ブギーマンと弔えば
和緒(かずお)の右手から轟音と共に火箭が尾を引いて長く伸びる。目前に咲く銃火の輪。……深夜の廃ビルの廊下での出来事。間違いなく、殺意を込めた銃弾。
和緒の右手では撃発の反動で大きく銃口が跳ね上がったコルトパイソンが主張豊かにシルバーの肌を月夜に晒していた。
窓から差し込む月光が和緒の2.5インチ銃身の先端からフレーム、シリンダー、ハンマーまで、ゆっくりと嘗め尽くす。ゆらりと打ちっぱなしの天井に不定形なハレーションを描く。
「……」
銃声が20㎡程度の会議室と思しき室内で反響する。
和緒は耳栓をしていなかった事を悔やんだ。鼓膜に響く。聞き慣れた銃声であっても、状況によっては自分を『攻撃』する。銃火器は万能の道具ではない諸刃の剣の一面も持ち合わせる。
今のように、狭い空間で357マグナムを発砲すれば、その轟音は140デジベルから170デジベルに達する。残念なことに人間の鼓膜は130デジベルで激痛を覚える。
人体の閾値をとうに超えた銃声が狭い空間で炸裂したのだ。耳栓を欲するのも理解できる。
更に、硝煙。それ自体は雷管を叩いた時に発生する発射残渣の一部でしかない。問題は銃口やシリンダーギャップから勢いよく溢れ出る高熱のガスと衝撃波だ。
その衝撃波が室内の床に積もっていた塵埃を巻き上げた。
「…………」
左腕で思わず鼻と口を覆う。近年流行中の疫病禍で取り沙汰される使い捨てマスクを携行していなかったのが裏目に出る。
彼女自身は使い捨てマスクについては反対でも肯定でもない。市井に紛れるのが容易になるのでそれはそれで歓迎していた。その使い捨てマスクを忘れた上に耳栓まで失念。
更に、右手だけで保持する357マグナムの短銃身リボルバーは予想以上に疲労を招く。
背中に脂汗がびっしりと浮かぶ。
台風の季節が終わって、殺人的暑さも一段落が着いた季節のとある深夜。
とある廃ビルの一室。
自分を追跡してくる『敵』を追い払う為に発砲したのではない。『殺すつもりで』発砲したのだ。その必殺の銃弾が外れた。
黴臭さと湿度を帯びた不快な空気が肺に大量に流れ込んでくる。自身を落ち着かせるために大きく呼吸をした。なのに塵埃を含んだ外気を取り込んでしまい、咳き込みそうになる。泣きっ面に蜂の思いに陥る。
暗い。
ガラスが全て割れた窓から差し込む月明かりだけが頼み。翳る部分には全て『敵』が潜んでいるのだと警戒する。
沈吟。和緒は緩やかな夜風に肩下まである黒髪の先端が揺れるのを衣服越しに感じてしまうほどに動作を停止した。
――――おかしい。
――――『気配だらけ』……。
この廃ビルに『敵』を誘い込んだのは確か。郊外の旧繁華街にある廃ビル。
人気が絶えて久しい。
この地区一帯が、廃屋が軒を並べる、区画整理待ちの地区。そこへ……そこに有る廃ビルへと上手く誘い込んだはず。飽く迄イニシアティブは和緒の手中にある。あるはずだと信じている。
なのに、このビルへ誘い込んだ『敵』の数が判然としない。その戦力だけでなく腕前も。強烈な違和感。ボタンを一つ掛け違えたままの服で出歩くような違和感。
暗闇、暗がり、夜陰、物陰……そこかしこに『敵』が潜んでいると『思い込んでいる』自分が居る。
何かが確実におかしい。
自分は確かに、追跡してくる敵戦力に備えて迎撃態勢を執りやすいこの場所を予め選んでいた。幾つかの撤収ポイントにも通じる廃ビル。言うなれば何もかも予想通りなのに……何もかもに違和感が付きまとう。
先ほどの発砲から10秒以上が経過した。
窓際に立ち尽くし、右手を伸ばし、相棒のコルトパイソンを力強く握る。相手が誰であろうと、防弾チョッキを着ていようと、直線距離20mもないこの戦闘区域で、弾道の直線上に立とうものなら一撃で仕留める自信があった。
陰に潜んで蠢くネズミの群れを狙うような気味の悪さ。
がらんどうのようなコンクリが剥き出しの部屋。壁紙は風化して剥がれ落ちている。床には内装が朽ちて剥がれた資材の欠片。
これだけの空間の窓際で10秒以上も棒立ちで、何処からでも狙い撃ちできる状況を『作り出してやった』のに、銃声の追撃が皆無。
このビルに滑り込むまでは複数の銃声が跡を追ってきた。それを見てニヤリと口角を上げた数十分前の余裕が消えた。
背中と首筋に神経を集中させる。この部位は人間の野性的勘を司る神経が通っている。この部分を活性化させると、あたかも全身がレーダーのように機能する。誰にでも具わっている生理学的な現象だ。停電した途端にパニックに陥らないタイプの人間はこの感覚が優れているといわれている。
――――『敵』の数が掴めない!
