ブギーマンと弔えば
埃が更にもうもうと空間を汚す。
外部へ通じた弾痕から差し込む外灯の僅かな明りに埃が美しく煌く。綺麗なものの正体は得てして汚いもので、綺麗だと思われているものが見えている範囲はごく一部とも言える……そんな対を成す皮肉が脳裏を過ぎる。心に僅かながらの余裕が生まれたからの観測だ。
2人を追う。恐らくこの廃屋からの遁走は難しい。赤外線暗視装置を揃えるだけの資金が有り、夜戦夜襲を得意としている連中が赤外線センサーを用いた起爆装置を持っていない保証は無い。
この廃屋では今まで偶々、連中は爆破やトラップを行使しなかっただけなのか、巧妙に隠蔽したのかは不明だが、暗闇だからこそ真価を発揮する何かを持っていると仮定して行動した方がいい。
そこから導き出されるのは……安全そうな道は全て怪しんだ方がいいと云うことだ。
――――あ。
――――はしゃぎすぎた。
左手がいつものようにズボンのポケットを探るが、へしゃげたマッチ箱とシガリロの紙箱に指先が触れた。シガリロを吸うつもりは無かったが、いつもの癖で手を伸ばしただけだ。
「…………」
暫し、逡巡。
コルトピースキーパーをいつでも抜けるように腹のベルトに差して、仕舞ったばかりのアーミーナイフを取り出して、マッチの軸や擦り紙を細かく削って足元に次々と落とした。
手の中に削れるものが無くなるとナイフをポケットに仕舞って再び小幅に歩く。するりと腹のベルトから頼れる相棒を抜く。抜きながら撃鉄を起こす。
廃屋の2階へ通じる廊下を見る。
目が慣れてもその更に奥や2階は真っ暗で危険な臭いしかしない。
逃げるのは難しい。敵戦力は残存3人。罠の可能性あり。首魁の目的は不明。
左手でフラッシュライトを取り出し、スイッチをオン。全長15cmほどのそれを手の上でくるりと回して掌に押し当てて灯かりを封じる。しっかりと握って灯かりが漏れないようにする。
その間も玲子の視線は目前6mの位置へ……左右の障子を見ていた。左手側は中庭へ。右手側は10畳の和室へ。明らかに怪しい。背後から何も『伝わってこない』のがその証左だ。
この位置で決戦だろう。
直線距離、たった6m。幅1.8mの廊下。
阻害される中、酸素を貪る。マスクを外せないのが実に悔しい。外せば埃で咳き込んで戦闘継続は更に困難になる。
6m。駆ける。足音を殺す。わざと足音を殺す。『さも、2階へ向かう階段を目指しているかのように』。
2mほど走ったところで、左手のフラッシュライトを右手側の襖へと勢いよく突き刺し、押し込む。男の呻くような悲鳴、1人分。
玲子の口角がマスクの下で大きく吊り上がる。バックステップ。一歩、下がる。近い。
自分ならば……突然、襖の向うから強烈な光源が現れて赤外線暗視装置にフィルター――増幅された痛みを覚えるほどの強い光に対して光量を調整する機能――が働くまでの数瞬の間に大きく素早く後退りして短機関銃を乱射して弾幕を張り、距離を稼ぐ。
その際には5、6発ずつ引き金から指を離す指切り連射はほとんど不可能だろう。
直ぐに20連発の弾倉は空になる。フィルターが作動しても網膜に焼きが付いて暫く焦点が合わない。そうなれば更に後退を繰り返しながら弾倉交換に傾注し……。
そこまで玲子の脳内でシミュレーションが及んだ時にドスンと大きな質量が転倒する音が聞こえた。
更に後退りを繰り返しながら弾倉に傾注しすぎると、足元への注意が疎かになって必ず歩幅に綻びが出る。
空薬莢で転ぶか、死体を踏みつけて転ぶか、足を縺れさせて転ぶか。機動力の大きなロスとなる転倒を招く。鉄火場での転倒は即、命を左右する。
