熱砂の中へと訪れた

 先ほど、右手をオーバーアクションで大きく振って、遠心力が十分に乗ったところでマグキャッチボタンを押して弾倉を遠心力だけで振り飛ばし、男の顔面に空弾倉を叩き付けたのだ。
 室内に4人しか居ない。4人とも無力化した。結果的に死に至っても今は関係の無い話だ。無力化と致死は違う。
 アドレナリンが最高潮に熱くなる。下腹が熱い。聴覚や視覚が狭窄しているのを感じる。脳内麻薬で感覚が研ぎ澄まされて、新陳代謝が停止する。
 脳内麻薬が噴出して新陳代謝が停止するのは防御反応だ。
 興奮状態に陥ると痛みを感じなくなり、出血量も極端に少なくなる。アドレナリンが精製されるからこそ研ぎ澄まされる感覚と、アドレナリンのお陰で聴覚や視覚が阻害されて正確な判断が下せなくなる。
 どんなに鉄火場を経験していても、マシーンのような脳と心を会得することは今の啓子には無理だった。
 やや肩で息をしながら、ウイーバースタンスでエルマKGP68を構えて隣の部屋に移動する。この部屋に『打撃』を与えれば撤収だ。
 呼吸が少し荒くなる。目が血走っている啓子。
 相手は人間だ。
 こちらが命懸けで鉄砲玉行為を働けば、相手も命懸けの反撃に出る。偶々、啓子の経験と腕前が彼らより上だっただけで、この世には啓子より優れた遣い手は掃いて捨てるほど居る。
 空気の爆発。
 否、震える空気。
 銃声が力士の張り手のように啓子を襲う。
「!」
 部屋を出た途端に一番奥まった部屋から、聞きなれない銃声がした。
 咄嗟に半歩、バックステップ。
「……!」
――――!?
――――痛っ! 熱!
 啓子の顎先や鼻先を何かが浅くかする。負傷は皆無。鼻と顎先の表皮に火傷のような痛みを覚える。
「お。いい勘してるねぇ!」
 そんなおどけた声が聞こえた。
 混乱の極みに嵌るのを防ぐ為に今し方出たばかりの部屋へ戻り、脳内にこのフロアの見取り図を展開する。
 ドアからドアへの距離は12m。
 声の主は一人分。
 得体の知れない特徴的な銃声。
 遣い手を温存していた? 高みの見物でもしていた?
 この街でこれだけ特徴のある銃声を発する銃を使う人間が居るのなら、自分の脳内にデータが蓄積されているはず……。誰?
 発作的にエルマKGP68に新しい弾倉を差し替える。
 左手にも新しい弾倉を保持する。
 室内に有った観葉植物のシュロの木の大きな鉢に銜えていたドライシガーを吐き捨てる。
「!」
――――え!?
 隣室を伺いながら、空弾倉にバラ弾を補弾している最中に隣室との境目の壁に風穴が開く。
 1個や2個ではない。
 6個だ。
 暫くして更に6個の風穴が穿かれる。
 一点に集中した発砲ではない。
 それ自体が強力な弾薬……マグナムの中でも桁違いに大きな破壊力のそれだった。
 マグナムの発砲音なら一通り聞いた事がある。廊下での、この近距離で、聞き間違えるはずは無い。
 廊下で聞いた発砲音はマグナムの銃声ではなかった。
「……!」
――――え、ちょっと待って!
 マグナム以外の銃声が壁に集中している。
 他の構成員も調子に乗っての作戦なのか、風穴目掛けて発砲を繰り返している。
 あたかも削岩機で岩を削るように。
 旧い雑居ビルとはいえ、それなりの建築基準法で建設されている。9mmパラベラム程度では簡単に貫通はしない。
 貫通しても貫通だけで殆どのエネルギーを消費し、負傷させるほどの初活力は維持していない。
 鼻先と顎先がヒリヒリとする。先ほど何かがかすった後が小さな擦過傷として小癪に痛い。
 先ほど銃撃された折に相手側を確認している余裕は無かった。
 部屋へ戻るのが精一杯。
 相手の戦力を分析する為に時間を割いていたら命が危なかっただろう。
 脳内を必死で検索する。
 狭い鉄火場では、相手がどんな銃火器を使っているのかが判明するだけで生存率が上がる場合が多い。鼻先や顎先をかすった『何か』の正体も分からない。何かの破片のようなものが確かに顔面の真正面を高初速で過ぎ去った。
 4秒ほどの逡巡。進むべきか、留まるべきか。
 啓子の思考を邪魔するように隣室から銃声が大きくなる。とうとう握り拳で殴ったような大きな風穴が開く。室内に埃と漆喰の粉が舞う。
「!」
――――仕方ない!
