熱砂の中へと訪れた

 バスの運転手の目線を視界の端でずっと追っていたが、訝しげな素振りを見せなかった。それに、暗黙の了解的に通じたのだろうか、先ほどの車内の客も船を漕いでる老婆が2人だけだった。
 日が高い。頭上から痛みを感じる熱光線が降り注ぐ。
 ここ数年の気候変動と大気の汚染から、長く続く道路の上辺に陽炎が昇り立つ様子は少なくなった。陽炎自体は発生しているが、空気が汚れているので嘗てのように美しい揺らめきは中々見られない。
 人の気配は無い。
 暑過ぎて誰も屋外に出ようとしない。
 バスに乗る前に頭からミネラルウォーターを被ったが、今はもう殆ど乾いている。この暑い中でもマスクをするのは異様だと思っていたが、世間の同調に反するとそれだけで目立つので仕方なく使い捨てマスクをしている。『現場』に入ればマスクは外すつもりだ。
 熱い外気が呼吸をするたびに肺に侵入し、体内の粘膜を一瞬で乾かしてしまう様を想像する。
 歩きだす。
 廃棄された廃屋だけが並ぶ無人の区画。
 書類上、誰も住んでいない。計画上、この区域はもう直ぐ更地になる。
 廃屋が並ぶ路地を歩く。黴臭い。限りなく無風。頭上に太陽が有るので日陰は少ない。
 違法建築と違法増築を繰り返した結果、見通しの悪い路地が続く。頭の地図を歩くたびに書き直す。資料で見た地図は役に立たない。それほど傍若無人な違法が繰り返されている。
 あろうことか、勝手に車一台が通行できる道を作っている箇所が何箇所もある。
 無いはずの場所に有る。
 有るはずの場所に無い。
 確かに、これは非合法な社会に住む人間からすれば通年、便利な場所だと理解した。
 今まで様々な土地や物件を見てきたが、こんなにも無法の限りが尽くされている区域は数えるほどしかない。
 ジャケットの右手側のポケットから白い紙箱を取り出してドミニカンメイドのドライシガーを1本、抜く。
「…………」
――――これは、困ったわねえ。
 少し眉を歪めて、銜えたドライシガーに使い捨てライターで火を点ける。
 最近、新しく贔屓にしだしたドライシガーだ。以前は別のドライシガーを吸っていたが、廃盤になり、仕方なく新発売だったこのドライシガーを吸っている。インドネシア葉と比べるとアンモニアじみた風味が皆無で丸みを感じる土の香りが少し強いので好きな部類のドライシガーだった。……それでも長く親しんだタバコが廃盤になり急遽、違うタバコを頼るのは心の切り替えが難しい。
 今回の仕事は強奪。
 縄張りの警戒だけではない。
 小さな規模の取引現場を強襲して金品を奪うだけの仕事。今までに何度も経験が有るので今更呵責の念を感じない。金品の強奪さえ完遂すれば邪魔者は幾らでも殺しても良い。
 話しだけ聴けば一方的な暴力が行使できると錯覚するが、命を奪っても良いと云う態度を見せると、相手は死に物狂いで反撃してくるので、全く油断できない。
 況してや、相手も……相手連中も自分たちの命だけでなくそれぞれが持参している取引材料を守るために命を捨ててでも反撃する。
 襲撃者に対する対策も練られているという前提で行動する。
 予想外も想定内。
 寧ろ、何のトラブルもハプニングもアクシデントも発生しないほうが珍しい。
 ぷかり、と紫煙を吐く。
 これだけ黴臭い路地でもドライシガーの独特の香りは個性的に香る。少しの安息感。左手首の紳士用のロレックス・デイデイトに視線を落とす。午後2時20分。
 無人の区域。人の気配は無い。暑過ぎて、この時間帯はこの廃屋をねぐらにしているホームレス連中は繁華街に出てその路地裏の室外機の風に当たって過ごしている。この区域は全てのインフラが停止しているので、人が衣食住を完結させるには厳しすぎるのだ。