戦慄が背中から波紋のように広がり全身を震わせる。『敵』の数も位置も戦力比も何もかもが掴めない。
確かにこの廃ビルの中に潜んでいるのに、確かに暗がりに潜んでいるはずなのに『何も無い』のだ。……それは人ではなく、幽霊を相手にファイティングポーズをとっているような錯覚。
無駄。無駄。無駄。
何もかもが無駄。
だが、無為ではない。
それは無茶ではない。
そして無理なことでもなかった。
祈る思いで引き金を引く。ゆっくりとダブルアクションの重い引き金を引く。『敵』が和緒を仕留める心算ならとっくの昔に仕留めている。……背後から。
シリンダーが6分の1回転。ギリギリとコルトリボルバー独特の作動の感触が掌を伝う。
そして撃発。
威勢良く357マグナムのシルバーチップホローポイントは2.5インチの短い銃身から弾き出される。……銃口を向けた先はこの部屋の出入り口。一番影が濃い部分。確かにそこに何か居る。そこに居なければ何処に何が居ると云うのだ。
轟音。
357マグナムが世界最強の拳銃弾だったのは1920年代後半。今では世界最強から数えてベスト10から外れるほどの威力だが、それでも近距離ならば人間の腕を引き千切るエネルギーを持っている。
広い影に向けて発砲。ドアなどとうの昔に朽ちて床に転がっている。
入り口の影に向けて発砲したが、目的は直接打撃ではない。
「!」
――――居た!
大きく広がったマズルフラッシュが一瞬、部屋全体を明るく浮かび上がらせる。コンマ数秒以下の時間だけ明るくなる。それだけで十分だった。
何もかもがそれだけで十分だったのだ。
和緒は『敵』の姿を初めて目視した。
目視した後の硬直が『長すぎたのだ』。
和緒は次の瞬間には、胸骨のど真ん中を穿かれ、巨大なハンマーで殴り飛ばされたように大の字になって後方へと吹っ飛ばされた。
仰向けに倒れ、目を大きく剥いたままの和緒は血を吐きながら、『何もかもが十分すぎた』結果を受け入れた。
和緒の手負いの山猫を思わせる瞳から精気が静かに消えていく。
黒いスーツを纏った黒髪の麗人がカッターシャツを鮮血で真っ赤に染めて大の字に倒れている。
その様を見下ろす人影。
その人影こそが和緒が打倒すべき『敵』だった。
和緒はこの『敵』を迎撃しなければここで命が尽きると判断した。
だからこそ『自らの意思で無謀な賭けに出た』のだ。
無駄だった。
だが、無為、無茶、無理ではない。
無謀だ。
和緒の右手では撃発の反動で大きく銃口が跳ね上がったコルトパイソンが主張豊かにシルバーの肌を月夜に晒していた。
窓から差し込む月光が和緒の2.5インチ銃身の先端からフレーム、シリンダー、ハンマーまで、ゆっくりと嘗め尽くす。ゆらりと打ちっぱなしの天井に不定形なハレーションを描く。
「……」
銃声が20㎡程度の会議室と思しき室内で反響する。
和緒は耳栓をしていなかった事を悔やんだ。鼓膜に響く。聞き慣れた銃声であっても、状況によっては自分を『攻撃』する。銃火器は万能の道具ではない諸刃の剣の一面も持ち合わせる。
今のように、狭い空間で357マグナムを発砲すれば、その轟音は140デジベルから170デジベルに達する。残念なことに人間の鼓膜は130デジベルで激痛を覚える。
人体の閾値をとうに超えた銃声が狭い空間で炸裂したのだ。耳栓を欲するのも理解できる。
更に、硝煙。それ自体は雷管を叩いた時に発生する発射残渣の一部でしかない。問題は銃口やシリンダーギャップから勢いよく溢れ出る高熱のガスと衝撃波だ。
その衝撃波が室内の床に積もっていた塵埃を巻き上げた。
「…………」
左腕で思わず鼻と口を覆う。近年流行中の疫病禍で取り沙汰される使い捨てマスクを携行していなかったのが裏目に出る。
彼女自身は使い捨てマスクについては反対でも肯定でもない。市井に紛れるのが容易になるのでそれはそれで歓迎していた。その使い捨てマスクを忘れた上に耳栓まで失念。
更に、右手だけで保持する357マグナムの短銃身リボルバーは予想以上に疲労を招く。
背中に脂汗がびっしりと浮かぶ。
台風の季節が終わって、殺人的暑さも一段落が着いた季節のとある深夜。
とある廃ビルの一室。
自分を追跡してくる『敵』を追い払う為に発砲したのではない。『殺すつもりで』発砲したのだ。その必殺の銃弾が外れた。
黴臭さと湿度を帯びた不快な空気が肺に大量に流れ込んでくる。自身を落ち着かせるために大きく呼吸をした。なのに塵埃を含んだ外気を取り込んでしまい、咳き込みそうになる。泣きっ面に蜂の思いに陥る。
暗い。
ガラスが全て割れた窓から差し込む月明かりだけが頼み。翳る部分には全て『敵』が潜んでいるのだと警戒する。
