ブギーマンと弔えば
誰かがまだ廃屋の内部で居る。
居るに違いない。
その後も何度も赤外線暗視装置対策として小さな光量のマッチの灯かりで辺りを伺った。
フラッシュライトの光量は強過ぎて赤外線ゴーグルに直ぐに感知されてしまう。辺りを満遍なく優しく照らすのに、マッチは最適だった。ライトと違って一方向に強い光を照らすことは出来ないからだ。この廃屋に潜んでいるであろう人物が人間の体温を感知して行動する特殊な装置を使っているのなら話しは別だろうが、それだと壁やドアなどの障害物が多すぎて大した成果は挙げられないと思われる。
「あ」
使い捨てマスクの下で唇がそのように形を作った。
臭いだ。
この廃屋の中を席捲している硝煙と血の臭いそのものが障害物だ。
廃屋の内部を探索中に気付いた。
――――しまった!
使い捨てマスク。防げない臭い。舞う埃。暗闇。マッチでしか得られない光源。足元は死体と云う形をした障害物だらけ。
右手のコルトピースキーパーを咄嗟に両手で構える。足元にマッチ軸を落とす。
玲子の冷や汗が最高潮に吹き出る。
本当に気温が下がったような寒気。……『自分ならそうする。自分なら、このようにして【誘い込む】』。
嘗ての廃ビルでコルトパイソンの遣い手を葬った時と全く同じだ。
自分と同じ手法を用いる人間が居る。
自分と同じ作戦を立てる人間が居る。
ならば、無駄な発砲は命取りだ。
無駄に発砲させる事が目的だと直感する。
『自分もそうする』。
暗闇に近い環境では、瞬間的に空間全体を照らす派手な銃火は自分の位置を知らせるようなものだ。自分から積極的に行動するのは危険しかない。
それを鑑みても、廃屋1階のほぼ中央の10畳間まで探索を続けたのは間違いだ。直ぐに撤退するべきだ。直感が耳元で囁く。
ここでいつまでも居るつもりなのか?
と、『誰かが耳元で囁く』。
玲子は左肘鉄を繰り出した後、隙を与えず、左軸足で後方を確認せずに右後ろ蹴りを繰り出す。予備動作の無い完璧に近い体術。左肘と右足裏が虚しく空を切る。
ブルゾンの裾をはためかせ、今度は右軸足で大きなモーションで左足刀を鋭く放つ。
「おお、怖い怖い」
男の声。
『先ほど、耳元で、【ここでいつまでも居るつもりなのか?】 と囁いたのと同じ声』だ。
若い男。
気配も呼吸も衣擦れも感じさせず、聞こえさせず、玲子の背後に近寄り、左耳の耳元で囁いた。
その男が囁いたタイミングと直感が囁いたタイミングが同じで囁いた内容も同じだったので軽い解離感を覚えたのだ。
気配との同一化。他人の気配に介入するほど『気配を感じさせない』存在。
「……!」
玲子は振り向いて銃口を上下左右に走らせるが、何処にも姿は見えない……否、見えようはずが無い。
廃屋の内部で光源はほとんど期待できぬほどの暗さ。
気配の感知を一切遮断させるかのごとく、ノイズが漂う。
ノイズ――塵埃、硝煙と血の臭い――が多い。
右足のつま先がかすかに動くが、直ぐに膝下に力を入れて踏み止まる。
何処の誰かは知らないが、彼女の命を弄んでいる。
今直ぐにきびすを返して遁走しようものなら背後から撃たれる。……確実に。
相棒を握る両手――咄嗟にカップ&ソーサーで保持――に汗が異常に吹き出る。緊張が高まって鳩尾の辺りが冷たくなる。喉の強烈な違和感が小癪。足の裏に脂汗が沁み出すのを感じる。使い捨てマスクの下の鼻と口は少しでも酸素を貪ろうとする。
マスクを捨てれば問題は解決……しない。今度は塵埃と不快な空気を吸い込み、咳き込むだろう。今でも目の粘膜が埃に晒されて薄く涙が浮いている。
具体的な生理的不快感。逃げ出したい願望とそれが出来ない理由。新鮮な空気を求めるか、命を求めるか。
酸素が心許無いボンベを背負ったまま水中に沈められた気分だ。手足は自由に動くことが、更に心理的側面の思考にノイズを発生させていた。逃げたければ自由にどうぞ。逃げれば撃つ。
どちらを向いても、何を見ても常に選択を迫られている。
鎌掛け。ブラフ。はったり。韜晦。
あらゆる要素がこの廃屋の中に混在していた。
呼吸が荒くなる。
今度から使い捨てマスクは最高級の使い捨てマスクにしようと決める。意識して呼吸を抑えることに務める。過呼吸を起こす危険性が非常に高くなってきた。
暗闇に銃口を向けたまま動けない。耳鳴りがしそうなほどに静まり返った空間。足に根が生えたように動けない。動けないのか動かないのか動くと云う選択肢を放棄したのか。
――――何処?
