ブギーマンと弔えば

 暗く不快で静かな空間で彼女の両足は床に突き刺さったように固定されている。
 足は肩幅に開き腰を落とし重心を固定。
 肩の力は抜くが肩甲骨にやや緊張を持たせる。
 顎を引き、脱力気味な両腕をすっとまっすぐ伸ばす。
 両掌で握るのは、いつも一緒に鉄火場を潜り抜けてきた相棒のマグナム。埃で涙が浮く両目は閉じる。聴覚を研ぎ澄ませる。自ずとうなじや首筋から背中全体にかけて意識が広範囲に広が居る。
 完全に狭窄した生理的世界から彼女をサルベージしたのは、皮肉にもインカムから流れてきた小さなノイズ。
 意識を廃屋に集中しすぎて聴覚が狭窄し、インカムがジャミングされて通信が断絶されたのに気が付かなかった。そこへ僅かなジャミングのブレ……から発生する小さな小さな電子的な雑音が、異質な雑音が過集中の彼女を『現実の世界』に引き戻した。
 ――――この仕事が終わったら……少し休暇を貰おう。
 ――――偶には近場の温泉で過ごすのもいいよね。
 精神的余裕が生まれる。
 微々たる隙間。
 人間とは完全に集中すると簡単に脳が生理的な誤作動を起こし、『正常に判断し過ぎる』。
 余裕の有無が、心理的余白が何かしらの鍵になることを思い知る。
 玲子は闇に銃口を向けているが、目を閉じて、顎を引くように小さく俯いている。
 臭いも、呼吸も、気配も、音響も駄目。
 ならば、最も狭窄し、最も頼りなかった聴覚に役立ってもらう。
 厳密には『聴覚と同じ理屈』だ。
 『震動』が波を伝える。
 屋内の空気に渦を作る。
 『震える』。
 僅かに僅かに、更に僅かに震える。
 空気が。
 音ではなく、鼓膜が気体を通る震動を感知。
 音として認識するのではなく、空気を伝う震動として感知。
 投影された空間を増幅。
 根が生えたような足の裏からも移動する震動を拾う。
 気配とは少しニュアンスが違う。根拠の無い強い直感が気配だと定義するなら、震動とは物理学的に根拠が有る、『公式で計算できる』根拠だった。
「……4人」
 使い捨てマスクの下で呟く。確かに生きている、活動している、呼吸を押し殺している存在がこの廃屋に居る。少なくとも、この1階部分に4人。
 鼓膜が痛い。背中と首筋がひりつく。足裏が床に突き刺さったように固定されている。
 ――――4人。1人。戦力に『開き』がある……。
 ――――1人は別働? 3人が主力?
 ――――まだ直ぐに判断しちゃ駄目。
 震動があらゆる情報を伝える。
 情報はあらゆる情報を伝えてしまう。
 1人、別働が居る。冷静になれば、4人分の震動は感知しやすい。たった1人だけが……宙に浮いているかのように、『何も感じられない』のだ。人間の形をした何かが中空を移動しているイメージ。
 4人……移動。連携。無口。ハンドシグナルか。見えない空間……即ち、距離も計れない。動けば死体に躓いてしまう。頻繁な移動を妨げている。
 『連中』からすれば感覚と機動力を塞いだ空間に玲子を誘い込んだと思っているだろう。
 玲子も自分が誘い込まれたと悟った。
 それで絶望するのは早い。予想外も想定内。その場での事態に即興で作戦を立案するのも職掌の範囲だ。
 今までそうだった。これからもそうだ。生きていれば。
 玲子、微動だにしない。
 近付く。震動の波が強くなる。鼓膜が針で突付かれるように痛い。
 瞑目したまま玲子の構えるコルトピースキーパーの銃口がすう、と左手側へ動く。左前30度ほどの角度。
 唐突に発砲。発砲するのなら今しかないと自分に言い聞かせた結果だ。
 弾き出された357マグナムの半被甲弾は紙魚の湧いた襖を突き破ってその向こう……推定3mほど向うに居る人物に命中した。
 命中した音を聞いた。
