く。
脳裏に描きながら玲子はコルトピースキーパーを両手で構えて、撃鉄を起こした。
腰に重心位置を移動させる。両足を肩幅に広げる。爪先で踏ん張る。小脇を締めて顎を引く。肩甲骨に意識を集中させる。
轟音。
357マグナムの咆哮。
初弾は撃鉄を起こしているために軽い引き金で撃発できる。その次だ。銃口付近を蹴り上げられるような反動で射撃精度が著しく低下するのがマグナム拳銃の命題だった。
初弾が10m先に居る、背中を見せる襲撃者の後頭部を破砕したが、そんなことには興味はない。命を吹き消すのが仕事なのだから命を吹き消して当然だ。その手応えも感じた。
素早く地面に伏せる。
うつ伏せに寝そべる。
衣服が不潔なアスファルトに密着するのも構わずに。
隣で自動拳銃を発砲していた相方の頭が突然粉砕されたのを見たもう一人は一瞬で恐慌状態に陥り、背後を振り返り銃口と視線を左右に振るが誰も見当たらない。『その視点の位置からは玲子を素早く視認することは難しい』。
玲子は既に地面に伏せ、両手でコルトピースキーパーを握ったまま、じっとして気配を殺していた。
恐慌状態に陥った男は、言語を為さない喚き声を挙げて発砲してきた『誰か』を必死で探していた。
「……」
遮蔽の無い道の真ん中。遮蔽は無いが家屋の影が心許無い月明かりで伸びて地面に伏せる玲子の姿を隠していた。
その影の中で再びコルトピースキーパーが大きなマズルフラッシュのリングを咲かせて吼える。
近年では臭いによる潜伏範囲や潜伏人数の割り出しの解析も広く一般的になってきており、完全密閉の携帯灰皿の携行を社内でも徹底されるほどである。かつてのハードボイルド映画のように好きなだけ煙草を吸って吸殻を吐き捨てられる時代ではなくなっていた。
火を点けていないシガリロから唇に移ったバニラフレーバーを舐めながら喫煙欲を抑える。
一般家屋。4LDK。その応接間……の拵えをした民家。
この家で本来住んでいる4人家族は現在、旅行中。この家を都合のいい拠点として使わせてもらうために懐柔して普段から非課税のゲンナマを渡している。
日常を装った非日常。
非日常は特別なものではない。
日常と表裏であり延長線であり明暗の関係である。
どこにでもあるのが非日常への入り口だ。
この家屋の持ち主にしても、破産寸前のところを玲子の『会社』の上層組織が金銭的に援助して資金を挽回させて都合の良い飼い犬とした。
取り引き現場には警護対象とその商談相手が合計4人。そこへ依頼人で有る警護対象のみを守る警護要員が4人。その4人以外に相手側も警護要員――プロの『護り屋』かどうかは不明――を4人連れて家屋内部に入る。
狭い家にそんなに沢山入っても……と、思わない。警護要員は家屋内部から勝手口を経由して外へ出て付近を警戒する。直掩は2人。付近の警戒は2人。セオリーどおりだ。
玲子は耳にインカムを嵌めたまま付近を歩く。襲撃者が登場しない限り、玲子に出番はない。
……得てして、嫌な予感ほどよく当たるものだ。
玲子はふと、空を見上げた。
「……」
――――あ。ダメ……。
光源である大きな月が群雲に厚く絡まれてその威光を遮断させられそうだ。
「……『来る』」
経験上……違和感や直感ではなく、人生から得た経験として、『必ず襲撃者は来る』。
誰の気配も察知していないのに、掌にじんわりと脂汗が浮かぶ。背中が総毛立つ。自分なら、この機会を逃さない。襲撃するのなら『この時まで静かにしている』。
逆の視点。こちらの方向だけで物事を観測しない。
逆の視点。自分がこの方法をとられたら嫌だと思うメソッドを組み立てる。
足元から冷気が這い登ってくる感覚。鳩尾が痛い。喉が渇く。呼吸の乱れを自覚。
路地に立ち尽くしていた玲子だったが、即座に電柱の陰に滑り込みながら取り引き現場の家屋に近付く。今までは夜中の道を散歩しているだけの30歳女性を演じていたが、一気に全身のバネが働く。
一般人の偽装のために左手の指先に引っ掛けてぶら提げていたコンビニの中身が入ったレジ袋をその場に落とす。
――――来る!