援護。短機関銃の銃声。もう1人が健在。だが、襖ごしからの盲撃。弾幕を張っている間に仲間を退避させるつもりだ。
それも『予想通り。既に読めていた』。
この6mの廊下、左右からの挟み撃ちは絶対にありえない。仲間同士が撃ちあう結果になるからだ。だから一方からの攻撃に集中していればよかった。
スコーピオン短機関銃の弾幕は玲子の足元に指切り連射で叩き込まれる。
相手は襖で見えていない。
お互いが殴り合いができる距離なのに、遮蔽で全く位置が確認できなくて発砲したいが狙えない場合、咄嗟に銃口を下方へ向けて足元を狙うイメージで発砲する事が多い。
人間は空を飛ばない。胸の高さ、横一列に弾幕を張らないのは自身の居場所を喧伝するようなものだ。消去法で必ず、近距離の援護者は足元を狙うと読んでいた。
玲子はその場から動かず……寧ろ、積極的に呼吸を止めて動作も止めて衣擦れの音すらも止めて、弾幕が止まるのを待った。
スコーピオンの発射速度は速い。弾倉には20発しか装填できない。指切り連射で弾薬を節約しても牽制ならば大した範囲はカバーできない。それに、更に人間の心理を逆から読めば、『自分が移動しているから、相手も移動を繰り返しているに違いない』と勝手に思い込む。
散布界の計算終了。
指切り連射を繰り返していても……襖の向こう何mの位置に身長がどれくらいの人間がそこに立っているのか判明する。
散布界の逆算……つまり足元に広がった弾痕と襖に開いた弾痕の位置と角度から微分積分の公式を当て嵌めて計算すれば目前に襖と云う完全な遮蔽が有っても『射手の距離と位置が分かってしまう』。
357マグナムが狭い廊下で咆哮を挙げる。
銃身から伸びた竜の吐息のような銃火は紙魚が湧いた襖に掌大の大きさの孔を開けた。弾き出された357マグナムの弾頭はその向うに居た、赤外線暗視装置を装備した黒い戦闘服の男の胸部に命中し、衝撃で圧し倒された。
小さなモーションで左軸足で右回し蹴り。
押し込んだフラッシュライトの孔が開いた襖は完全に敷居から外れて部屋の内側へと吹き飛ばされる。
彼女は迷わず、その襖のほぼ中央に向かって引き金を引いた。一瞬だけ目前に白い世界が広がった後、数秒して、『床に倒れた襖の向こうから伸びていた両方の手足がピクリとも動かなくなった』。
予備弾倉が差し込まれていないスコーピオンが転がっているのが薄っすらと見える。弾倉交換中に赤外線暗視装置の目前が白くなって網膜に強烈に焼き付きができて、後退りしたまま転倒したのだ。そこへフラッシュライトが突き刺さった襖が覆い被せられて仕留められた。
玲子は耳鳴りが酷い世界の中で、背中と首筋に神経を集中させながら弾倉を開いて新しい実包と空薬莢を交換した。
「……足音……」
――――足音、一つ。
――――移動中。
静かに左掌を柱にぴたりと脱力して押し付ける……押す、と云うより、掌全体で触れていると云う感じだった。
瞑目。
耳鳴りが騒がしい聴覚は一時、意識の外へ。軽く俯く。深い呼吸をゆっくり繰り返す。
コトコトと云う音が『掌を通じて』聞こえてきた。厳密には、この震動を音で表現するならコトコトだった。
移動する、何か。
2階に何か居る。
誰かが何かをしている。罠だ。『何かをしている、挙動が読めないと惑わせること自体』が罠だ。同じ立場なら玲子もそうする。
この廃屋の何処に何が潜んでいるか分からない状況で、遁走を図れば思わぬ罠が待っている危機感は充分に肌で感じている。
『恐らく、そのための【ヤジマ興業】だろう』。
暗闇で何をしでかすか分からない連中を投入したこと自体が、彼らが全滅しても彼らが仕掛けた罠は健在だと言うアピールをするためだ。
