ブギーマンと弔えば
玲子のように市井に紛れて人目を憚って生きている人間は、明るい世界の住人と同じライフスタイルを取り入れて生きることも重要なスキルだった。
生活のリズムが一定でない。
それだけで近隣住民からは奇異な目で見られる。
生活のリズムを一定にさせるために最も有効なのは、『勤務先で勤務している事実』だ。玲子は『護り屋』を専門とする『会社』……表向き、中小企業。虚実様々な書類を用いて、実際に営業実績と実態の有る総合商社を偽装している。
『会社』が雇っている公認会計士や弁護士は明るい世界の住人なので『会社』の実態を知らない。
社員全員、闇社会の住人。
小規模な総合商社の皮を被ったアンダーグラウンドのボディガードも請け負う総合事業者。
社員全員がお互いの顔を知っていても本名を知らない。
玲子も14歳で家出をしてから本名を名乗ったことは無い。
役所の戸籍や住民基本台帳を借金して買った。その借金の支払方法として荒事師じみた選択をしただけだ。
もう、どれくらい前になるか。
14歳で家を出て路頭を迷っている最中に『誰にも邪魔されない』新しい住処と『誰にも認識されない』名前が欲しくて、手っ取り早く春をひさいで金を稼ごうと思った。
その金で一人で生きていくのに必要な金を全額稼ごうと、今から考えれば無謀で浅はかな考えで行動していた。
藤枝玲子と名乗る前の少女は、人身売買組織に自ら売りに出向く。
普通はその時点で『おかしい』。普通ではない。明らかに『おかしい』。
怪訝な顔の、路上のスカウトマン。
そのスカウトマンを押し退けて地回りの準幹部がやってきて、一言、命令した。
上下関係も契約関係も無い状態で、『その命令』を下したのた。
日中の、冬の往来の真ん中で後に藤枝玲子と名乗る前の少女は迷わず、全裸寸前まで衣服を脱いだ。秋の風も過ぎて季節は冬に入ろうかと云う季節にだ。衆人環視の中でもお構いなしに、だ。
それを見た準幹部は直ぐに彼女をスカウトした。
人身売買のタネとしてではなく、『磨けば光る逸材』として。
後から聞かされて分かったことだが、手広く人身売買組織を請け負っている組織はそのタネ――売り物になる可能性が有る人間――が何に使えるか否かを大雑把に判別する為に突然理不尽な命令を押し付ける事が有るという。
衣服を脱ぐことに迷えば調教のし甲斐が有る売り物に。
衣服を脱ぐことに躊躇わなければ従順な駒に。
今から思えばあの時が分岐点だったのだろう。
従順な駒……つまり、幼い姿をした殺し屋として一通りの訓練を受けさせられた。
新しい自分の名前と静かな自分の部屋を与えられて、三食に困らない環境。
自分を育てたのは何処の誰でどんな目的が有ったのかは不明。毎日顔を合わせていた――今から考えると非合法な組織としては大手の社員――男の名前も素性も知らない。
そこには自分と同じような境遇の子供がたくさん居たが、誰しもが同じ目的――新しい名前と静かな部屋――が欲しくて集められた者ばかりなので口を噤み、耳を塞いで、目を閉じたように他人に無関心だった。
何者にも侵される事の無い領域はそれだけで、彼ら彼女たちにとっては宝石よりも高価だった。
藤枝玲子という名前を与えられて、暫く経過した頃、彼女を買い取ると云う話が持ち上がったらしく、右から左へと移動するように玲子と名乗り出した少女は新しい住処へ移住させれた。不満は無い。そこが静かな空間なら。
後で分かった……と云うより、悟ったことだが、これは簡単な『条件付け』だったのだ。
名前と部屋を欲しがっている子供だけを集めて、『それ』――静かな環境を約束――を与え続けると、引き換え条件や命令や恐喝や薬物無しでも自ら率先して『その名前と部屋を守ろうとする』。
従って、名前と部屋を与えてくれた人間の言うことを聞いているうちは安心感に包まれている。
それを侵害しようとするものが現れれば実力で全力で排除しようとする心理が働く。
これを一般的に社会心理学で『自由への脅威』という。
彼ら彼女たちの心は知らぬ間に操られていた。
玲子もその一人だった。
幸か不幸か、玲子を買い取った組織は半年と経たずに内部分裂で瓦解し、止めに司直の手が入って解体された。
逃走に成功した玲子。当時20歳。
便宜上の誕生日は別。
自分の生い立ちすら曖昧になるほど、『その過酷な裏の世界は彼女にとって、居心地の良い世界だった』。
ほんの10年前までとある組織で飼われていた殺し屋だった。
その過去も今では完全に鳴りを潜めて、一般常識を活かしている市民として日常の風景に溶け込んでいる。一般常識や教養も、嘗ての彼ら彼女らが殺人術と同じく学ばなければならないスキルだった。さもなくば簡単に身分がバレて返り討ちに遭う。