――――誰?
――――何人?
――――1人?
――――随分とヒトが悪いようで……。
前髪の間から流れ落ちた汗の粒が眉間を通り、鼻筋を通過して、使い捨てマスクの表面を滑って床にポタリと落ちる。
時間の感覚すら麻痺してきた。
哲学や自問自答に陥るだけの時間が過ぎたような気がする。
もしかしたら、先ほど、肘鉄から蹴りを繰り出して背後を向いて銃口を向けてから数秒しか経過していないのかもしれない。
時間感覚の失調。暗く、呼吸が苦しく、閉塞し狭窄し、思考が鈍り予期不安だけが膨らむ条件。
廃屋の外は既に世界が滅んでいて、この僅かな空間だけがこの世で一番の、そして唯一の生存圏だと思い至るイメージ。
正体不明。得体が知れない。何もかもが知れない……。
その原因の一つに気が付くのは、右耳に引っ掛けたインカムから聞こえた電子的なノイズ――聴覚で捉えられる文明の、電子の音――が一気に玲子を正気に戻した。
インカム。今まで耳に引っ掛けていたのに全く聞こえなかった。……聞こえなかったのではなく、何らかのジャミングで遮断されていたと看做すべきだろう。
「!」
世界が一瞬で『明るくなった』。
暗い視界。不快な空気。静か過ぎる屋内。
それは何も変わらない。彼女の思考の方向が彼女本来の方向に訂正されたのだ。
暗ければ、不快ならば、静か過ぎるのなら、自分なら『何をどのようにしてどうなる事を狙う? 願う? 目論む?』 その条件を相手側から見れば、『何をどのようにセッティングすれば何処の誰がどのような負のスパイラルに陥って狙った位置に陥るか、思考に至るか、行動に出るかを考えるだろう』。
問題の解決方法は大方の場合三つしかない。
問題の細分化、類似する問題との比較、そして、視点を変える。
視点だ。
自分はこのような性格だからこの方法しか知らない、では二流三流だ。
違う視点への切り替えは、確かに難しい。
自分だからその視点なのであって、それ以外の視点に自由に切り替えられるのならそれは自分と云う視点、即ち、個性ではない。
普通は誰もがそう考える。そこを切り替える練習を積むことによって後天的に会得することは十分可能だ。
例えば、玲子のように。
自分とは違う、180度違う思考に置き換える。
自分と30度、60度、240度などの違う角度なら難しいが、正反対の視点である180度違う視点に立つのは簡単だ。
『自分がそれを仕掛けられると参ってしまう方法』を考えればいい。
この状況に誘い込むには、自分ならどうするか? 自分ならどのアプローチを用いるか? 自分ならどこで止めを刺すか?
