熱砂の中へと訪れた

 ……知っているはずと云う思い込みも危険だが、それと同じくらいに、『自分が連中の立場ならどのように行動するか、どのような反応をしてしまうか?』と云う視点で考えてしまうのだ。
 小走り。ややすり足気味。重心移動を安定させる。船ゆえに時折、波で揺れる。2人分の足音が聞こえる。
 奥まった、船倉へ降りる階段が有る方向。
 空気が更に淀む。重油の臭いが混じる。機関室の回転音が聞こえる。
 足音が複数。多くはない。やはり、2人分。
 この仕事場での終局も近いと感じた。
 追い詰めたから王手とは限らない。
 追いかける側だから勝利するとは限らない。
 いつ、どこで、なにが、どのように、どうして、どれくらい逆転するかは誰も予想できない。
 人類はたった1秒先も正確に未来予知できない動物だ。1秒先でも予知できるのなら、地球上の半分以上の博打行為は面白くなくなっているだろう。
 鳩尾の辺りに痞えを感じる。喉が相変わらず渇く。体温が高いのか低いのか解らない。空気が不快で気温も心地良いとはいえない。
 更に耳栓をしていても甲高い耳鳴りが『外部から聞こえるような』幻聴。
 自律神経が一時的に乱れているらしい。
 コロシや鉄砲玉を任せられる荒事師だから心身ともにタフとは限らない。優れた技術を有していることと、職場で長く働けるか否かは別問題だ。……それゆえに普段からのメンタルケアや身体機能の維持と管理は慎重になる。
 極度の緊張に直面して、副交感神経と交感神経の連携が乱れている。人間の自律神経の機能と生理的行動は妨げることは出来ない。
 何度も犬歯を舐めて唾液を分泌させ、それを飲み込む。僅かな水分で喉を潤そうと努力する。
「!」
 発砲! 先制された!
 船倉へ降りようとした瞬間に4m向こうの隔壁の遮蔽からフラッシュライトの強力な光を当てられて視界を一瞬奪われる。それと同時に乱射。連射。
 相手の銃声を数えている暇は無かった。
 それが攻撃なのか牽制なのか、銃声で判断している暇も勿論無かった。
 今は世の中の全ての神様に祈るよりも早く、バックステップを踏んで背後3mの位置に有った隔壁の遮蔽へと身を潜ませるので頭が一杯だった。体の各所にターボライターで舐められたような熱を感じる。複数箇所で擦過傷を負ったらしい。
 遮蔽の角へ後退して荒い呼吸を兎に角、鎮める。
 過呼吸を起こしそうな自分を気力だけで制御する。
 命の危険に晒されて脳内麻薬が噴出しているような極度の緊張状態では、呼吸が浅くなって回数が増えている場合が多いので、深く大きく長く、それでいて呼吸器系が疲労を感じない自然呼吸を繰り返さないと簡単に過呼吸で倒れてしまう。
 過呼吸の対処で、嘗て流行った紙バッグ法は今では時代遅れだ。吐いた二酸化炭素を大量に吸い込んで、血中の酸素濃度のバランスが崩れて酸欠になるので過呼吸の対処法としては今は教えていない。
 理屈としては、過呼吸は酸素過多なので、吐いた二酸化炭素を取り込むことで酸素のバランスを図る方法だが、その加減が難しいので推奨から外されたのだ。何より……『医者が教えるのだから効果があるのだろう』というプラセボ効果が高いだけなのだ。
 目の前が白く霞む。奥歯で舌を血が出るほど噛みしめる。正常でない呼吸。
「……え」
 ずるずると啓子の体は背中を壁に預けたまま崩れていく。
 自己暗示を何度も繰り返す。
 直ぐに立てと、自分に心の中で叫ぶ。
 体の全ての粘膜が干からびたような、形容し難い不快感に急激に襲われる。
 頭が沸騰しているのか急激に冷えているのか解らない混濁。
 自我も魂も精神も全てが解離したかのような強烈な恐慌。……極め付けが……『自分は死んでしまう』と云う恐怖と焦燥に飲み込まれる。