――――まあ、正統な攻め方だけどね……。
外部へ通じた弾痕から差し込む外灯の僅かな明りに埃が美しく煌く。綺麗なものの正体は得てして汚いもので、綺麗だと思われているものが見えている範囲はごく一部とも言える……そんな対を成す皮肉が脳裏を過ぎる。心に僅かながらの余裕が生まれたからの観測だ。
2人を追う。恐らくこの廃屋からの遁走は難しい。赤外線暗視装置を揃えるだけの資金が有り、夜戦夜襲を得意としている連中が赤外線センサーを用いた起爆装置を持っていない保証は無い。
この廃屋では今まで偶々、連中は爆破やトラップを行使しなかっただけなのか、巧妙に隠蔽したのかは不明だが、暗闇だからこそ真価を発揮する何かを持っていると仮定して行動した方がいい。
そこから導き出されるのは……安全そうな道は全て怪しんだ方がいいと云うことだ。
――――あ。
――――はしゃぎすぎた。
左手がいつものようにズボンのポケットを探るが、へしゃげたマッチ箱とシガリロの紙箱に指先が触れた。シガリロを吸うつもりは無かったが、いつもの癖で手を伸ばしただけだ。
「…………」
暫し、逡巡。
コルトピースキーパーをいつでも抜けるように腹のベルトに差して、仕舞ったばかりのアーミーナイフを取り出して、マッチの軸や擦り紙を細かく削って足元に次々と落とした。
手の中に削れるものが無くなるとナイフをポケットに仕舞って再び小幅に歩く。するりと腹のベルトから頼れる相棒を抜く。抜きながら撃鉄を起こす。
廃屋の2階へ通じる廊下を見る。
目が慣れてもその更に奥や2階は真っ暗で危険な臭いしかしない。
逃げるのは難しい。敵戦力は残存3人。罠の可能性あり。首魁の目的は不明。
左手でフラッシュライトを取り出し、スイッチをオン。全長15cmほどのそれを手の上でくるりと回して掌に押し当てて灯かりを封じる。しっかりと握って灯かりが漏れないようにする。
その間も玲子の視線は目前6mの位置へ……左右の障子を見ていた。左手側は中庭へ。右手側は10畳の和室へ。明らかに怪しい。背後から何も『伝わってこない』のがその証左だ。
この位置で決戦だろう。
直線距離、たった6m。幅1.8mの廊下。
阻害される中、酸素を貪る。マスクを外せないのが実に悔しい。外せば埃で咳き込んで戦闘継続は更に困難になる。
6m。駆ける。足音を殺す。わざと足音を殺す。『さも、2階へ向かう階段を目指しているかのように』。
2mほど走ったところで、左手のフラッシュライトを右手側の襖へと勢いよく突き刺し、押し込む。男の呻くような悲鳴、1人分。
玲子の口角がマスクの下で大きく吊り上がる。バックステップ。一歩、下がる。近い。
自分ならば……突然、襖の向うから強烈な光源が現れて赤外線暗視装置にフィルター――増幅された痛みを覚えるほどの強い光に対して光量を調整する機能――が働くまでの数瞬の間に大きく素早く後退りして短機関銃を乱射して弾幕を張り、距離を稼ぐ。
その際には5、6発ずつ引き金から指を離す指切り連射はほとんど不可能だろう。
直ぐに20連発の弾倉は空になる。フィルターが作動しても網膜に焼きが付いて暫く焦点が合わない。そうなれば更に後退を繰り返しながら弾倉交換に傾注し……。
そこまで玲子の脳内でシミュレーションが及んだ時にドスンと大きな質量が転倒する音が聞こえた。
更に後退りを繰り返しながら弾倉に傾注しすぎると、足元への注意が疎かになって必ず歩幅に綻びが出る。
空薬莢で転ぶか、死体を踏みつけて転ぶか、足を縺れさせて転ぶか。機動力の大きなロスとなる転倒を招く。鉄火場での転倒は即、命を左右する。
援護。短機関銃の銃声。もう1人が健在。だが、襖ごしからの盲撃。弾幕を張っている間に仲間を退避させるつもりだ。