 歩みを止めずに、銜え葉巻のまま、『現場』に向かう。
 黴と埃と彼女の紫煙の臭い。
 煙は霞んだ青空に吸い上げられていく。
 煙が素早く空へ吸い込まれていくのに、体感的に全くの無風なのは釈然としない。頬を撫でる風すらも感じない。感じるのは湿度を帯びた不快な空気の澱みだけだった。
「!」
 不意に、啓子は足を止めた。
 ドミニカンメイドのドライシガーを吐き捨てて爪先で蹂躙する。そのままの動作の延長線であるかのように右手を左脇に滑り込ませて艶消しの黒い肌をした自動拳銃を抜く。
 スラリと伸びた銃身。
 誰もが一度はモニターやスクリーンで視た事があるスタイル。
 ルガーP08。
 ……に酷似した自動拳銃。
 エルマKGP68。
 戦中ドイツの名銃、ルガーP08のスタイルをコピーした後年の拳銃。しかしオリジナルのルガーP08とは内容物は殆ど……全て関係無い。更に寸法も口径も装弾数も違う。
 彼女の手に有るのは全長187mm、重量640g、口径9mmショート、6+1発。
 更にメカニズムも固定銃身で単純なブローバック式。細部のデザインも全く違う。引き金のデザインが大きく違うのでコレクターでなくとも一目見ただけで違和感を覚えるだろう。
 皮肉な事に安全装置に限ってはエルマKGP68の方が優秀だった。引き金をロックするだけでなく撃芯も干渉するのでオリジナルのルガーP08のように30cmの高さから落としただけで暴発する危険性が少ない。
 ルガーP08の安全装置は引き金しかロックしないために、引き絞られた撃芯が衝撃で外れて薬室の実包の雷管を叩く危険性があるのだ。
 ルガーP08の姿をした、ルガーP08とは、魚と鯨ほどの違いがある自動拳銃。
 それが彼女の相棒のエルマKGP68だ。
 アウトラインを拝借しただけあってグリッピングは悪くない。ルガーP08のグリップは本体に対して55度の角度で伸びている。人間工学的に考えると、『握り拳を作り、人差し指を延ばした先に的が指される』のと同じ体感だ。計算されたデザインを踏襲し、更に装弾数を減らし薬莢長の短い9mmショートを使うことで携行し易くなっている。
 今現在のタクティカルアーツを意識した大型軍用自動拳銃と比較すれば時代遅れも甚だしく、また、コンシールドキャリーとしても長い銃身がやや邪魔で不人気。
 それでも啓子はエルマKGP68を使っている。
 スラリと長い銃身が全体のフォルムを引き締めており、デザイン性だけなら悪くない。グリッピングも上々。命中精度も及第点。後年の安全思想で作られた安全装置と可動部位の少なさからメンテナンスを怠らなければ故障する要因も少ない。彼女の職掌としては9mmショート6連発で十分だった。
 見た目はトグルジョイントが付属し、見た目どおりにトグルアクションで排莢。全弾撃ち尽くすとコッキングピースが跳ね起きたまま停止。新しい弾倉と差し換えてコッキングピースであるトグルジョイントを軽く引いてやれば即座に軽い引き金で初弾が撃発する。
「……」
――――5人。……6人かな?
 辻の角で呼吸を殺して立ったまま3秒停止。
 その間に遮蔽となっている廃屋の角の向うに居る気配を読む。
 直感は外れるが違和感は外れないとはよく言ったもので、言葉で説明できない感覚は度々感じている。
 今もそうだ。相手の話し声や呼吸を数えたわけでもないのに何故か、取引現場に双方、3人ずつが出張って来ていると感じた。
 事前の情報では数は不明。だから大切な会社の正規社員こと組織の構成員を消耗させたくないので使い捨て扱いの非正規雇用を送り出した。
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