 壁に背をもたれさせたまま、啓子の体が砂の城のように床に崩れ落ちて行く。
 ゴトリとエルマKGP68が床に転がり、涙と洟と涎を垂らしたまま啓子はパニック発作に飲み込まれた。
 彼女の見開いたままの目の前を2人分の脚が過ぎ去って行ったが、彼女は、何も出来ないでいた。
 何も出来なかった。
   ※ ※ ※
 異変を感じた内臓回収チームが船内に突入して、目を開いて倒れているままの啓子を引き摺って脱出したのは4日前の出来事だった。
 内臓回収チームとしては2人分の人影が船から逃げ去った後に、『啓子の死体を回収する』つもりで船内に侵入し、正気で無い啓子を回収しただけだ。
 その場に不審な人間を放置しておけば、日が昇る前に出勤してきた港湾関係者や船舶関係者に通報されてしまう。
 要らぬ火の粉を片付ける理由で啓子を回収しただけ。助けてやる計画ではなかった。寧ろ、『正社員』に人的被害が及ばないように雇った非正規雇用がこの体たらくでは信用も信頼も置けなくなる。
 今回の失態はペナルティとして給料が半分以下に減らされた。
 組織の庇護下に有る流れ者としてはこれは辛い。これ以上ないほどに。
 体のあちらこちらに擦過傷の傷を塞いでいる大型の絆創膏や包帯が見られる。
 塒のビジネスホテルの自室で、いつもの簡素なデザインの下着姿でベッドの上で胡坐を書く。
 口にはいつものドライシガー。火は点いていない。
 雇用主の組織から小言を喰らうのは痛い。
 信用と信頼は簡単に失墜する。この道に入ればたった3日の新人でも他の連中は新人だからと手加減してくれない。その道のプロだと判断し、尚且つ、100点満点は当たり前に求めて120点の出来栄えで初めて褒めてくれる。
 たった一度の失敗。
 それだけで彼女の評価は大きく落ちた。
 挽回する余地は……実のところ、多くはない。
 人の数が少ないから使ってはもらえるが、下らない、三下同然の仕事しか廻ってこないだろう。
 サイドテーブルに彩が持って来た書類が入った封筒がある。
 中身は新しい仕事の『仕様書』とその資料だ。その仕事見て愕然とした。
 老人夫婦の営む、古いだけが取り得の質屋に押し込み強盗を働いて売上金を奪うだけの仕事だ。
 ベッドで胡坐を書く啓子の顔色が悪いのは、虫の居所が悪いからだ。自分自身を激しく責めている。
 幾ら、今の自分は過去には居ないと言い聞かせても、腹の虫が収まらない。
 過去は過去、今は今。
 その切り替えが得意なはずの啓子が落ち込むのだから、半グレか素人かカタギでも出来る仕事をやらされるのは……罰ゲームだと解っていたのだ。
 誰でも出来る仕事をやらせる事によって同僚からの蔑みの対象にさせる。
 それと同時に、しくじった者はこのような処遇になるという見せしめ。
 いつまでもこの組織で居座ろうとは思っていない。元から流れ者なので違う組織に鞍替えすればいい。だが、低い評判は付いて回る。
 それを挽回しないうちにはこの組織を去れない。
 最早、信頼と信用を取り戻す為に、何でも引き受けると自暴自棄になりかけている。
 そして、自暴自棄になる自分と、プライドを保てと云う自分が鎬を削っている。
 この組織、この街、この地から去っても、低い評判の届かない場所へ行っても、今度は自分のプロとしての矜持が許さない。
 板挟み。
 組織はこの苦痛を味あわせたくて、このような誰でも出来る仕事を押し付けてきたのだ。
 試されていると同時に笑われている。
 逃げることも留まることも苦痛。
 たった一度の失敗でこの扱い。
 それが非正規雇用の辛い現実だ。代わりは幾らでも居る。勝手にしろ、と言外に通告されている。
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