熱砂の中へと訪れた

 過去に自己暗示を使った結果、自分も『相手』も破滅的な結末直前まで追い込んでしまった経験があるために、自己暗示を使うのなら少しの雑念を交えて完全に集中しないようにと心掛けていたが……【広塚兄弟】の恐怖の圧力に押されてその誓いを……体で覚えさせた誓いを忘れてしまった。
 否、恐怖から逃げる為に『そんな誓いなど無かったことにした』。
 これも彼女の心の弱さが露呈した結果だろう。
 自分を鎮めたいだけの自己暗示なのに、それを行えば確かにノイズが遮断されて静かな世界の住人になれるが、何かの拍子で自己暗示が解けると目を覆う有様になっている。
 昔に、過呼吸に陥るのが嫌で会得した呼吸法と自己暗示。
 今では彼女の潜在意識を一気に極限まで引き出す厄介な能力として彼女は忘れたがっていた。
 修得するのなら呼吸法だけに留めておくべきだった。
 啓子の場合、自己暗示は目的が心の鎮静であっても、その先、その次を制御できない。
 確かに……心は静かになる。
 だが……その世界に踏み込む者、壊そうとする者に対しては意識無く攻撃してしまう。
 その当時の彼女にとっては耳元で羽ばたく羽虫を追い払うのと同じ軽い動作なのだが、意識が戻ると必ず『酷い有様』になっている。
 きっと【広塚兄弟】の弟は『何かに反射した啓子』に射殺されたのだろう。
 これは勝利とは言えない。
 生き延びたが、生への執着が成した技だとは思えない。
 意識を取り戻すと必ず、惨状に自分を責める。鉄火場のど真ん中だというのに、彼女は洟を大きく啜った。
 洟を大きく吸い込んで解った。
 今はこのように悔悟に暮れている場合ではないと。
 小鼻を押さえて20秒数えながら走り出す。
 目標はプレハブ事務所の残骸。まだ煙が立ち昇っている。どんなに頼りない遮蔽でも姿を隠すと云う効果だけは確保されているはずだ。
 20秒経ってから、左手の親指と人差し指で押さえていた小鼻を離す。半べそをかいてしまい、鼻が緩くなり鼻水が出てきた。それを応急的に押さえ込むために小鼻を強く押さえた。迎香。昔よりこの方法は鼻水を一時的に止めるツボ押しとして有名だ。
 【広塚兄弟】の兄の砲撃は止んだきりだ。
「…………?」
 一撃必殺の距離まで近付くとは思えない。
 擲弾手は支援してこそ価値がある。
 最前線まで擲弾手が近付くなど有り得ない。
 それともこの場は弟だけで仕留められると、自分は別の戦線へと出向いたのか?
「……」
――――空気が冷たい。
――――雨が降る?
 ここ暫く、雨が降る気配ばかり感じていて実際に雨が降った事が無いので、一雨欲しい。
 今直ぐ、この場でゲリラ豪雨でも発生してくれれば文句は無いが、土地の形状と今の天候から雨雲は湧き難い。
 その山の麓を開いた近郊の空気が冷えてきたのだ。過ごし易い空気になる。少し、湿度を帯びている。離れた森林地帯の緑の夏草の香りが運ばれてくる。
「!」
 来た。
 啓子は今度も地面に伏せた。
 頭を押さえ、親指で耳を押さえ、口を開き喉を開き、腹部の空気が押し出され易いようにして身構える。
 砲撃が遠くで聞こえた。数秒後、弾着。爆発。プレハブ事務所の残骸からは少し離れている。距離を計るためか着弾修正か、少し間を置いて更に砲撃。相手からこちらが見えていないのか、砲弾が風に流されて思ったように着弾しないのだろうか。
 立て続けに20発近くの着弾がある。
 然し、どれも啓子を仕留める決定打には欠ける。
 やはり風だろうか。冷たく強い風が吹く。推進薬を弾頭に詰め込まれたGPシリーズの擲弾は遠くへ飛べば飛ぶほど、中身の推進薬が燃焼し、その分、軽くなる。着弾する頃には標的とは違う場所へ着弾している場合が多い。
 啓子は何度か砲撃している場所を特定してやろうと試みたが、破片や爆風に顔を撫でられて恐怖に竦み、その場から動けなかった。
 何より……自己暗示にかかっていた間の体の負担が大きく、酷い倦怠感に悩まされていた。寝起きに似た体のだるさと頭の重さ。
 膠着。
 打破する策が見当たらない。
 味方陣営も善戦中。……否、膠着させられている。
 ふと、土の埃が舞い上がる一帯に足音が聞こえた。
 砲撃が止んで数十秒が経つ。
「……?」
――――足音? 誰? 援軍? 味方? 敵?
