熱砂の中へと訪れた
勿論、それは延命措置でしかない。
金を払いたくても払う金が入ってこない。
その事実は回避できない。
昨今の疫病騒ぎは表の世界の出来事ではない。表の世界を搾取の対象としている裏の世界としては表の世界が健常健全健在でないと直ぐに干上がる。
皮肉な事に海外にプールした日本円以外の資金が暴落。旧東側の超大国が隣接する国に対して、事実上の侵攻作戦を電撃的に展開したことから国内だけでなく世界情勢も見通しが悪くなってきた。
超大国の侵攻作戦とその泥沼な展開は、アフリカや南米諸国の食糧危機にまで波及するのは必至で、常任理事国は連日連夜、右往左往。
裏の世界の人間だから無関係とは言えない。
社会に無関心でも、社会とは無関係でいられない
期待は裏切られるが、予想は裏切られない。悪い方向に。
即ち、何処の組織も生存戦略の只中で、勢力を伸ばすための工作よりも勢力を維持する工面だけで汗水を流している。
反社会的組織のトップはワンマンで部下や三下のことなどなんとも思っていない……とは、昔のヤクザ映画の世界だけだ。
トカゲの尻尾切りの如く、トップや高級幹部が逃げ出すと必ず、報復される。嘗ての部下や三下に。それに組織と云うのはトップであれ末端であれ、誰が抜けても交代要員が居るから組織であって、たった一人のカリスマで支えられた組織など、組織とは言えない。……それは宗教団体だ。
それゆえ、組織と云う体を為しているからには、トップは構成員を守り、構成員はトップの健在を維持しようとする。
反社会的組織内部に浸透しつつある新しい組織像は、危機に晒されて漸く新陳代謝と自浄作用を見せ始め、帰属意識と内集団的意識を持ち、連携連帯の意義を学び直した。
今はその手痛い代償を払って静かに組織の再編成が繰り返されている。
そんな街にやってきたのが笹井啓子だ。
笹井啓子と名乗る女だ。
啓子はハンドタオルにミネラルウォーターを滲み込ませて頸の周りを拭う。汗を吸わせるよりも頸周りの動脈を冷やすのが目的だ。
セミでさえ鳴かない、蚊も飛ばない気温の中でも啓子が出歩くのは組織による一種のマーキングだ。
常に我らの組織は街を見張っていると云う無言の圧力を振りまく為だ。
エアコンの効いた黒塗りの車で半グレが我が物顔で公道を走っていても、縄張りの巡回は昔ながらの顔が見える距離で行う。
金の価値を知らない半グレは正直なところ、特殊詐欺の頭数以外に使い道がない。
金の価値を知らないゆえに、好きな時に好きな車に乗れて好きな時に好きなスマートフォンを買えると思っている世代で、その金が『発生』するシステムに知識のある人間は殆ど居ない。
今は何処の組織も過渡期である。
国内を見ても海外を見ても、動乱と混乱の時代。今、確かに歴史の潮流の中に居る。
幕末に生まれていたら、戦国時代に生まれていたらと勝手に夢想する人間は多いが、実際にその動乱の最中に生まれても大多数の人間は何もできない。百年後の人間が、かの疫病禍の時代に生まれていたらと勝手に夢想しているのを想像すると頭にくるのと同じ理屈だ。
何もできない。何もできないからこそ、自分ができる事をして毎日を生きるしかない。
それが偶々、啓子の場合、風来坊じみた無職で、毎日の糊口を凌ぐことに暴力を行使しているだけだった。
その生活自体に不満は無い。全国のカプセルホテル限定のミシュランガイドを作れと言われれば制作できるだけの旅をしてきた。その途上で左脇に吊るした相棒の出番となった。
疫病が流行るまではそこそこ実入りのいい仕事を引き受けて生活してきたが、今では非正規雇用……嘗ての任侠言葉で言う侠客として今は生きている。
今はそれで十分だった。
しかし、殺人的な炎天下に縄張りに睨みを効かせにいくのはさすがに根を上げそうだ。
体が十分に冷えないうちに市営バスは目的地に着いた。
「……さて」
ミネラルウォーターの空になったペットボトルを近くにあった自動販売機のゴミ箱に捨てる。
今度はスポーツ飲料を買い、一気に呷る。
水分ばかり摂取だと体液が薄まってナトリウム低血症を起こす。所謂、水中毒だ。万が一に備えてこの時期は塩のタブレット剤を幾つかポケットに入れているが、素早く作用するのはやはりスポーツ飲料に限る。
――――さて。
――――何処からかかりますか。
市営バスが到着したのは住宅街と一級河川の境目にある廃屋が並ぶ『住宅街だったもの』。
戦後直ぐに、まともな整備計画も無しに違法建築や違法改築が繰り返された末路だ。ホームレスの不法占拠や不審火の頻発、不法投棄のメッカ。
都市計画の中で、真っ先に取り組みたい課題なのに未だに手が付けられていない……行政代執行が実行されないのは市議会議員にこの辺り一体の地権者が居て、更に反市長派なので市議会を停滞させるための嫌がらせとして行政代執行を反対している。