今、テーブルで、ホッケを齧りながら白飯を胃袋に送りこんで幸せな表情を浮かべている彼女にも壮絶な過去があった。
過去がどうであれ、今を生きているのは自分なのだ。自分は過去には生きていない。
過去からは教訓を学び経験を積み、視野を広くする基礎を学んだ。それらを利用、応用、変化、展開するのは今とこれからの自分だ。
基礎は基礎でしかないが、それらを用いれば自力で自分の部屋を持つ事ができる。嘗て、家出をして少々後悔が混じった思いをしていたが、今では瑣末なことだ。
今はどうだ。今は与えてもらった名前で自分の部屋を持って、維持をするだけの労働に勤しめる身分に居る。
空腹に怯えないで生きている自分が居る。
それだけで自分で自分を褒めたい。
人殺しでしか活かされないと思っていた技術を上手く転用しただけで全く逆の『護り屋』と呼ばれる、人の命を守る職場で役に立っている。
明るい世界に背を向けた住人でも、そこには人間の営みが有る。
人間らしい生活を忘れた裏世界の住人ほど早く姿を消すのも既に学習済みだからだ。
玲子はつくづく、現在の自分は運がいいと思っている。
もしも玲子を観察している人間が居たのなら、玲子は上手く世を渡り、処世に長けた都市型サバイバルの達人だと思うだろう。……彼女自身は違う。運が悪ければ家出をする前に両親のネグレクトで死んでいたと思っている。
今となっては自分にきょうだいが何人居たのか、家の間取りはどうだったのか、両親の顔は、殆ど思い出せない。
過ぎたことはどうでもいい。
今まで生きる事が出来てきた事実に感謝し、これからも社会の歯車として生きていきたいと思っている。
過ぎた話より、今のホッケが最優先だ。
昔話では空腹は満たされない。
昔は辛かったが、紆余曲折が有って現在の自分が居る。
それだけで十分だ。何より、こんな苦労話は何処の誰も経験している。
表だろうが裏だろうが何処の世界の人間も必ず、聞くも語るも耐えられないような過酷な過去や挽回できない問題を背負って生きている。たまたま、玲子は藤枝玲子と名乗る事が出来て、生きる事が出来ているだけのことだ。
時折、自然と微笑みを浮かべる。
焼きたてのホッケと丼の白飯はそれだけで魔法のように幸福感をもたらしてくれる。
香ばしいホッケを熱い白飯で流し込んで大量の生キャベツとトマトを咀嚼して口の中を洗う。
独り暮らしの女性としては少し野性味が強い食生活だが、それで自身が幸せになるのなら全てがOKだ。
どうせ生きるのなら少しでも心豊かに、だ。
生活のリズムが一定でない。
それだけで近隣住民からは奇異な目で見られる。
生活のリズムを一定にさせるために最も有効なのは、『勤務先で勤務している事実』だ。玲子は『護り屋』を専門とする『会社』……表向き、中小企業。虚実様々な書類を用いて、実際に営業実績と実態の有る総合商社を偽装している。
『会社』が雇っている公認会計士や弁護士は明るい世界の住人なので『会社』の実態を知らない。
社員全員、闇社会の住人。
小規模な総合商社の皮を被ったアンダーグラウンドのボディガードも請け負う総合事業者。
社員全員がお互いの顔を知っていても本名を知らない。
玲子も14歳で家出をしてから本名を名乗ったことは無い。
役所の戸籍や住民基本台帳を借金して買った。その借金の支払方法として荒事師じみた選択をしただけだ。
もう、どれくらい前になるか。
14歳で家を出て路頭を迷っている最中に『誰にも邪魔されない』新しい住処と『誰にも認識されない』名前が欲しくて、手っ取り早く春をひさいで金を稼ごうと思った。
その金で一人で生きていくのに必要な金を全額稼ごうと、今から考えれば無謀で浅はかな考えで行動していた。
藤枝玲子と名乗る前の少女は、人身売買組織に自ら売りに出向く。
普通はその時点で『おかしい』。普通ではない。明らかに『おかしい』。
怪訝な顔の、路上のスカウトマン。
そのスカウトマンを押し退けて地回りの準幹部がやってきて、一言、命令した。
上下関係も契約関係も無い状態で、『その命令』を下したのた。
日中の、冬の往来の真ん中で後に藤枝玲子と名乗る前の少女は迷わず、全裸寸前まで衣服を脱いだ。秋の風も過ぎて季節は冬に入ろうかと云う季節にだ。衆人環視の中でもお構いなしに、だ。
それを見た準幹部は直ぐに彼女をスカウトした。
人身売買のタネとしてではなく、『磨けば光る逸材』として。
後から聞かされて分かったことだが、手広く人身売買組織を請け負っている組織はそのタネ――売り物になる可能性が有る人間――が何に使えるか否かを大雑把に判別する為に突然理不尽な命令を押し付ける事が有るという。
衣服を脱ぐことに迷えば調教のし甲斐が有る売り物に。
衣服を脱ぐことに躊躇わなければ従順な駒に。
今から思えばあの時が分岐点だったのだろう。