インカムのジャミングまみれの小さな雑音が異質なものとして過度に集中する脳に刺激を与えたのだ。
居るに違いない。
その後も何度も赤外線暗視装置対策として小さな光量のマッチの灯かりで辺りを伺った。
フラッシュライトの光量は強過ぎて赤外線ゴーグルに直ぐに感知されてしまう。辺りを満遍なく優しく照らすのに、マッチは最適だった。ライトと違って一方向に強い光を照らすことは出来ないからだ。この廃屋に潜んでいるであろう人物が人間の体温を感知して行動する特殊な装置を使っているのなら話しは別だろうが、それだと壁やドアなどの障害物が多すぎて大した成果は挙げられないと思われる。
「あ」
使い捨てマスクの下で唇がそのように形を作った。
臭いだ。
この廃屋の中を席捲している硝煙と血の臭いそのものが障害物だ。
廃屋の内部を探索中に気付いた。
――――しまった!
使い捨てマスク。防げない臭い。舞う埃。暗闇。マッチでしか得られない光源。足元は死体と云う形をした障害物だらけ。
右手のコルトピースキーパーを咄嗟に両手で構える。足元にマッチ軸を落とす。
玲子の冷や汗が最高潮に吹き出る。
本当に気温が下がったような寒気。……『自分ならそうする。自分なら、このようにして【誘い込む】』。
嘗ての廃ビルでコルトパイソンの遣い手を葬った時と全く同じだ。
自分と同じ手法を用いる人間が居る。
自分と同じ作戦を立てる人間が居る。
ならば、無駄な発砲は命取りだ。
無駄に発砲させる事が目的だと直感する。
『自分もそうする』。
暗闇に近い環境では、瞬間的に空間全体を照らす派手な銃火は自分の位置を知らせるようなものだ。自分から積極的に行動するのは危険しかない。
それを鑑みても、廃屋1階のほぼ中央の10畳間まで探索を続けたのは間違いだ。直ぐに撤退するべきだ。直感が耳元で囁く。
ここでいつまでも居るつもりなのか?
と、『誰かが耳元で囁く』。
玲子は左肘鉄を繰り出した後、隙を与えず、左軸足で後方を確認せずに右後ろ蹴りを繰り出す。予備動作の無い完璧に近い体術。左肘と右足裏が虚しく空を切る。
ブルゾンの裾をはためかせ、今度は右軸足で大きなモーションで左足刀を鋭く放つ。
「おお、怖い怖い」
男の声。
『先ほど、耳元で、【ここでいつまでも居るつもりなのか?】 と囁いたのと同じ声』だ。
若い男。
気配も呼吸も衣擦れも感じさせず、聞こえさせず、玲子の背後に近寄り、左耳の耳元で囁いた。
その男が囁いたタイミングと直感が囁いたタイミングが同じで囁いた内容も同じだったので軽い解離感を覚えたのだ。
気配との同一化。他人の気配に介入するほど『気配を感じさせない』存在。
「……!」
玲子は振り向いて銃口を上下左右に走らせるが、何処にも姿は見えない……否、見えようはずが無い。
廃屋の内部で光源はほとんど期待できぬほどの暗さ。
気配の感知を一切遮断させるかのごとく、ノイズが漂う。
ノイズ――塵埃、硝煙と血の臭い――が多い。
右足のつま先がかすかに動くが、直ぐに膝下に力を入れて踏み止まる。
何処の誰かは知らないが、彼女の命を弄んでいる。
今直ぐにきびすを返して遁走しようものなら背後から撃たれる。……確実に。
相棒を握る両手――咄嗟にカップ&ソーサーで保持――に汗が異常に吹き出る。緊張が高まって鳩尾の辺りが冷たくなる。喉の強烈な違和感が小癪。足の裏に脂汗が沁み出すのを感じる。使い捨てマスクの下の鼻と口は少しでも酸素を貪ろうとする。
マスクを捨てれば問題は解決……しない。今度は塵埃と不快な空気を吸い込み、咳き込むだろう。今でも目の粘膜が埃に晒されて薄く涙が浮いている。
具体的な生理的不快感。逃げ出したい願望とそれが出来ない理由。新鮮な空気を求めるか、命を求めるか。
酸素が心許無いボンベを背負ったまま水中に沈められた気分だ。手足は自由に動くことが、更に心理的側面の思考にノイズを発生させていた。逃げたければ自由にどうぞ。逃げれば撃つ。
どちらを向いても、何を見ても常に選択を迫られている。
鎌掛け。ブラフ。はったり。韜晦。
あらゆる要素がこの廃屋の中に混在していた。
呼吸が荒くなる。
今度から使い捨てマスクは最高級の使い捨てマスクにしようと決める。意識して呼吸を抑えることに務める。過呼吸を起こす危険性が非常に高くなってきた。
暗闇に銃口を向けたまま動けない。耳鳴りがしそうなほどに静まり返った空間。足に根が生えたように動けない。動けないのか動かないのか動くと云う選択肢を放棄したのか。
――――何処?
