熱砂の中へと訪れた

 『どこか嘲笑っているような嫌なイメージ』が強くなる。この現場に来て、降車した『同僚』たちが全滅した時に感じたのと全く同じイメージ。圧力と言い換えられるほどに強くなる。自分は獲物として認識された。今から殺される。何も為す術も無く呆気なく殺される。恐怖は無い……。
 現実を受け入れた。
 ふと、肩の力が更に抜ける。
 同時に、生きている執着も抜けて、恐慌気味だった自分が過去のものとなった。
 自分は何を為す何者なのかも忘却する。
 深く自己暗示がかかり過ぎた。
 鼓膜が痛い。耳鳴りが痛い。痛みが心地良い。鼓膜にしか神経と命が宿っていないと信じている。
 信じた世界。
 自分だけの、安心できる世界。
 絶対不可侵の世界。
 領域。
 誰からも何物からも守らねば自分が崩壊する。
 『自由への脅威』と呼ばれる認知が形成される。或る特定の仕方で行動するよう自分に圧力がかけられていると云う認知が強くなる。
 自由への脅威度が大きいほど、喚起されるリアクタンスも大きいので社会心理学の世界では『自由への脅威』と便宜的に名前が与えられている。
「……」
 無表情。
 右手がスッと右手側へと向く。
 エルマKGP68を握っている。
 左手は離している。
 ダラリと下げた左手。
 全身が脱力した状態で右手だけが……否、『啓子がエルマKGP68に操られるように』、エルマKGP68が意思を持ったように動く。
「!」
 発砲。エルマKGP68の9mmショートが空を穿つ。
 目を白黒させたのは、啓子の右手側の遮蔽の残骸から蛇のように音も無く距離を縮めていた【広塚兄弟】の弟だった。
 その彼我の距離、実に2m。
「な! 『起きてる』のかよ!」
 彼は咄嗟にタウルスM513ジャッジマグナムを啓子に向けたが、エルマKGP68の銃身がタウルスM513ジャッジマグナムの長大な銃身を弾き飛ばして火花が散る。
 距離を取ろうと彼の体がバックステップを踏む。
 彼は遊びすぎた。実力を過信して啓子と距離を詰めすぎた。遊びすぎた上に、啓子に自分だけの世界の闖入者として認識されてしまった。
 構えも何も無い。
 啓子はエルマKGP68に引っ張られるように体を動かし、彼との距離を開けるまいと踏み込んだ。……しかし、依然、啓子の目には精気が無い。
 それどころか彼の姿を視界に捉えていない。
 顔自体が地面を向いたままなのだ。
 聴覚だけに全神経を乗っ取られている。
 彼は退く。
 彼女は追う。
 彼は発砲の機会を窺うが、彼女が距離を離さない。
 また、近付いて殴る蹴るを試みたが、軽いステップを踏んで軽やかに躱される。掴みかかる左手首など、何度も彼女の飾りのような左手……に持った予備弾倉で殴り付けられて皹が入ったように痛む。
「なんだよ! お前!」
 外灯の下まで来た時に堪らず【広塚兄弟】の弟は叫んだ。
 啓子は無言。
 誰が視ても解る。この女は正気じゃない。テナントビルの3階で見た、弱そうな拳銃使いとは違う。
 彼は焦っていた。33年間生きていて、海外で戦闘訓練を積み戦闘経験も得ている彼が……軽佻浮薄を売りにして他人に対して実力を韜晦してきた彼が、初めて得体の知れない、自分の想像の範疇外に居る生物と戦っていることに気が付いた。
 彼が一番……最も、脅威だったのは、彼のタウルスM513ジャッジマグナムが彼女に『見えていない』事だった。
 彼女はこちらを向いていない。
 なのに何故こちらの出方が全て解る? 元から目が見えない世界で生きている人間でもこんなに素早くは動けない。
 空間把握力が人のそれを超えている。
 何も視ていないのに。何を視て、何を知り得ている?