従順な駒……つまり、幼い姿をした殺し屋として一通りの訓練を受けさせられた。
新しい自分の名前と静かな自分の部屋を与えられて、三食に困らない環境。
自分を育てたのは何処の誰でどんな目的が有ったのかは不明。毎日顔を合わせていた――今から考えると非合法な組織としては大手の社員――男の名前も素性も知らない。
そこには自分と同じような境遇の子供がたくさん居たが、誰しもが同じ目的――新しい名前と静かな部屋――が欲しくて集められた者ばかりなので口を噤み、耳を塞いで、目を閉じたように他人に無関心だった。
何者にも侵される事の無い領域はそれだけで、彼ら彼女たちにとっては宝石よりも高価だった。
藤枝玲子という名前を与えられて、暫く経過した頃、彼女を買い取ると云う話が持ち上がったらしく、右から左へと移動するように玲子と名乗り出した少女は新しい住処へ移住させれた。不満は無い。そこが静かな空間なら。
後で分かった……と云うより、悟ったことだが、これは簡単な『条件付け』だったのだ。
名前と部屋を欲しがっている子供だけを集めて、『それ』――静かな環境を約束――を与え続けると、引き換え条件や命令や恐喝や薬物無しでも自ら率先して『その名前と部屋を守ろうとする』。
従って、名前と部屋を与えてくれた人間の言うことを聞いているうちは安心感に包まれている。
それを侵害しようとするものが現れれば実力で全力で排除しようとする心理が働く。
これを一般的に社会心理学で『自由への脅威』という。
彼ら彼女たちの心は知らぬ間に操られていた。
玲子もその一人だった。
幸か不幸か、玲子を買い取った組織は半年と経たずに内部分裂で瓦解し、止めに司直の手が入って解体された。
逃走に成功した玲子。当時20歳。
便宜上の誕生日は別。
自分の生い立ちすら曖昧になるほど、『その過酷な裏の世界は彼女にとって、居心地の良い世界だった』。
ほんの10年前までとある組織で飼われていた殺し屋だった。
その過去も今では完全に鳴りを潜めて、一般常識を活かしている市民として日常の風景に溶け込んでいる。一般常識や教養も、嘗ての彼ら彼女らが殺人術と同じく学ばなければならないスキルだった。さもなくば簡単に身分がバレて返り討ちに遭う。
今、テーブルで、ホッケを齧りながら白飯を胃袋に送りこんで幸せな表情を浮かべている彼女にも壮絶な過去があった。
過去がどうであれ、今を生きているのは自分なのだ。自分は過去には生きていない。
過去からは教訓を学び経験を積み、視野を広くする基礎を学んだ。それらを利用、応用、変化、展開するのは今とこれからの自分だ。
基礎は基礎でしかないが、それらを用いれば自力で自分の部屋を持つ事ができる。嘗て、家出をして少々後悔が混じった思いをしていたが、今では瑣末なことだ。
今はどうだ。今は与えてもらった名前で自分の部屋を持って、維持をするだけの労働に勤しめる身分に居る。
空腹に怯えないで生きている自分が居る。
それだけで自分で自分を褒めたい。
人殺しでしか活かされないと思っていた技術を上手く転用しただけで全く逆の『護り屋』と呼ばれる、人の命を守る職場で役に立っている。
明るい世界に背を向けた住人でも、そこには人間の営みが有る。
人間らしい生活を忘れた裏世界の住人ほど早く姿を消すのも既に学習済みだからだ。
玲子はつくづく、現在の自分は運がいいと思っている。
もしも玲子を観察している人間が居たのなら、玲子は上手く世を渡り、処世に長けた都市型サバイバルの達人だと思うだろう。……彼女自身は違う。運が悪ければ家出をする前に両親のネグレクトで死んでいたと思っている。
今となっては自分にきょうだいが何人居たのか、家の間取りはどうだったのか、両親の顔は、殆ど思い出せない。
過ぎたことはどうでもいい。
今まで生きる事が出来てきた事実に感謝し、これからも社会の歯車として生きていきたいと思っている。
過ぎた話より、今のホッケが最優先だ。
昔話では空腹は満たされない。
昔は辛かったが、紆余曲折が有って現在の自分が居る。
それだけで十分だ。何より、こんな苦労話は何処の誰も経験している。
表だろうが裏だろうが何処の世界の人間も必ず、聞くも語るも耐えられないような過酷な過去や挽回できない問題を背負って生きている。たまたま、玲子は藤枝玲子と名乗る事が出来て、生きる事が出来ているだけのことだ。
時折、自然と微笑みを浮かべる。
焼きたてのホッケと丼の白飯はそれだけで魔法のように幸福感をもたらしてくれる。
香ばしいホッケを熱い白飯で流し込んで大量の生キャベツとトマトを咀嚼して口の中を洗う。
独り暮らしの女性としては少し野性味が強い食生活だが、それで自身が幸せになるのなら全てがOKだ。
どうせ生きるのなら少しでも心豊かに、だ。