 水分の多い粘土が詰まった皮袋に銃弾を叩き込んだようなダイラタンシーな破裂音。被弾したその『物体』はその場から後方へ吹っ飛ぶ……ような音を聞いた。
 激しい銃声の音響で鼓膜が破裂しそうだ。
 拍動が跳ね上がる。
 顔を顰める。
 それでも尚もその場から頑なに両足を固定したまま。
 『見えないのは自分だけ』だと仮定した場合、移動すれば足元は死体にとられて転倒する。
 元から目も耳も封じられているのに等しいので大した距離は把握できない。使い捨てマスク必須の条件なので口元の邪魔なマスクは外せないので大量の酸素を必要とする行動はできない。
 この場から大きく移動しないと決めたのだ。
 この8畳間で、4方向に襖しか遮蔽のない部屋で銃を両手で構えたままだ。
 反撃が熾烈だった。
 耳鳴りが席捲する世界で視界に入る全てがスローモーションに移る。玲子は体を、衣服が汚れるのも構わずに仰向けに倒れて両足と左手で受身を取って能動的に倒れたダメージを軽減させた。
 その頭上を銃弾が舐める。襖にミシンで縫ったような孔が開く。短機関銃の掃射。玲子が追ってきた襲撃者たちが携行している短機関銃とは違う。
 発射速度と銃声から違いが分かる。
 襲撃者たちが持っていたのはH&K。今の銃声は32口径のVz61スコーピオン。大型拳銃のように小型の短機関銃で反動も軽いのであらゆる国であらゆるコピーが今でも作られている名作だ。
 ――――新手!
 ――――『マグナムじゃない!』
 引き剥がすように地面から両足――かかと、脛、太腿の順で――剥がす。左手側に体を2回側転。埃がもうもうと立つ。軽快な銃声がなおも続く。3方向を完全に遮蔽し、1方向を半分遮蔽している襖が頼もしいが邪魔。
 遮蔽とは弾除けの防弾板ではない。その場に誰が潜んでいるか分からない状況を作り出すのが最大の効果なのだ。現在の状況で謂えば、2人――或いは3人――が短機関銃で矢鱈滅多らと朽ちた襖に孔を開けているが、それは襖が視界を完全に塞ぎ、ほんの3m向うに居る玲子の位置を探れないから。
 そして、玲子からすれば、好き勝手に銃弾を浴びせてくる奴らの正確な位置が襖によって全く掴めないので邪魔だった。
 玲子は左手で尻ポケットからアーミーナイフを取り出して器用に片手で缶切りのファンクションを跳ね起こすと、左手が届く範囲の風化してカサカサに乾いている畳を乱暴に掻き毟った。
 畳の表が更に埃を舞い上げて伊草を撒き散らす。
 更に転がりながら、32口径の洗礼を受けながら、激しい塵埃に涙目になりながら、畳をアーミーナイフの缶切りで掻き毟る。
 相手は2人乃至3人。今し方確かに1人倒した。短機関銃の銃声は3挺分。とすれば、残りの1人を6発以上の357マグナムを装填できる拳銃を持った人間だと仮定して行動した方がいい。
 自分は襖越しに……障害物越しに標的を仕留めた。
 相手も同じ事かそれ以上の事が出来ると想定するのは当たり前だ。その曲芸じみた射撃は玲子だけの専売ではない。
「!」
 ――――あ、やっぱり。
 自分がこの部屋に侵入してきた折に入ってきた場所……大きく半分開いた襖の向こうに小さな赤い光が見えた。
 赤外線暗視装置。
 暗闇でも僅かな光源を増幅させてそこから覗ける世界を夕方程度の明るさに調整する装置だ。
 先ほどコルトピースキーパーで仕留めた男と思しき死体の頭部付近にそれが落ちていた。
 玲子は衣服が塵埃と荒れた畳の表で汚れるのも気にせず、赤外線暗視装置を装備した死体まで這う。目標はその大層、便利な機械ではない。
 『その方向、そのもの』に用が有る。
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