それも『予想通り。既に読めていた』。
この6mの廊下、左右からの挟み撃ちは絶対にありえない。仲間同士が撃ちあう結果になるからだ。だから一方からの攻撃に集中していればよかった。
スコーピオン短機関銃の弾幕は玲子の足元に指切り連射で叩き込まれる。
相手は襖で見えていない。
お互いが殴り合いができる距離なのに、遮蔽で全く位置が確認できなくて発砲したいが狙えない場合、咄嗟に銃口を下方へ向けて足元を狙うイメージで発砲する事が多い。
人間は空を飛ばない。胸の高さ、横一列に弾幕を張らないのは自身の居場所を喧伝するようなものだ。消去法で必ず、近距離の援護者は足元を狙うと読んでいた。
玲子はその場から動かず……寧ろ、積極的に呼吸を止めて動作も止めて衣擦れの音すらも止めて、弾幕が止まるのを待った。
スコーピオンの発射速度は速い。弾倉には20発しか装填できない。指切り連射で弾薬を節約しても牽制ならば大した範囲はカバーできない。それに、更に人間の心理を逆から読めば、『自分が移動しているから、相手も移動を繰り返しているに違いない』と勝手に思い込む。
散布界の計算終了。
指切り連射を繰り返していても……襖の向こう何mの位置に身長がどれくらいの人間がそこに立っているのか判明する。
散布界の逆算……つまり足元に広がった弾痕と襖に開いた弾痕の位置と角度から微分積分の公式を当て嵌めて計算すれば目前に襖と云う完全な遮蔽が有っても『射手の距離と位置が分かってしまう』。
357マグナムが狭い廊下で咆哮を挙げる。
銃身から伸びた竜の吐息のような銃火は紙魚が湧いた襖に掌大の大きさの孔を開けた。弾き出された357マグナムの弾頭はその向うに居た、赤外線暗視装置を装備した黒い戦闘服の男の胸部に命中し、衝撃で圧し倒された。
小さなモーションで左軸足で右回し蹴り。
押し込んだフラッシュライトの孔が開いた襖は完全に敷居から外れて部屋の内側へと吹き飛ばされる。
彼女は迷わず、その襖のほぼ中央に向かって引き金を引いた。一瞬だけ目前に白い世界が広がった後、数秒して、『床に倒れた襖の向こうから伸びていた両方の手足がピクリとも動かなくなった』。
予備弾倉が差し込まれていないスコーピオンが転がっているのが薄っすらと見える。弾倉交換中に赤外線暗視装置の目前が白くなって網膜に強烈に焼き付きができて、後退りしたまま転倒したのだ。そこへフラッシュライトが突き刺さった襖が覆い被せられて仕留められた。
玲子は耳鳴りが酷い世界の中で、背中と首筋に神経を集中させながら弾倉を開いて新しい実包と空薬莢を交換した。
「……足音……」
――――足音、一つ。
――――移動中。
静かに左掌を柱にぴたりと脱力して押し付ける……押す、と云うより、掌全体で触れていると云う感じだった。
瞑目。
耳鳴りが騒がしい聴覚は一時、意識の外へ。軽く俯く。深い呼吸をゆっくり繰り返す。
コトコトと云う音が『掌を通じて』聞こえてきた。厳密には、この震動を音で表現するならコトコトだった。
移動する、何か。
2階に何か居る。
誰かが何かをしている。罠だ。『何かをしている、挙動が読めないと惑わせること自体』が罠だ。同じ立場なら玲子もそうする。
この廃屋の何処に何が潜んでいるか分からない状況で、遁走を図れば思わぬ罠が待っている危機感は充分に肌で感じている。
『恐らく、そのための【ヤジマ興業】だろう』。
暗闇で何をしでかすか分からない連中を投入したこと自体が、彼らが全滅しても彼らが仕掛けた罠は健在だと言うアピールをするためだ。
――――まあ、正統な攻め方だけどね……。