更にその議員が強力なのは、支持者の中に複数の反社会組織の二次団体三次団体が組しており、その廃棄同然の区域を都合のいい取引場所として使用しているからだ。
詰まり、一部市議会議員はあらゆる組織から賄賂を得て強権を行使して『表に出ない金』を稼いでいる。
それら組織にしても継続的に袖の下を振り込まないと自分たちの優位性や活動拠点が塞がれるので、議会の誰を賄賂漬けにするかで今後の発展と生存にかかわるので真剣だ。
更に追い討ちをかけて、国の内外では不安定なので組織を維持する資金を崩してまで、居心地のいい場所を維持しようとする、一種のラチェット効果が働いている。
何もかもがこの数年で劇的に変化した。
その中であっても、現場で具体的に働く人間が居るから、上層部はテレワークで勤しめる。
現場としては上層に対して僻みは無い。働く分だけの給料をもらえるのなら文句は無い。更にそれなりに手当てが出るのだから。
啓子の本日の仕事にしても、炎天の下で『日中に鉄火場に赴く』のだから危険手当は相当なものだ。
誰も出歩かないであろう時間帯に、誰も寄り付かないであろう場所で、誰も想像しない仕事をする。
世間ではそう解釈するが、啓子の住む世界ではここ数年では当たり前になっている。
真夏の日中、アスリートでも熱中症で救急搬送される時間帯。どの家屋も窓を閉め切ってエアコンを効かせて昼寝をしている。言うなれば、『太陽が出ているだけの、眠った時間と変わらない』状況なのだ。
嘗てのヤクザ映画のように、深夜に世間の目を憚ってカチコミに繰り出すのは今では半数ほどに減っている。
カチコミにしても鉄砲玉連中はトラックで勢いよく欲真正面から突入するのではなく、バックで徐行より少し早い程度の速度で組事務所の正面玄関から突入する。今の自動車は安全機構に守られているので、前方の障害物にセンサーが働くと自動でブレーキがかかる。更にエアバッグが展開すると運転席に座っている人間はエアバッグで脳震盪を起こし、気絶に近い状態になり、遁走も突入もできなくなる。
時代は変遷する。
それに従って人間も仕組みも運用も遷移する。
昔は良かったと云うのなら、まだ人類は類人猿の時代から進化していない。
進化を捨てて進歩を選んだ結果として時代の流れと云う抗えない不条理と戦わされている。
啓子は歩きだした。
金を払いたくても払う金が入ってこない。
その事実は回避できない。
昨今の疫病騒ぎは表の世界の出来事ではない。表の世界を搾取の対象としている裏の世界としては表の世界が健常健全健在でないと直ぐに干上がる。
皮肉な事に海外にプールした日本円以外の資金が暴落。旧東側の超大国が隣接する国に対して、事実上の侵攻作戦を電撃的に展開したことから国内だけでなく世界情勢も見通しが悪くなってきた。
超大国の侵攻作戦とその泥沼な展開は、アフリカや南米諸国の食糧危機にまで波及するのは必至で、常任理事国は連日連夜、右往左往。
裏の世界の人間だから無関係とは言えない。
社会に無関心でも、社会とは無関係でいられない
期待は裏切られるが、予想は裏切られない。悪い方向に。
即ち、何処の組織も生存戦略の只中で、勢力を伸ばすための工作よりも勢力を維持する工面だけで汗水を流している。
反社会的組織のトップはワンマンで部下や三下のことなどなんとも思っていない……とは、昔のヤクザ映画の世界だけだ。
トカゲの尻尾切りの如く、トップや高級幹部が逃げ出すと必ず、報復される。嘗ての部下や三下に。それに組織と云うのはトップであれ末端であれ、誰が抜けても交代要員が居るから組織であって、たった一人のカリスマで支えられた組織など、組織とは言えない。……それは宗教団体だ。
それゆえ、組織と云う体を為しているからには、トップは構成員を守り、構成員はトップの健在を維持しようとする。
反社会的組織内部に浸透しつつある新しい組織像は、危機に晒されて漸く新陳代謝と自浄作用を見せ始め、帰属意識と内集団的意識を持ち、連携連帯の意義を学び直した。
今はその手痛い代償を払って静かに組織の再編成が繰り返されている。
そんな街にやってきたのが笹井啓子だ。
笹井啓子と名乗る女だ。
啓子はハンドタオルにミネラルウォーターを滲み込ませて頸の周りを拭う。汗を吸わせるよりも頸周りの動脈を冷やすのが目的だ。
セミでさえ鳴かない、蚊も飛ばない気温の中でも啓子が出歩くのは組織による一種のマーキングだ。
常に我らの組織は街を見張っていると云う無言の圧力を振りまく為だ。
エアコンの効いた黒塗りの車で半グレが我が物顔で公道を走っていても、縄張りの巡回は昔ながらの顔が見える距離で行う。
金の価値を知らない半グレは正直なところ、特殊詐欺の頭数以外に使い道がない。
