熱砂の中へと訪れた

 右手側へ折れる。
 船内の見取り図は頭に入っている。3層からなる船。
 艦橋中心の最上層。居住空間と作業のための中層。機関部が大方を占める下層。
 船は迷路ではない。人間の動線を優先して設計されているものだ。見取り図はなくとも空間や部屋の意味は分かる。廊下も単調だ。
 静かな船内。
 足元から伝わる内燃機関の震動。時折、年季が入った送風機の風が唸る。……静か。雑音が皆無なのではない。印象として『寝静まったように大人しい空間』が広がっているのだ。
 標的は高井明人のみ。
 殺してはいけない。
 すうっと右手のエルマKGP68を両手で保持。銃口の向きと視線の向きを一致させる。爪先に重心を置く。いつでも短距離ダッシュができる。肘をやや引き小脇を締め、顎を引く。だが決して、猫背にはならない。
 撃つとすれば短い銃撃で済む。
 根拠は無いがそんな気がした。
 違和感が湧く。直感より、違和感が自分を守って導いてくれる。
 経験上、咄嗟の判断の前に句読点を置くように意識するとその直感を疑ってしまう。
 そして疑った結果、何度も助かった。
 自分だけの成功体験を積み続けたのだ。
 成功体験は自分の内面世界にだけ言い聞かせるから価値があると啓子は思っている。彼女は年長者が成功するメソッドを記した著作を鼻で笑うタイプだ。人の数だけケースが有るのなら、人の数だけ経験と環境があるわけで、一人のカリスマが導いて教え広めるのは危険だと思っている。それを聞いている人間は思考が動脈硬化してしまい、メソッドがハウツーになってしまう。自分だけのアプローチを確立してこそ他人のケースが参考になる。
 楽をしたいからと、自分とは相反しているかもしれない方法論を取り入れても遠回りや失敗をするだけだ。何より、戦略の失敗は戦術では挽回できないのだ。
 その感性は自分で磨くしかない。
 その観点では、啓子は古いタイプの人間だと云えた。
 エルマKGP68が突如発砲。
「……」
――――1人!
 角を曲がった位置に誰か隠れていると感じた啓子は位置がばれるのも構わず、発砲した。
 その勘は当たりで、角の向うから驚きのあまり、叫ぶ声が聞こえた。
 空かさず、その角に隠れていた人物は右手首を不自然に捻って左手側へ折れる角から突き出し、手に持った大型軍用自動拳銃を乱射する。
 『当たらない』。
 近過ぎる。角度が違い過ぎる。反動を制御できていない。何よりこちらを視ていない。適当な牽制。
 船内に銃声がくぐもり、その隙間に無秩序に吐き出された空薬莢が小賢しい金属音を立てる。
 啓子はたった1mの距離から先制された発砲だったが、全く怯まず、射的の的を狙う目で、その人物の右手首に9mmショートを叩きつけて無力化させる。
 引き千切れそうな右手首は命中の反動でSIGザウエルP226かそのコピーと思われる大型軍用自動拳銃を放り出して、角に引っ込んだ。迷わず追撃。
 1m前に有る角から体を全身晒すような飛び出し方はせず、頭を極端に低くした状態で腰を深く落とし、右膝を床に衝く。その状態で上半身だけを大きく床面に近付ける。
 恰も、地面から上半身が伸びて右手側に倒れているかのような銃の構えだった。
 発砲。
 その人物が隔壁の向うへ行こうとした背後から、左軸足のひかがみに向かって撃つ。3mの距離。外しはしない。
 啓子は命中を確認すると、即座に不自然な見た目の構えを解いて目前で倒れて呻いている男に小走りに駆け寄る。
「ねえ、高井はどこ?」
 啓子は銃撃してきた男……今は軸足を撃ちぬかれて悶絶している男の顔を見ながら言う。
 額に大粒の汗を浮き上がらせた40代前半の男は聞くに堪えない罵詈雑言を並べたので脊髄反射的に頭部を蹴り飛ばしてしまった。
「……ありゃ」
――――しまった!
