ブギーマンと弔えば

 いつから和緒はこの廃ビルこそが自分のフィールドだと錯覚していた?
 いつから和緒はこの廃ビルの塵埃の積もり具合を無視していた?
 いつから和緒はこの廃ビルに『敵』が集団でやってくると信じ込んでいた?
 今となっては……和緒にはどうでもいい事だった。
 発砲した瞬間に和緒は一つの大きなミスを悟ったが今となってはどうでもいい事だった。
 和緒が片手で発砲し、塵埃の多い部屋で、灯かり代わりに発砲し、探りを入れるのは『彼女の作戦通りだったのだ』。
『彼女』はすうっと息を吸うと辺りを憚らず大きなくしゃみをした。
 新山和緒は確かに絶命した。
 目の前に大の字で転がっているのは、ただの亡骸であるのは誰の目にも明らかだ。
 『彼女』は和緒を見下ろしながらつま先を進める。
 和緒に向かって。
「……あなた、なかなかの強敵だったね」
 くしゃみを放ったばかりのその女は塵埃に塗れた鼻を啜りながら呟いた。
 右手にだらりと提げた、薄っすらと硝煙を纏うコルトのリボルバー。和緒のコルトパイソンと同じ弾薬を使うがデザインは大きく違う。否、デザインはコルトパイソンの方が大先輩で、くしゃみをした女が提げているのはその発展改良型のコルトピースキーパーだった。全長23cmあまり。重量1kg越え。357マグナム6連発。艶消しの黒い肌は光の反射を抑えるための工夫で、4インチの銃身上部に伸びる、コルトパイソンと同じデザインのパーツは銃身から立ち昇る陽炎を発散させるベンチレーテッドリブだ。
 その女はベージュ色のラフなカーディガンの左懐にコルトピースキーパーを挿し込み、新山和緒と名乗っていた死体の懐から財布と弾薬を抜き取る。
 死者を冒涜する行動だが、その女には遠慮は無い。慣れた手つきで自分の衣服の様々なポケットに弾薬を移していく。
 襟足長めのマッシュウルフの髪が印象的なその女は黒ブチ眼鏡のブリッジを左手の人差し指で押し上げると、小さく「さて」と言い、立ち上がり何の感慨も無く、きびすを返してこの部屋を出る。
 和緒ほどの『遣い手』なら光源が乏しい場所で無理矢理光源を確保する手段として、懐からフラッシュライトを取り出したりはしない。ロスが大きいからだ。必ずマズルフラッシュを利用する。そしてその僅かな時間の明るい世界で敵の位置を補足して応戦する。
 『それこそ』がコルトピースキーパーの女が取らせた行動だ。
 必ず、視界と呼吸器を守るために片手で口元を塞ぎ反動が強いコルトパイソンを片手で撃つ。
 彼女は和緒が必ず、灯かりを得る為の発砲を、『出入り口側に向かって行う』と予見し、その瞬間に正面に立ち2発目を撃つ前の隙を衝いて発砲した。
 和緒には銃火で照らされた世界に一瞬、浮かび上がった、銃を片手で構える女の姿が目に入っただろう。
 和緒は直ぐに反動で暴れた銃口を戻そうと右手に力を込めたが、それよりも早く目の前に立つ女の発砲が早かった。
 それだけだ。
 事実、コルトピースキーパーの遣い手の左手側1mの辺りに弾痕が穿かれて至近弾とは言い難い。コルトピースキーパーの女は初弾で和緒のコルトパイソンが大きく跳ね上がると読んでいた。
 そのためにも片手で銃を保持させて片手で咄嗟に撃たさねばならなかった。
 その『状況』が全て揃った部屋。
 全て『揃っていた』部屋。
 その部屋に誘いこまれた『和緒』。
 ……和緒にとっては『冴えたやり方』でも、それこそが罠そのものだ。
 和緒の拳銃が、反動が荒れ狂う短銃身のマグナムリボルバーでなかったらこの作戦は思いつかなかった。和緒の腕は確かだろうが、標的が見えなければ必殺の銃弾も役に立たない。