沈吟。和緒は緩やかな夜風に肩下まである黒髪の先端が揺れるのを衣服越しに感じてしまうほどに動作を停止した。
――――おかしい。
――――『気配だらけ』……。
この廃ビルに『敵』を誘い込んだのは確か。郊外の旧繁華街にある廃ビル。
人気が絶えて久しい。
この地区一帯が、廃屋が軒を並べる、区画整理待ちの地区。そこへ……そこに有る廃ビルへと上手く誘い込んだはず。飽く迄イニシアティブは和緒の手中にある。あるはずだと信じている。
なのに、このビルへ誘い込んだ『敵』の数が判然としない。その戦力だけでなく腕前も。強烈な違和感。ボタンを一つ掛け違えたままの服で出歩くような違和感。
暗闇、暗がり、夜陰、物陰……そこかしこに『敵』が潜んでいると『思い込んでいる』自分が居る。
何かが確実におかしい。
自分は確かに、追跡してくる敵戦力に備えて迎撃態勢を執りやすいこの場所を予め選んでいた。幾つかの撤収ポイントにも通じる廃ビル。言うなれば何もかも予想通りなのに……何もかもに違和感が付きまとう。
先ほどの発砲から10秒以上が経過した。
窓際に立ち尽くし、右手を伸ばし、相棒のコルトパイソンを力強く握る。相手が誰であろうと、防弾チョッキを着ていようと、直線距離20mもないこの戦闘区域で、弾道の直線上に立とうものなら一撃で仕留める自信があった。
陰に潜んで蠢くネズミの群れを狙うような気味の悪さ。
がらんどうのようなコンクリが剥き出しの部屋。壁紙は風化して剥がれ落ちている。床には内装が朽ちて剥がれた資材の欠片。
これだけの空間の窓際で10秒以上も棒立ちで、何処からでも狙い撃ちできる状況を『作り出してやった』のに、銃声の追撃が皆無。
このビルに滑り込むまでは複数の銃声が跡を追ってきた。それを見てニヤリと口角を上げた数十分前の余裕が消えた。
背中と首筋に神経を集中させる。この部位は人間の野性的勘を司る神経が通っている。この部分を活性化させると、あたかも全身がレーダーのように機能する。誰にでも具わっている生理学的な現象だ。停電した途端にパニックに陥らないタイプの人間はこの感覚が優れているといわれている。
――――『敵』の数が掴めない!
戦慄が背中から波紋のように広がり全身を震わせる。『敵』の数も位置も戦力比も何もかもが掴めない。
確かにこの廃ビルの中に潜んでいるのに、確かに暗がりに潜んでいるはずなのに『何も無い』のだ。……それは人ではなく、幽霊を相手にファイティングポーズをとっているような錯覚。
無駄。無駄。無駄。
何もかもが無駄。
だが、無為ではない。
それは無茶ではない。
そして無理なことでもなかった。
祈る思いで引き金を引く。ゆっくりとダブルアクションの重い引き金を引く。『敵』が和緒を仕留める心算ならとっくの昔に仕留めている。……背後から。
シリンダーが6分の1回転。ギリギリとコルトリボルバー独特の作動の感触が掌を伝う。
そして撃発。
威勢良く357マグナムのシルバーチップホローポイントは2.5インチの短い銃身から弾き出される。……銃口を向けた先はこの部屋の出入り口。一番影が濃い部分。確かにそこに何か居る。そこに居なければ何処に何が居ると云うのだ。
轟音。
357マグナムが世界最強の拳銃弾だったのは1920年代後半。今では世界最強から数えてベスト10から外れるほどの威力だが、それでも近距離ならば人間の腕を引き千切るエネルギーを持っている。
広い影に向けて発砲。ドアなどとうの昔に朽ちて床に転がっている。
入り口の影に向けて発砲したが、目的は直接打撃ではない。
「!」
――――居た!
大きく広がったマズルフラッシュが一瞬、部屋全体を明るく浮かび上がらせる。コンマ数秒以下の時間だけ明るくなる。それだけで十分だった。
何もかもがそれだけで十分だったのだ。
和緒は『敵』の姿を初めて目視した。
目視した後の硬直が『長すぎたのだ』。
和緒は次の瞬間には、胸骨のど真ん中を穿かれ、巨大なハンマーで殴り飛ばされたように大の字になって後方へと吹っ飛ばされた。
仰向けに倒れ、目を大きく剥いたままの和緒は血を吐きながら、『何もかもが十分すぎた』結果を受け入れた。
和緒の手負いの山猫を思わせる瞳から精気が静かに消えていく。
黒いスーツを纏った黒髪の麗人がカッターシャツを鮮血で真っ赤に染めて大の字に倒れている。
その様を見下ろす人影。
その人影こそが和緒が打倒すべき『敵』だった。
和緒はこの『敵』を迎撃しなければここで命が尽きると判断した。
だからこそ『自らの意思で無謀な賭けに出た』のだ。
無駄だった。
だが、無為、無茶、無理ではない。
無謀だ。
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