金の価値を知らないゆえに、好きな時に好きな車に乗れて好きな時に好きなスマートフォンを買えると思っている世代で、その金が『発生』するシステムに知識のある人間は殆ど居ない。
今は何処の組織も過渡期である。
国内を見ても海外を見ても、動乱と混乱の時代。今、確かに歴史の潮流の中に居る。
幕末に生まれていたら、戦国時代に生まれていたらと勝手に夢想する人間は多いが、実際にその動乱の最中に生まれても大多数の人間は何もできない。百年後の人間が、かの疫病禍の時代に生まれていたらと勝手に夢想しているのを想像すると頭にくるのと同じ理屈だ。
何もできない。何もできないからこそ、自分ができる事をして毎日を生きるしかない。
それが偶々、啓子の場合、風来坊じみた無職で、毎日の糊口を凌ぐことに暴力を行使しているだけだった。
その生活自体に不満は無い。全国のカプセルホテル限定のミシュランガイドを作れと言われれば制作できるだけの旅をしてきた。その途上で左脇に吊るした相棒の出番となった。
疫病が流行るまではそこそこ実入りのいい仕事を引き受けて生活してきたが、今では非正規雇用……嘗ての任侠言葉で言う侠客として今は生きている。
今はそれで十分だった。
しかし、殺人的な炎天下に縄張りに睨みを効かせにいくのはさすがに根を上げそうだ。
体が十分に冷えないうちに市営バスは目的地に着いた。
「……さて」
ミネラルウォーターの空になったペットボトルを近くにあった自動販売機のゴミ箱に捨てる。
今度はスポーツ飲料を買い、一気に呷る。
水分ばかり摂取だと体液が薄まってナトリウム低血症を起こす。所謂、水中毒だ。万が一に備えてこの時期は塩のタブレット剤を幾つかポケットに入れているが、素早く作用するのはやはりスポーツ飲料に限る。
――――さて。
――――何処からかかりますか。
市営バスが到着したのは住宅街と一級河川の境目にある廃屋が並ぶ『住宅街だったもの』。
戦後直ぐに、まともな整備計画も無しに違法建築や違法改築が繰り返された末路だ。ホームレスの不法占拠や不審火の頻発、不法投棄のメッカ。
都市計画の中で、真っ先に取り組みたい課題なのに未だに手が付けられていない……行政代執行が実行されないのは市議会議員にこの辺り一体の地権者が居て、更に反市長派なので市議会を停滞させるための嫌がらせとして行政代執行を反対している。
更にその議員が強力なのは、支持者の中に複数の反社会組織の二次団体三次団体が組しており、その廃棄同然の区域を都合のいい取引場所として使用しているからだ。
詰まり、一部市議会議員はあらゆる組織から賄賂を得て強権を行使して『表に出ない金』を稼いでいる。
それら組織にしても継続的に袖の下を振り込まないと自分たちの優位性や活動拠点が塞がれるので、議会の誰を賄賂漬けにするかで今後の発展と生存にかかわるので真剣だ。
更に追い討ちをかけて、国の内外では不安定なので組織を維持する資金を崩してまで、居心地のいい場所を維持しようとする、一種のラチェット効果が働いている。
何もかもがこの数年で劇的に変化した。
その中であっても、現場で具体的に働く人間が居るから、上層部はテレワークで勤しめる。
現場としては上層に対して僻みは無い。働く分だけの給料をもらえるのなら文句は無い。更にそれなりに手当てが出るのだから。
啓子の本日の仕事にしても、炎天の下で『日中に鉄火場に赴く』のだから危険手当は相当なものだ。
誰も出歩かないであろう時間帯に、誰も寄り付かないであろう場所で、誰も想像しない仕事をする。
世間ではそう解釈するが、啓子の住む世界ではここ数年では当たり前になっている。
真夏の日中、アスリートでも熱中症で救急搬送される時間帯。どの家屋も窓を閉め切ってエアコンを効かせて昼寝をしている。言うなれば、『太陽が出ているだけの、眠った時間と変わらない』状況なのだ。
嘗てのヤクザ映画のように、深夜に世間の目を憚ってカチコミに繰り出すのは今では半数ほどに減っている。
カチコミにしても鉄砲玉連中はトラックで勢いよく欲真正面から突入するのではなく、バックで徐行より少し早い程度の速度で組事務所の正面玄関から突入する。今の自動車は安全機構に守られているので、前方の障害物にセンサーが働くと自動でブレーキがかかる。更にエアバッグが展開すると運転席に座っている人間はエアバッグで脳震盪を起こし、気絶に近い状態になり、遁走も突入もできなくなる。
時代は変遷する。
それに従って人間も仕組みも運用も遷移する。
昔は良かったと云うのなら、まだ人類は類人猿の時代から進化していない。
進化を捨てて進歩を選んだ結果として時代の流れと云う抗えない不条理と戦わされている。
啓子は歩きだした。