 啓子はこの部屋を飛び出した。
 相手の火器は強力だ。隣室から壁を銃弾でぶち破ってまで揺さぶりをかけているのだから、今はその手に乗ってみる。ここで留まっていても何も好転しない。
 部屋を低い位置から飛び出る。
 腰を低くして膝を折り、頭を低くして前傾の姿勢を取り……部屋を飛び出ると同時に廊下の表面を威勢良く滑りながら、エルマKGP68を隣室側へ突き出す。
 空気が体に纏わりつく。
 エアコンの効いた部屋から一切の空調が聞いていない、空気の流れすらない暑い空気に触れたからそのような錯覚がしたのか、それとも空気自体が水のように大きな抵抗を伴って啓子の行動を阻害したのか。……夏の不快感が全身を飲み込む。
 これ以上ないと思えるほどに素早い瞬発力で廊下に飛び出たのに、『全てがスローモーションのように』見えた。
 知らぬ間に脳内麻薬が限界まで沸騰してきたのだ。
 自分が予想外の方向から銃撃されたと云う事実が大きな引き金になったのだろう。
 壁を砕いて貫通してくる銃撃は経験がない。
 隣室を隔てる壁は、そのものが動かせない大きな遮蔽物だ。そこに在るだけで向うを見渡す事が出来ないので、こちらも相手も見えないからこそ壁以外での駆け引きが始まる。
 その前提の壁に集中した強力な銃撃で孔を開ける発想はなかった。
 特に9mmショートと云う非力な実包を用いる啓子では想像はしていても、実行する事は無いので右斜め上の戦法だといえた。
 人間は予想外や想定外を織り込み済みで行動していても、咄嗟に反応できるか、最適解を導き出せるかは別問題だ。AEDの使い方を知っていても、親しい人が心肺停止するとパニックを起こして喚き散らすことしかできないのと同じだ。
 それを打破すべく、啓子は廊下に滑り出た。
 刹那、彼女は2度引き金を引く。
 空薬莢が弾き出されて壁に当たり、生意気にも涼しそうな音を立てる。
 2発の銃弾は大柄な男の胸と腹部に命中した。
 その男は何が起きたか分からないと云う表情を貼り付けたまま吐血した。手にしていた1911と思しき拳銃が滑り落ちる。
――――拙い!
 途端に背中に氷を押し当てられた感触がする。
 啓子は直ぐに床を蹴って立ち上がり、その大柄な男に向かって走る12mほどの距離。
 男は発砲した。否! 男が発砲したのではない! 咄嗟にその男を突き出して楯にした人間が、男の脇から手を伸ばして銃撃してきた。
「くっ!」
 啓子の左肩が弾けるようにジャケットの生地が吹き飛ぶ。遅れて血が滲み出す。
 残弾5発。再装填の隙は与えてくれないだろう。
 距離を縮めるに連れて相手の得物が判明する。
 タウルスM513ジャッジマグナムの6.5インチ。全長35cm近い巨大な化け物リボルバー拳銃だ。
 口径は410番。散弾銃の実包を主に使う拳銃。口径が共用できるゆえ、454カスールと呼ばれる44マグナム以上に強力なマグナム弾も使える。
 鼻と顎にかすったのは410番口径3インチシェルから放たれた散弾だろう。その時から小さな違和感が湧いていた。優勢にあるはずなのに追撃の次弾が繰り出されない。
8/19ページ
スキ