――――口が聞けない!
 顔と云うより、背格好を見ただけで標的の高井明人ではないと思っていたので気が緩んでいたのだろう。……口を割らせるつもりが気絶させてしまった。
 悔やんでも仕方ないので頭を即座に切り替える。
 ここに迎撃をしてくる人間が居た。
 この船内に標的は居る。
 足止めを自ら買って出るような、囮を引き受けるような作戦を仕掛けさせるほど、高井明人の人望は厚くない。
 それだけの人望が有れば、借金取りに追いかけられることはない。
 前後左右を確認した後、弾倉を引き抜き、ジャケットの両ポケットにいつも入れているバラ弾を抜きだして補弾する。
 再びエルマKGP68を構える。今度はきびすを返し、今来たルートを逆に辿る。
 この場所で銃声が聞こえたのなら、『襲撃された側、追われている側は反対方向へ』向かう事を本能的生理的に選ぶ可能性が高い。
 素人同然の人間が、右手首を失う重傷を負った人間が正常な判断で意味があって隔壁の向うへ逃げようとするなど考えられない。
「ビンゴ!」
 心の中で口笛を吹く。
 啓子が乗船してきた出入り口がある付近で人影が見えたので牽制と足止めのために3発、発砲した。
 エルマKKGP68から弾き出された空薬莢が壁に当たり、天井で跳ね返り、啓子の脳天を軽く叩く。
 銃本体の真上に排莢される自動拳銃の意外な難点の一つとして、自分の拳銃が排出した熱い空薬莢が首元や襟付近や広く開いた腋部分に入り込んで火傷することだ。
 ……この事故は意外と多い。
 現在デザインされている殆どの自動拳銃は、右手利きが右手で構えて発砲する事を前提しているので空薬莢が弾き出される方向は右上方や右側が多い。
 更に無用に空薬莢を遠くへ飛ばさないように、足元へ落ちるように工夫されているモデルも多い。
 9mmショートの空薬莢が啓子の衣服の間に飛び込んで火傷するかもしれない危険は常に潜んでいる。特に狭い場所での発砲は空薬莢が弾かれて、何処へ飛んで行くかは解らない。
 空薬莢が何処へ飛んで行くのか解らないのと同じくらいに、『固い床や地面』で気を付けねばならない事がもう一つある。
 それは空薬莢を踏みつけて転倒しないか注意することだ。
 室内で大量の空薬莢をばら撒くと、その転がった空薬莢を踏みつける可能性が高くなる。映画やドラマのように景気良く空薬莢を弾き出すのは実際には危険な行為だ。……空薬莢は人間の体重程度では変形しない。
 ゆえに、啓子は狭い場所での発砲や、固い床での発砲は細心の注意を払っている。
 その延長線上の思考で、彼女は無為に銃弾をばら撒くことをしない。一撃必殺一発必中を旨とせず、一打入魂を心掛けているが、やはり、命中精度が高く、リスクは低い方がいい。
 3発の牽制の後、船の出入り口へ向かおうとしていた2人分の人影は再び『頭を押さえられてしまい』、船倉付近へと後退した。
 連中は余程驚いたのか、咄嗟の反撃も行わなかった。
 反撃が無いのは嬉しいが、調子に乗って殺してはいけない。
 今回は高井明人の内臓に用があるのだ。鮮度が高いまま組織の回収屋に渡さなければならない。
 右手でエルマKGP68を保持して前進しつつ、左手に予備弾倉を抜く。目前4m先の角を曲がったら必ず反撃される。
 脳内の見取り図を俯瞰すると、この奥には隠れたり篭城したり出来るドアつきの区画や部屋は無い。遮蔽は多いが、長く潜伏するには不向き。
 この船を塒にしていたのなら、この船のメリットとデメリットも知っているはず。
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