 ベージュのカーディガンにデニムパンツ姿の女は、和緒の亡骸から弾薬と財布を抜き取るなり、すっくと立ち上がり、もうこれ以上の興味は示さずにきびすを返して歩きだす。
 再び月光以外の光源がなくなった部屋から夜陰へと消えるまでに歩きながら耳栓を外し、使い捨てマスクをつける。
 部屋から去ったその女の顔には全くの呵責の念は無い。
 呵責の念を伺わせない彼女の姿は、やがて廃ビルの最も暗い部分へと消えていく……。
 がらんどうさながらの部屋の真ん中に大の字に倒れる亡骸、一つ。
 誰にも見取られずに新山和緒と名乗っていた女性は息を引き取った。彼女の亡骸はその後に浮浪者を装った『清掃員』によって直ちに解体され、血液一滴、髪の毛一本も無駄にされずに『消え去った』。左手薬指の指輪も抜き取られてしまった。
   ※ ※ ※
 藤枝玲子と自称しているその女は、全身を脱力して喫茶店で表通りを眺めながら頬杖を衝いている。
 昼の2時。曇天。
 そろそろ秋雨前線が北上してくる時期。
 今年も各地に大きな被害をもたらした台風の一群はようやく鳴りを潜めたかのように見える。
 日差しが柔らかい季節。秋と云う季節が無くなったらしい。生まれて30年ほどしか経過していない彼女には、それ以前の季節の移ろいなど詳しくは知らない。体験している世代ではない。
 雲やトンボや草木で季節を謳うほどの情緒は持ち合わせていない。昔はこの国には四季と云うものが明確に存在し、その移ろいも愉しむ風流な遊びがあったらしいが、現代に生きる若者に分類される玲子には特に食指が動く話題ではなかった。
 客の入りは全体の6割。
 今の時期、時間帯、立地条件からすれば20人入れば満員御礼の喫茶店としては成功している方だと思われる。
 目の前にはびっしりと汗をかいたアイスコーヒー。砂糖とミルクは抜き。レジカウンターからトレイで運んできたまま口を付けずに居た。
 物憂げな顔をしているが、実際には何も考えていない。脱力したいから喫茶店に逃げてきた。
 クリーニングが終わったばかりのベージュのカーディガンとデニムパンツに水色のスニーカー。窓際の分煙席。窓の外側を臨めるカウンター。手元には灰皿、クリーム色の平らな箱、マッチ箱。灰皿にはシガリロの吸殻が1本。
 脳内で先日の夜の仕事を反芻。
 しかし、心には残さない。
 仕事はデータとして蓄積させて感情は切り捨てる。そのために行きつけの喫茶店で脱力を愉しんでいる。
 先日の夜……あのコルトパイソンを使う新山和緒と云う人間はこの世にはもう存在していないだろう。存在していても何処かの誰かの体内で生体器官や細胞として第2の人生を歩んでいるだろう。綺麗な黒髪だったので、もしかしたら、髪の毛は鬘の材料として加工されて人間の平均寿命以上に長生きするかもしれない。
 2本目のシガリロ――カフェクレーム・バニラ――を平たい紙の箱から抜き出し、口に銜える。
 彼女のリラックスする時の条件として『マッチを擦る余裕も無い時にシガリロは吸いたくない』と云うこだわりが有る。それを忠実に実行しているだけだ。
 使い捨てライターとは違う丸みと温かみのある火でシガリロの先端を炙りながら吸う。大きく長く紫煙を吐き出す。この瞬間が喫煙の醍醐味だと思う。
 そんな彼女の顔が途端に濁る。
尻ポケットに差し込んだままだったスマートフォンがバイブで着信を報せる。
 ――――あ……これは……。
 このバイブレーションのパターンは仕事の依頼だろう。
直ぐにスマートフォンを取り出し、着信内容を確認する。
 シガリロを唇の端に銜えたまま、小さく舌打ち。
 折角の休暇が瓦解する音が聞こえる文面。
 彼女の……藤枝玲子の仕事は荒事師の中でもやや異質な『護り屋』だった。
2/19ページ
スキ