――――誰?
――――何人?
――――1人?
――――随分とヒトが悪いようで……。
前髪の間から流れ落ちた汗の粒が眉間を通り、鼻筋を通過して、使い捨てマスクの表面を滑って床にポタリと落ちる。
時間の感覚すら麻痺してきた。
哲学や自問自答に陥るだけの時間が過ぎたような気がする。
もしかしたら、先ほど、肘鉄から蹴りを繰り出して背後を向いて銃口を向けてから数秒しか経過していないのかもしれない。
時間感覚の失調。暗く、呼吸が苦しく、閉塞し狭窄し、思考が鈍り予期不安だけが膨らむ条件。
廃屋の外は既に世界が滅んでいて、この僅かな空間だけがこの世で一番の、そして唯一の生存圏だと思い至るイメージ。
正体不明。得体が知れない。何もかもが知れない……。
その原因の一つに気が付くのは、右耳に引っ掛けたインカムから聞こえた電子的なノイズ――聴覚で捉えられる文明の、電子の音――が一気に玲子を正気に戻した。
インカム。今まで耳に引っ掛けていたのに全く聞こえなかった。……聞こえなかったのではなく、何らかのジャミングで遮断されていたと看做すべきだろう。
「!」
世界が一瞬で『明るくなった』。
暗い視界。不快な空気。静か過ぎる屋内。
それは何も変わらない。彼女の思考の方向が彼女本来の方向に訂正されたのだ。
暗ければ、不快ならば、静か過ぎるのなら、自分なら『何をどのようにしてどうなる事を狙う? 願う? 目論む?』 その条件を相手側から見れば、『何をどのようにセッティングすれば何処の誰がどのような負のスパイラルに陥って狙った位置に陥るか、思考に至るか、行動に出るかを考えるだろう』。
問題の解決方法は大方の場合三つしかない。
問題の細分化、類似する問題との比較、そして、視点を変える。
視点だ。
自分はこのような性格だからこの方法しか知らない、では二流三流だ。
違う視点への切り替えは、確かに難しい。
自分だからその視点なのであって、それ以外の視点に自由に切り替えられるのならそれは自分と云う視点、即ち、個性ではない。
普通は誰もがそう考える。そこを切り替える練習を積むことによって後天的に会得することは十分可能だ。
例えば、玲子のように。
自分とは違う、180度違う思考に置き換える。
自分と30度、60度、240度などの違う角度なら難しいが、正反対の視点である180度違う視点に立つのは簡単だ。
『自分がそれを仕掛けられると参ってしまう方法』を考えればいい。
この状況に誘い込むには、自分ならどうするか? 自分ならどのアプローチを用いるか? 自分ならどこで止めを刺すか?
インカムのジャミングまみれの小さな雑音が異質なものとして過度に集中する脳に刺激を与えたのだ。