―――――いや、『来ている!』
右手が左懐に滑り込む。
第何波だかの疫病禍の低減期のお陰でマスクをしなくとも大して怪しまれない時期で助かった。少し前なら仕事中でも使い捨てマスクを装備していた。使い捨てマスクに限らず、口と鼻を覆うモノは呼吸を狂わせるだけでなく二酸化炭素の大量吸気を招き判断力を鈍らせる。
コルトピースキーパーを、財布を素早く抜き出すようなモーションで引っ張り出す。身長168cmの女性の手には少し大きく写る。
左手を後ろ腰に廻し、素早く予備のスピードローダーを抜き、小指と薬指の間に挟む。
銃声、連なる。家屋内部での、引き篭もってからの銃撃戦ではなく、依頼人と警護要員が屋外に出てからの襲撃。
受動的に行動する警護要員。
能動的に行動する警護要員――玲子。
路地。住宅街。通報されているはず。5分以内に型を付ける。人口密集地帯。銃声の数は合計で10挺以上。流動する現場で銃声の位置からは敵味方の判断は難しい。
だが、銃声のパターンから誰が敵で味方かは解る。
無駄な弾を撒いているのが警護要員だ。弾幕を張り、牽制に徹してその隙に警護対象の依頼人を逃がす。
夜の空気が席捲していた静かな町中で突如として発生した銃撃戦。罵声や罵詈雑言も時折聞こえる。汚い言葉を発しているのは『護り屋』ではない。この場合に備えて連携を執る訓練をしているので、無用な発言発音をして戦力差を悟らせない。
――――いち、に、さん、し、ご、ろく……。
――――6人。『どちら』を狙っている?
これが玲子の仕事の難しいところだ。
銃撃を加える人間の影を確認。
何れも背中を見せている。排撃できるポイントは全て確保確認した。だが、その襲撃者が『こちらの依頼人を狙ったのなら玲子の出番だが、違うのなら契約プランに該当しないので襲撃者を殲滅する必要が皆無なのだ』。
口を小さく開いて呼吸を整えながら遮蔽を転々とする。
今は誰にも気が付かれていない。早く『どちら』を狙っているかはっきりさせてほしい。
義侠心で襲撃者を殲滅しているのではない。職掌として排撃しているだけだ。無駄な経費は使いたくない。使わせてくれない。
「……お」
玲子は小さく口角を上げる。
玲子の位置からは襲撃者の背後しか見えない。
目前に2人。他は2人一組で行動し三組存在するのも把握済み。その襲撃者が漸く、警護対象に銃火を集中させてきたのだ。
――――さて、お仕事お仕事!
――――先ずは……。
左手首のタグ・ホイヤーのベゼルを回転させて5分から計測を開始する。5分以内にカタを付ける。それ以上はこの鉄火場で留まるのは危険だ。
インカムからは最前線から逐一報告が流れてくるが、襲撃者が明確に依頼人を狙っている。頭の中で付近の地図が浮かぶ。目前の2人は10秒有れば十分片付けられる。その後の二組の展開を脳裏に描く。
脳裏に描きながら玲子はコルトピースキーパーを両手で構えて、撃鉄を起こした。
腰に重心位置を移動させる。両足を肩幅に広げる。爪先で踏ん張る。小脇を締めて顎を引く。肩甲骨に意識を集中させる。
轟音。
357マグナムの咆哮。
初弾は撃鉄を起こしているために軽い引き金で撃発できる。その次だ。銃口付近を蹴り上げられるような反動で射撃精度が著しく低下するのがマグナム拳銃の命題だった。
初弾が10m先に居る、背中を見せる襲撃者の後頭部を破砕したが、そんなことには興味はない。命を吹き消すのが仕事なのだから命を吹き消して当然だ。その手応えも感じた。
素早く地面に伏せる。
うつ伏せに寝そべる。
衣服が不潔なアスファルトに密着するのも構わずに。
隣で自動拳銃を発砲していた相方の頭が突然粉砕されたのを見たもう一人は一瞬で恐慌状態に陥り、背後を振り返り銃口と視線を左右に振るが誰も見当たらない。『その視点の位置からは玲子を素早く視認することは難しい』。
玲子は既に地面に伏せ、両手でコルトピースキーパーを握ったまま、じっとして気配を殺していた。
恐慌状態に陥った男は、言語を為さない喚き声を挙げて発砲してきた『誰か』を必死で探していた。
「……」
遮蔽の無い道の真ん中。遮蔽は無いが家屋の影が心許無い月明かりで伸びて地面に伏せる玲子の姿を隠していた。
その影の中で再びコルトピースキーパーが大きなマズルフラッシュのリングを咲かせて吼える。