熱砂の中へと訪れた

 特に安堵はしなかった。相手に対して……人間に対してある種の呵責を覚えていると引き金が鈍くなる。
 啓子は銃を抜いたからには銃で撃たれる可能性も考慮している。
 一方的な暴力を揮えると云う事は、自分以上の使い手が現れると自分が一方的暴力を揮われる対象になると思っているからだ。この世に公平も公正も平等も無い。有るのは老いと病と時間と死だ。
 生まれたからにはこの四つからは逃げられない。
 人は必ず死ぬ。それまでに何故生まれて何を為してどのように死ねたかが重要である。
 それを悟り、『人生の答え合わせ』ができるのは死の間際だけだ。
 虚無と無為の狭間に揺られる毎日だが、啓子としてはそれは余裕の裏返しだと思っている。
 自分を自分で俯瞰できているからこそ、今、自分は虚無だ無為だと感じられる。
 精神的余裕の無い人間は自分を振り返ることもなく、毎日のタスクとスケジュールに追われて息をつく間も無い。或いは、自分の人生には何も無いと悲観してセルフネグレクトを起こしている。
 今、この時間、自分は何もしていない! と強く感じられるのは普段が忙しく顧みる時間も無いからこそ発生する感覚だと思っている。
 その虚無や無為の時間を悲観するか、自らを高く磨く時間として捉えるかは個々人の差が激しすぎるので彼女の意見は介入すべきでない。自分の精神は自分でしかケアできない。
 裏世界の人間だから好き勝手に振舞って、自由に生きる事ができると思うのなら裏世界に憧れなど捨てて表の……明るい世界で生きる事を強く勧める。
 生きるも死ぬも自己責任。
 裏の世界でのみ形成される連環に自ら飛び込んで交友関係を築く対人能力に長けていないと真っ先に死ぬ。
 闇医者の手配、運び屋の伝、武器屋や地下金庫のルート、信用できる情報屋の検索、『尻拭き』してくれる組織の庇護等々。……どれもこれも欠けてはいけない。
 そして暴力しか揮えない人間もまた連環に組み込まれている。荒事のエキスパートとして汚い仕事を引き受ける。それが生業。
 先日撃ち倒した6人の中に自分の顔が転がっている事態も当然予想していた。暴力はたった一人の人間の専売ではない。
 そのような意味では啓子と云う人間は人の命を誰よりも尊重していた。意味も無く致命傷を負わせることも無い。意味も無く命を掻き消すことも無い。優しくは無いが冷たくも無い。
 午前10時30分。本日も度し難い好天。連日、最高気温を更新。
 エアコンの効いた部屋で下着姿で暫しの休息。
 先日は縄張りの見回りと取り引き現場の襲撃を任されたので代休に近い、長い休み時間。
 この暑さで構成員の三下が次々と熱中症で搬送されて、組織の末端や下位組織は深刻な人手不足に陥っている。
 他の組織では夏休みを導入しているところもある。可哀想なのは外国からやってきた新興団体だろう。
 日本に橋頭堡を造ろうと思ってやってきても、日本の四季や地震、台風、梅雨で著しく体調を壊し、どんなに過酷な戦場で経験を積んだ元兵士も近年の夏の気温で熱中症で倒れてしまい、夏は屋外に出ないことを是とする組織が割合多い。
 その結果、エアコンやロスナイで守られた時間が長く、日本人の感情と国民性として、馴染んでいないテレワークやIOTで新規開拓しようにも「物理的な名刺交換ができない相手とは商売ができない」と放言する旧世代の指導者や指揮官が国内の組織の中枢にまだかなり残っているので、地盤を築くのに手こずってっている。
 海外の組織もまさか気温如きで鼻っ柱をヘシ折られるとは思わなかっただろう。
 自室。とはいえ、組織の人間が用意してくれたビジネスホテル。
 中堅組織の庇護を受けている身としては、宿無しは組織のメンツに関わるので非正規雇用であろうと宿を宛がう。
 我が組織はこれくらいの出費はダメージではない、という外部に対するアピールだ。
 啓子は朝からシャワーを浴びてルームサービスのサンドウィッチ2人前を食べたばかりだ。
 シャワーを浴びる前に室内で1時間に及ぶ『独房筋トレ』で存分に汗を流し、全速力のエアジョギングで1時間走る。動いて食べて休む。このローテーションを維持するのは健康志向ではなく、商売道具の体を維持するためのケアだった。
 休日にしか『疲労を取るための疲労』を味わえないのは寂しい限り。日ごろの疲れをストレス発散を兼ねた運動で爽快な汗を流してシャワーで一気に削ぎ落とし、鱈腹食べてベッドで大の字になる。
 この瞬間のために生きていると錯覚。
 この僅かな時間を味わう為に日頃から殺伐とした世界に身を置いているのでは? と難しいことを考え出すが、その時はたいてい、心身ともに十分にリラックスしている最中なので、ほんの十数秒間、思考を働かせようと試みただけで眠りの世界に引き込まれてしまう。
 啓子が叩き起こされたのは午後2時を経過した辺りだ。休暇と云うわけではない。長い休み時間なのでこんなに頭にくる起こされ方もする。
「起きましたか!」
 予想以上に深い眠りに就いていたらしく声の主が誰なのか判然としなかったが、雇ってもらっている組織が宛がってくれた雑用係の女子大生だと30秒経過後に理解した。
 高瀬彩(たかせ あや)。
 確か、そう名乗った。この業界では名乗った名前は一々信じないほうが身のためだ。女子大生と云うのも、宛がった時付き添いだった組織の三下から聞かされた簡単なプロフィールで、恐らく本当のプロフィールではない。
 従って女子大生の高瀬彩を名乗っている、何処かの誰かである可能性が高い。
 啓子自身が他人から金で買った身分を名乗っているので、名前やプロフィールなど、便宜上程度の認識しかしていない。
 確かに若い。
 女子大生どころか女子高生でも通用する瑞々しい雰囲気を感じる。やや目にかかる、薄いブラウンのロングヘアが印象的。今時の女子大生とするなら平均的な体躯。
 身のこなしから、別段、特徴的なスキルを積んでいるとは思えない。指先や重心移動を何度も注意深く観察したが、鉄火場に慣れた人間の形跡は見られない。
 尤も、どんなに警戒しても、世の中には指先でキーボードを叩くだけで社会的に抹殺する形の違う殺し屋や、劇薬物を盛るだけで自然死を偽装する殺し屋も居るので、自分と同じ拳銃使いが常に敵とは限らない。それに、殺したい奴は何が有っても殺しに来る。
「電話もメールも応答が無いので呼びに来ました」
「鍵は?」
 可愛らしく頬を膨らませる彩を横目に、のろのろと起き上がってクローゼットに仕舞ったカッターシャツやスラックスを纏う。最後に、ショルダーホルスターを装備。外出するつもりは無いのでネクタイとジャケットは装備しない。
 ショルダーホルスターからエルマKGP68を抜いて、弾倉を確認。そろそろとコッキングピースを引いて薬室を確認。残弾6発。薬室は空。親指で探って安全装置が安全位置である事を何度も確認する。
 彩はカードキーを無言でひらひらと見せ付ける。フロントのマスターキーのカードだろう。借りてきたか、自由に使える権利を持っているのか?
「で、仕事?」
 まだ少し寝ぼけている頭に活を入れるために、サイドテーブルの上に放り出していたドミニカ製のドライシガーの箱に手を伸ばす。
「仕事です」
「暑い中ご苦労さん」
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