 小さな涼しい金属音。
 小さな金属のコマが回転するような音。そしてラッチが噛み合う音。
「!」
 何がなんだかは理解していないが、うつ伏せになったままでは危険だと察知して左手側面に体を転がしながら足首、膝、太腿、腰、背中の順で体を側転させる勢いで立ち上がる。
 そのまま、背後を見ずに走る。
 足音の正体を確かめずに危険も厭わずに逃げる。
 蛇行して、倦怠感に襲われている体を鞭打ち、走る。
 風圧で涙が浮かぶ。鳩尾が冷たく痛い。喉が強い渇きを訴える。
 特徴的な銃声。
 直後、啓子のジャケットの裾がボッと音を立てて丸く削り取られたような孔が開く。
 タウルスM513ジャッジマグナムの410番口径。
 彼は……【広塚兄弟】の兄が距離を詰めてきたのだ。
 先ほどの砲撃に少しばかり違和感が有った。
 着弾修正が風が吹いているとはいえ、鈍らすぎた。その間に……GP―34は誰かに砲撃させて、兄自身は距離を詰めていたのだろう。
 弟の敵討ちか仕留め損ねた不甲斐ない弟の尻拭きか? 啓子にとってそれは瑣末な問題だ。
 彼が一人でこの場にやってきた。
 しかも、得意のGP-34を使わず……『感情を乗せ易い』拳銃を拾って、弟のタウスルM513ジャッジマグナムを拾って啓子を仕留めに来る。
 兄は弟より厄介だろう。
 弟より脅威判定は大きいだろう。
 この場で啓子が仕留めなくとも必ず誰かが彼を仕留めなければ『更に大きな何かが危険に晒される』。
 そんな……不安定で危ない雰囲気がした。
 啓子は息を殺して足音を聞く。背後の遮蔽越しにコンパクトを翳して反転した世界を伺う。
「……」
――――距離……15m。
――――エルマだと少し遠い……。
 コンパクトの世界に映る彼は大柄に見える。
 薄い生地の灰色のブルゾンに灰色のカーゴパンツ。野性味が強い風貌で、刃の零れた鑿で粗く仕上げた野牛のような顔。情報屋から仕入れた情報では44歳との事だったが、実年齢はもう少し若く見える。弟の軽薄な雰囲気とは違う。本当の兄弟ではないのかもしれない。
 全長35cmの化け物リボルバー拳銃が目の錯覚でS&W M29の6インチ銃身のようにも見える。それだけ立派な筋骨を具えた大きな体躯だった。
 啓子は『【広塚兄弟】の弟をどのように仕留めたのか記憶に無い』。それでも……兄は弟ほど易くは無いと視て解った。あれは……強敵だ。
 尤も、今まで強敵ではない荒事師は居なかったが。
 正当に王道に、それでいて刃の隙間を縫うような繊細な作戦が必要だ。
 真正面から逃げも隠れもせずに距離を詰めてくる荒事師は、バカか腕利きしか居ない。
 何より、彼自身が正々堂々の勝負に興味は無く、近くに狙撃手を潜伏させている可能性もある。
 自分がこうなら、こうされると嫌だと思うパターンを脳内に出来る限り思い浮かべる。
「……」
 途中で思い浮かべるのは諦めた。
 該当が多すぎて限が無い。
 これから先、両者とも無駄な発砲は少ない気がした。
 彼は6連発のリボルバー。啓子は6連発の自動拳銃。
 再装填の隙間など与えない。与えてくれない。
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