 ジャリジャリ、と彼の体が地面の釘や番線を踏みしめる。兄の砲撃で破壊した資材の辺りまで押し返されている。
 背中を見せて逃げるのは吝かではない。
 ……だが、『この女は確実に撃つ』。背中から撃つ。『見えていなくとも、撃つ』。
 不気味だ。この女の呼吸は全く乱れていない。能面のように静謐な顔。精気が無い目。死体が素早く歩いて拳銃を握っていると形容してもいい。
 タウルスM513ジャッジマグナムを両手で保持して力押しで振りかぶる。
 今までのパターンなら、この女は片手で……ルガーP08モドキでタウルスM513ジャッジマグナムの銃身同士をぶつけて銃口を逸らすだろう。
「死ね!」
 柄にも無く彼は無様な、使い古された台詞を吐く。
 彼らしくない、軽佻浮薄とは程遠い台詞だった。
 銃身に銃身をぶつけてきても、力押しして弾き返してこの女の頭を454カスールで吹っ飛ばしてやる!
 彼の渾身の銃身。全力を乗せた大きなモーション。
 躊躇わず発砲。
 途端に違和感。
 強烈な錯覚。
 認知に誤差。
 ありえない事象だと数瞬後に認識。
「!?」
 確かに彼のタウルスM513ジャッジマグナムは彼女の頭部を狙った。
 残像が見えた、と言っても誰も信じないだろう。
 エルマKGP68が『中空』で停止。
 滞空。
 そこまでだ。
 彼が目で追えたのはそこまでだった。
 彼女は地面に飛び込んで潜るような速さで沈み込み、足元の番線を掴んで、タウルスM513ジャッジマグナムの銃口に、番線を一輪挿しでも差すかのように差し込んだ。
「!」
 エルマKGP68が自重で落下し、地面に激突する瞬間に彼女は体をくるりと仰向けになり、愛銃を右手でキャッチして彼の顔を寝そべりながら見ていた。
「おい! 待て!」
 タウスルM513ジャッジマグナムは『リボルバー拳銃』だ。
 銃口から硬く細長い番線を差し込まれて、銃口から銃身、シリンダーギャップを突き抜けて、発砲したばかりの薬室の空薬莢の底部まで一直線に『硬い棒状の物』で固定されると、引き金を引くことも撃鉄を起こすことも出来ない。
 つまり、今の彼の化け物リボルバーは、一時的に銃の形をした飾りなのだ。
 スウっとエルマKGP68の銃口が、足元を見て焦りと驚愕が入り混じった彼の顔を捉えて、それから先の……命乞いなのか、仕切りなおしの懇願なのか、何かの非難なのかは解らない台詞を銃声が遮った。
 発砲。
 空薬莢が弾き出される。
 彼の額に風穴が開き、彼の首は不自然に直角に後ろへ倒れてそのまま、体も倒れる。
 じゅ。
 ……と、熱い空薬莢が、今し方エルマKGP68が弾き出した、熱々に焼けている空薬莢が、啓子の眉間に当たり、軽い火傷を作る。
「あっつ! 熱っ!」
 啓子は電気のスイッチを切り替えたように突然喚き出した。顔を押さえて寝転がったまま悶える。
 啓子が自分自身にかけた自己暗示が強制的に解除された。勿論、直接の原因はエルマKGP68が弾き出した空薬莢の熱だ。
「……え?」
 身を起こし、自分の背後で大の字になって倒れている【広塚兄弟】の弟を見て目を白黒させる。
――――『まさか!』
――――『また……やったの!?』
 笹井啓子と名乗っている女……生来、精神的ストレスに弱く、メンタルケアを効率的に行う手段として呼吸法や自己暗示を会得はしていたが、深く埋没し、トランス状態に陥ると、『誰も解けない』催眠にかかりやすい脳の構造をしていた。
 それを制御する為に出来る限り、自己暗示は使わず呼吸法だけで恐慌状態に陥る自分を宥めてきたが、極度の緊張状態に陥ると、逃げるように自己暗示を自らに使う。
 そして二律背反に自己暗示を嫌う。
「ああああ……」
 啓子は鉄火場の真ん中なのに、座り込んだまま左手で顔を覆って自棄飲みした翌日の後悔に悩まされるのと同じ気持ちで自分を責めていた。
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